2024年2月11日



「愛の行いに生きて働く信仰」


新約聖書:ヤコブの手紙2章14節〜26節



T.ヤコブの手紙とは

新約聖書の書簡は、パウロの書いたものが多いのですが、このヤコブの手紙を書いたのは、1章1節のあいさつにもあるとおり、ヤコブです。そして、このヤコブという人物は誰かというと、イエス様の弟(ヨセフとマリヤの子ども)です。

ヤコブは、イエス様の復活まではクリスチャンではありませんでしたが、復活後に回心してクリスチャンとなり、エルサレム教会の指導者となりました。

ヤコブの手紙は、ステパノの殉教後に起こった迫害によって諸国に散らされたユダヤ人クリスチャンへ宛てて書かれたもので、特定の誰かに対するものでは無く、外国に移住したユダヤ人クリスチャンたちが回覧して読むように書かれたものです。そのため、読む人たちが旧約聖書やユダヤ教のことを良く知っていることが前提となって書かれています。


U.まず、誤解を解きたい

ヤコブ書の2章14節〜26節を読むと、ヤコブが言っていることはパウロが言っている、信仰のみで救われるという「信仰義認」の教えと矛盾するのではないかと思われるかもしれません。今日は、まず、その誤解を解いてから、聖書のみことばをみていきたいと思います。

最初に申し上げたとおり、このヤコブ書という書物は、「迫害によって諸国に散らされたユダヤ人クリスチャンへ宛てて書かれたもの」です。この手紙を読む人たちがユダヤ人であり、なおかつイエス様を信じて救われた人たちであるという前提を理解していることは、ヤコブ書を読むとき、私たちの助けになると思います。この手紙を読む人たちがクリスチャンであることが大前提、ということは、「あなたたちが救われるために必要なことは云々」、というような説明が必要な段階はすでに過ぎて、クリスチャンとしてどうあるべきかを教える段階にあるということです。

また、ユダヤ人であると言うことは、子どもの頃から律法にも親しんでいて、律法への理解も深いということでもあります。

パウロは異邦人への宣教者でしたから、律法を知らない異邦人たちに福音を語るときには、「信仰義認」を強調することが必要でした。ともすると、異教徒だった頃の習慣に戻ってしまうかもしれない人たちには、救われるために必要なのは「信じます」ということだけ、「救い」は人間の努力によることのない神さまからの恵みであるということを強調する必要がありました。対して、ヤコブがヤコブ書で信仰には行いが伴うと言っているのは、「義認」の次にくる「聖化」についての教えです。決して、行いによって救われると言っているわけでは無いのです。

だから、ヤコブがヤコブ書で書いている行いの必要性はパウロの教える信仰義認となんら矛盾することはありません。そこを誤解せずに、ヤコブ書2章後半を読んでいただきたいと思います。


V.救いに至る信仰とは(14-20)

a)自分には信仰があると言う人(14)

さて、それではヤコブ書2章14節から読んでいきたいと思います。

まず、ヤコブ書2章14節〜20節ですが、ここには、隣人愛の行いが書かれています。

ヤコブ書2章14節からのみことばをご説明する前に、イエス様のみことばをみておきたいと思います。マルコの福音書12章29章〜31節をお読みください。神さまを愛することと、隣人を愛すること、聖書の中でこの二つの教えが一番大切だとイエス様が言われています。最初に、このことを覚えておいていただきたいと思います。

では、ヤコブ書に戻って、2章14節で「だれかが自分には信仰があると言っても、…」と書かれていますが、ここは、「だれかが人には信仰があると言っても、…」では無いことに注意してもらいたいと思います。ヤコブがここで吟味しているのは、自分で「私には信仰がある」と言う人たちの信仰についてです。クリスチャン全体について言及しているわけではありません。福音書にも自分で「私には立派な信仰がある」と言うような人たちが度々出てきて、その信仰の足りなさをイエス様にいさめられていることが思い出されると思います。ヤコブ書2章後半で、ヤコブがその信仰を吟味しているのはそういう、自分で「私には立派な信仰がある」と言うような人たちの信仰についてです。

b)信じて救われると生活も変わる(14)

私たちがイエス様のことを「信じます」と言って受け入れ救われることを難しい言葉で「義認」と言いますが、私たちは「義認」を経て、「聖化」の歩みに入っていきます。「義認」の時、私たちは聖霊様をいただきます。そこから、自分と聖霊様の二人三脚での聖化の歩みが始まります。聖霊様は、いつも一緒にいてくださるので、義認の後、私たちの生活は少しずつ変わっていくはずです。ただ、ほとんどの人は、洗礼を受ける前も普通にある程度善良な生活を送っていたと思うので、洗礼を受けて、聖霊様と二人三脚をするようになっても、劇的に生活が変化するということはあまり無いかもしれません。でも、確実に、良い方向へ変わっていると思います。もし、あの時洗礼を受けないで、信仰の無い生活を送っていたら、今、自分はどうなっていたかな、と考えてみると、きっと、洗礼を受けて信仰を持ったから今の自分がある、と思えると思います。信仰が無くても同じ人生だったということは無いと思います。

c)隣人愛の行いについて(15-17)

