2024年3月10日



「イエス様の受難と復活の予告」


新約聖書:マルコの福音書10章32節〜45節



T.受難と復活の予告(32-34)


まず、32節~34節を見ていただきたいと思います。ここで、イエス様は受難と復活の予告をしています。この予告は3回目の予告です。


a)1回目の受難と復活の予告(マルコ8:31〜38)

1回目はマルコの福音書8章31節~38節です。これは、イエス様がベツサイダで盲人の目を開ける奇跡を行った後、弟子たちとピリポ・カイザリヤへ行く途中で、弟子たちに語られました。ベツサイダはガリラヤ湖畔の街で、ピリポ・カイザリヤはさらに北にある街です。


b) 2回目の受難と復活の予告(マルコ9:30〜32)

2回目はマルコの福音書9章30節〜32節です。これは、ピリポ・カイザリヤから戻ってきて、ガリラヤを通ってカペナウムへ行く途中で語られました。カペナウムもガリラヤ湖畔の街でベツサイダの対岸です。


c) 3回目の受難と復活の予告(マルコ10:32〜34)

そして、3回目が今日の聖書箇所の中の、マルコの福音書10章32節〜34節です。3回目はエルサレムに上る途中での出来事でした。

この時、イエス様は弟子たちや付き従ってきていた人々の先頭に立って歩いて行かれていました。

そして、今回エルサレムへ行くと、一体何が起こるのかを弟子たちにお話しになりました。3回目の予告が、何が起こるのかを一番詳細に語っています。



U.ヤコブとヨハネの願いとイエス様のこたえ(35-40)


しかし、イエス様の受難と復活の予告に続く35節〜37節を読むと、弟子たちがイエス様の予告を全く理解していなかったことが分かります。ヤコブとヨハネの兄弟は、受難と復活の予告を聞いたあとに、あろうことか、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」とイエス様にお願いしました。しかし、実は、ヤコブとヨハネだけがイエス様の教えを理解せず、野心家であったわけではありません。


a)イエス様をいさめるペテロ

1回目の受難と復活の予告のあと、ペテロはイエス様をわきにお連れして、いさめはじめました。マルコの福音書には何をいさめたのか書かれていませんが、マタイの福音書には、書かれていますので、読んでいただければと思います。

マタイの福音書 16章22節

ペテロも、この時点ではイエス様の十字架を理解することができませんでした。そして、きっと、自分は弟子たちの中でリーダー格だから、自分がみんなを代表してイエス様がおかしなことを言うのをいさめなければと思ったのでしょう。


b)誰が一番偉いかを論じ合う弟子たち

次に、2回目の受難と復活の予告を聞いた後は、弟子たちは誰が一番偉いかを道々論じ合っていました。これは、ヤコブとヨハネがイエス様にお願いすることになる布石になっているかもしれません。


c)そして、3回目の後とイエス様の教え

そして、3回目の受難と復活の予告を聞いたあと、ヤコブとヨハネはイエス様の右と左にすわらせてくださいとお願いしましたが、それがどういう意味を持つのか全く理解していませんでした。ヤコブとヨハネは、イエス様がイスラエル王国を再興して、新しい王さまになるなら、自分たちを大臣にしてくださいというくらいのつもりだったと思います。

ヤコブとヨハネは、弟子としてずっとイエス様に付き従ってきました。イエス様の受難と復活の予告を聞いて、まさかイエス様が処刑されるとは思わず、自分たちに都合良く解釈して、イエス様が王さまになってくださって、イスラエル王国の再興は近いと思ったのでしょう。だから、他の弟子たちを出し抜いて、急いでイエス様にお願いしなければと思ったのだと思います。道々、誰が一番偉いのかを論じ合うくらいですから、のんびりしていたら大臣の地位を他の弟子に取られてしまうかもしれませんから。

このところから分かることは、弟子たちは、イエス様を旧約聖書で預言されてきたメシヤだと信じてはいましたが、メシヤの役割については全く理解していなかったということです。

十字架後の世界に生きる私たちは、イエス様がこの地上でイスラエル王国を再興する新しい王さまとして来られたのでは無く、ユダヤ人だけで無く、全世界の人々を罪から救う救い主として来られたことを知っていますが、まだ起こっていないことについて、弟子たちは理解することができませんでした。

ここで、間違えてはいけないのは、私たちは、安易に弟子たちは愚かだと言えないと言うことです。私たちは十字架後の世界に生きているので、エルサレム入城後に起こったことも、十字架上で起こったことも、その後のイエスさまの復活のことも、そして、復活の意味についても知っていますから、共観福音書に書かれている「受難と復活の予告」について理解することは弟子たちと比べたら難しくないと思います。

弟子たちは、弟子たちなりに、きっとイエス様はこういう風にユダヤ人を救ってくれるのだろうな、と想像していたことがあると思います。それが、十字架の時が近づいてきて、イエス様が弟子たちの想像していたのとは違うことをお話しされだしたので、きっと、弟子たちは困惑し、イエス様のお話しになったことを比喩的の捉えて、自分たちの想像しているユダヤ人たちの救いとすり合わせて、そろそろイエス様がイスラエル王国再興に動こうとされているのだ!と思ってしまったとしても、仕方の無いことだったのかな、とも思えます。

その証拠に、イエス様は、受難の前の弟子たちの言動にがっかりされている様子はあっても、義憤により激しく叱責されたり、弟子たちを裁いたりはされていません。それは、今はトンチンカンな弟子たちも、受難と復活が起こった後には、十字架と復活の意味を理解し、信仰が新たにされ、信徒たちのリーダーとして信仰を導いていく存在になることが分かっていたからだと思います。

