2023年8月20日



「イエスの十字架〜このためにこそ」

新約聖書:ヨハネの福音書12章27〜50節



過越の祭りの5日前、イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入場します。群衆はイエス様を「ホサナ」と叫びながら迎えます。また祭りに来ていた何人かのギリシア人が弟子の一人ピリポにイエス様に会いたいと頼みます。この時イエス様はとても重要なことを話されました。 今日はその続きです。


1.アウトライン(みことばの説明)

「今わたしの心は騒いでいる。」とは、ご自分の死を目前にしたイエス様の悲しみ、苦しみが非常に大きいものだったことを表しています。「このためにこそ、わたしはこの時に至った。」それは私たちをこの世の悪の支配から救い出すためでした。

イエス様が「御名の栄光を現してください」と祈ると、「天からの声」が聞こえました。ある人はこれを雷が鳴ったと言い、ある人はみ使いがイエス様に話しかけたと言います。神様の言葉は聞く耳のある者にしか理解できません。

「今がこの世のさばきです。今この世を支配する者は追い出されるのです。」とはイエス様がご自分の死によって悪魔の支配から人間を取り戻すということです。

イエス様が群衆に、ご自分がどのような死に方で死ぬかを話されると、群衆は、どうしてあなたはそのようなことを言うのかと食ってかかりました。しかしイエス様はそれに答えず、光である自分を信じて光の子どもになりなさいと話されました。頑なにご自分を拒む群衆に、イエス様は最後までご自分を証しされました。イエス様が群衆の目の前で、多くのしるしを行われたのに、群衆はイエス様を信じませんでした。それは預言者イザヤの言葉が成就するためでした。


2 クリスチャンは光の子ども

イエス様は光であり、信じた私たちは光の子どもです。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(1テサロニケ5: 5)。しかし光の子どもとなっても苦しみや悲しみが全てなくなるわけではありません。苦しみや悩みがあったとしても自分が神様の子どもであり天の父が自分を受け入れてくださるということです。


3  闇のわざを脱ぎ捨てる

闇の中を歩むとは自分が神様から愛されていることを知らないということです。その人は、善と悪に引き裂かれた世界の中で自己中心的に生きることしかできません。また自分の物差しでしか判断できません。死後どこに行くのかもわからない。それが闇の中を歩むということです。

クリスチャンも知らず知らずのうちに闇の中を歩むことや闇のわざに頼ることがあります。例えば、いわゆる業績で人を評価するなどこの世の価値観(神中心ではなく人間中心の価値観)を教会に持ち込むことです。また仲良しグループで、気に入らない人を批判することです。それらは教会から他の信徒を排除し、愛が無くなります。兄弟の行為が悪いことと、兄弟を憎むこととは別です。もし兄弟を憎んでいる人がいれば、自分の罪を言い表し、憎む心を取り除いていただきましょう。(1ヨハネ1: 9) 「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」(1ヨハネ2: 10、11)

また私たちは、誤った教えが密かに教会に潜り込まないように気をつけましょう。「心が楽になる新約聖書の教え」などの本は、聖書の一部だけ取り上げて自分の人生の足りないところを補おうとするものです。「使徒信条」を判断基準にしましょう。


4  イエス様の十字架にとどまるために

イエス様の十字架にとどまるために、ガイドブックなどを用いて毎日聖書を読みましょう。イエス様は「絶えず祈りなさい」(ルカ11: 8から13)とおっしゃいました。ルターの言うように、人は絶えず罪と悪に警戒すべきだからです。

聖書の学びを続けましょう。婦人会の聖書研究や小教理の学び会、祈祷会の聖書研究(「コヘレトの学び」)など。特に聖書神学校の公開講座はとても良い学びですので受講をお勧めします。


5 勧め

故海老沢良雄先生は、亡くなる前、いつもキリストのことを考えておられたのではないでしょうか。自分の病を負い、痛みを担ってくださったキリスト。私たちの背きのために刺され咎を負ってくださったキリスト。ご自分の命を死に明け渡し、背いた者とともに裁かれたキリスト。自分のため神さまに日々執り成してくださるキリストのことを。

イエス様は、他の誰よりもあなたのことを愛しています。イエス様はあなたのために命を捨てられました。このためにこそ、イエス様がこの世界に来てくださったのです。


説教者:加藤 正伸 長老



<ヨハネの福音書 12章27〜50節>


27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。

46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」