これは、私たちも同じで、これから起こることに対しては、祈り願ってこうなって欲しいと願っていても、必ずしも願ったとおりにはならないことがあって、そういうときは、弟子たちと同じように実際に起こっていることと自分の願いをすり合わせてトンチンカンな対応をしてしまうことがありますが、信仰を持って神さまのみこころを受け入れていくと、さらに信仰が成長させられるということがあります。それは、身近なことの場合もあると思いますし、このあと起こると聖書で預言されている再臨のことでもそうだと思います。



V. 10人の弟子たちの反応とイエス様の教え(41-45)


さて、41節〜45節には、イエス様の右と左に座らせて欲しいと願ったヤコブとヨハネのことを聞いた残りの10人の弟子たちの反応とそれに対するイエス様の教えが書かれています。

12人の弟子たちは、道々誰が一番偉いのかを議論するような人たちなので、当然、ヤコブとヨハネの兄弟の願ったことを聞いたら、腹を立てました。12人の弟子たちは、今までイエス様の教えを一番近くで聞いてきたはずなのに、この時点では誰も、今生きている世の中で受けることができる富や名声の欲から離れることができませんでした。

もし、私たちがぎゅっと手を握ったままでいたら、「はい、これ、あげるよ。」と言われたとき、受け取ることができませんよね。もし、私たちがこの世の富とか栄誉とかいうものをぎゅっと手に握ったままでいたら、神さまが私たちにくれようとしているあらゆる良いものを受け取ることができません。私たちに与えられようとしているものを受け取るためには、今握っている手を一旦開かなければいけません。その時に、今握っている富とか栄誉とかいうものは一旦手からこぼれ落ちるかもしれませんが、私たちが手を開くなら、神さまは今まで握っていたものよりももっと良いものを下さろうとしておられる方だということを知ってほしいと思います。ただ、それは、今私たちが生きているこの世界での富とか栄誉とかとは違うものである可能性もあります。だから、イエス様は弟子たちにことあるごとに、「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と教えてこられたのです。



W. では、私たちはどうあるべきなのか


a) イエス様は先頭に立って行かれた(私たちの人生の先頭を歩いてくださる)

エルサレムに向かうとき、イエス様は弟子たちや付き従う者たちの先頭に立って歩いて行かれました。この時、イエス様は父なる神さまのみこころを忠実に行うことを決意していました。神さまのみこころを忠実に行うということは、エルサレムで捕らえられ、裁判にかけられて十字架で処刑されるということですが、それすら受け入れていました。皆の先頭に立って歩いて行かれたというのは、その決意の表れでもあったと思われます。

そして、イエス様は苦難の先にある喜びを見ておられました。

イエス様の受難は、復活とセットです。私たちが待ち望むイースターは、イエス様が十字架で処刑された日を悲しむための日ではなく、イエス様が死に打ち勝って復活されたことを喜び、お祝いする日です!

そして、この重要な場面で、イエス様が皆の先頭に立って歩かれたということは、私たちの人生の中の重要な場面でも、イエス様は私たちの前を歩いて、私たちを導いて下さる方だということです。私たちは人生の岐路に立たされたとき、孤軍奮闘する必要はありません。いつも、イエス様が私たちの前にいて、私たちを導いて下さっています。私たちはいつでもイエス様に頼ることができるのです!


b) しもべになる(まず、イエス様がしもべになられた)

そして、イエス様はいつも私たちの模範です。私たちは何でもイエス様の真似をして良いのです!

旧約聖書の時代、イエス様は父なる神さまと一緒にいて、神さまとしてのお働きをされていました。しかし、イエス様はその神さまとしてのあり方を捨てて、小さな人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれてくださり、最後は私たちの罪の贖いのために十字架の死までも受け入れてくださいました。

パウロはこのように言っています。お読みください。

ピリピ人ヘの手紙 2章6節〜8節

イエス様の「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」という教えを、イエス様自身が模範として示してくださっています。そして、このようなイエス様のありようを模範とすることを難しく考えないで欲しいのです。これを、いつでも自分が我慢して他の人を優先させることだと思わないで欲しいのです。私たちは我慢して他の人たちの奴隷になる必要はありません。私たちの信仰が行いにあらわれるようになると、自分で頑張ったり努力したりするのではなく、自然とイエス様が教えられたようなしもべとしての行いができるようになるのです。それは、他の人たちの奴隷になることとは違います。イエス様は、決して、私たちに自分を殺して他の人たちの奴隷になるように言われているのではありません。そこは、誤解しないでいただきたいと思います。

また、イエス様がこのように言われていることもご紹介しておこうと思います。

マタイの福音書 6章20節〜21節

その具体的な例が、マタイの福音書 25章31節〜40節に書かれていますので、ここもお読みいただきたいと思います。

私たちは、イエス様が望まれているように、このような天に宝を積む行いができる人になれるように祈り求めていきたいと思います。今、できていないなら、自分で頑張ろうとするのではなく、まず、神さまに祈り求めていただきたいと思います。


c)十字架と復活

さて、最後に、一番大切なことですが、私たちはイエス様の十字架による私たちの罪の贖いと、イエス様の復活により私たちにも永遠のいのちが与えられていることを信じたいと思います。

私たちの善い行いは私たちを救うことはできません。それは、信仰のあらわれとして行いにあらわれてくるべきものです。

私たちの罪を赦し、救うことができるのはイエス様の十字架だけです。そして、十字架と復活はセットです。イエス様は十字架の死に終わる方ではなく、三日目に復活され、私たちに永遠のいのちを約束してくださっています。私たちは、そのことを信じたいと思います。


最後に、ヘブル人への手紙 12章2節をお読みください。


説教者:菊池 由美子 姉



<マルコの福音書 10章32〜45節>

32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。

34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」