2章15節〜17節には、隣人愛の行いの具体例が書かれています。

「もし」と書かれていますが、これは単なる仮定では無く、外国に移住したユダヤ人たちにとっては、貧困の問題は切実だったのだと思われます。

16節に書かれている「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」は、当時普通に使われていた別れのあいさつのようなのですが、これを私たちが「さようなら。気を付けてお帰りください。また会いましょうね。」と言うのと同じように、単なる挨拶として使うなら、言われた方は困窮しているので、安心もできないし、暖かくなれないし、十分に食べることもできないので、このような挨拶は全く役に立たないとヤコブは言っています。

ヤコブは、信仰があるなら自然と行動に表れるはずだと言っています。「自分には信仰がある」と言っても、その信仰が行いに表れないなら、無いのと同じだと言っているのです。

信仰を持ったことで、聖霊様との二人三脚の信仰生活が始まり、私たちの行動は確実に変わってきているはずです。ヤコブは、当時実際的な問題であった困窮する兄弟姉妹たちのことを例にあげていますが、隣人への愛の行いがどのような行動になって表れるかは、人によってそれぞれだと思います。

ですから、誰か、他の人に隣人愛の行いがあるかどうかを吟味するのは私たちのするべきことではありません。ヤコブは、教会全体の指導者でしたので、クリスチャンたちに愛のある行いをしないことについての叱責をしていますが、信徒である私たちがするべきなのは、自分自身の信仰が行いに表れているかどうかを吟味することです。他の人の行動をあれこれ言って裁くことでは無く、私たちがすべきなのは自分の信仰は行いに表れているのかどうかを吟味することです。

さて、ここで気を付けなくてはいけないことがあって、信仰が行いに表れてくるのは「聖化」の過程で起こることなので、努力して、頑張って、良い人にならなければ!クリスチャンらしく善良に生きなければ!というのは、元々肉であった私たちが自分の努力で別の肉に変化するだけです。私たちは、「肉から霊へ」変わらなければいけないのです!


W.アブラハムとラハブの例(21-25)

2章21節〜25節を見ていきたいと思いますが、ここでヤコブはさらに、アブラハムとラハブの例をあげて、信仰から表れた行いについて説明しています。

アブラハムの例(ヤコブ 2:21-24)

創世記 15章6節

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

このとき、アブラハムの名前はまだアブラムで、子どももひとりもいませんでした。神さまがアブラハムを義と認められたのは、イシュマエルもイサクもいない時でした。

創世記 22章9節〜14節

10「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。」

12「御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」」

アブラハムが恵みによってその信仰を主から義と認められてから、その信仰が行いに表れてイサクを捧げるという行動に出るまでに、30年の月日が流れていました。その30年の間、アブラハムの信仰が足りなかったと言うことはありません。

ラハブの例(ヤコブ 2:25)

ヨシュア記 2:1〜24、6:16〜17、6:22〜25

「その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、(略)あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」

ラハブは、エリコに住んでいる遊女でした。

イスラエル人たちがエリコに攻め入る前に、二人の斥候(スパイ)がエリコを調べましたが、その時に遊女ラハブが彼らをかくまい、逃がしました。その時に、二人の斥候は、イスラエル人がエリコを攻めるとき、遊女ラハブの家族を助ける約束をし、神さまに誓いました。

「しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」

そして、遊女ラハブの家族は約束通り生かされ、イスラエルの中に住むようになりました。

ラハブの言っていることを読むと、ラハブは、二人の斥候をかくまう前から神さまのことを信じていたと思われます。その信仰が行いにあらわれて、二人の斥候をかくまい、逃がしました。彼女は、この行いによって初めて救われたわけではなく、すでに神さまを信じて救われていたので、二人の斥候をかくまって逃がすという行動に出ました。

そして、遊女ラハブは自分と家族のいのちが助かっただけでは無く、イエス様の系図にその名前が載るという幸いにもあずかっています。

ヤコブが例にあげたアブラハムにしても、遊女ラハブにしても、ヤコブはだいぶ説明を省いて書いていると思います。しかし、イスラエル人にとってはアブラハムも遊女ラハブもよく知っている人物で、その信仰や行いについて細かく説明をする必要がありませんでした。私たちとしては、あと、もう少しだけ説明が欲しい感じかとは思いますが、それは仕方の無いことのように思います。

アブラハムもラハブも救われたのは行いによるのでは無く、信じる信仰によって、神さまの恵みによって救われました。行いは、信仰があらわれたものです。アブラハムにもラハブにも信仰からくる行いがある、だから、信じていると口先で言うだけでは無く、本当に信仰があるなら、行いにあらわれてくるものだと、ヤコブは教えているのです。


X.生きた信仰とは(26)

では、信仰にふさわしい行いをするために、私たちはどうすればいいのでしょうか?ここで、日本人は、「頑張って信仰に相応しい行いができる人間になろう!」と思ってしまいがちです。しかし、自分の努力によって勝ち取ったものは、肉から肉に変わったに過ぎません。私たちは、肉から霊に変えられていかなければいけません。肉から霊に変えられていくにはどうしたらいいと思いますか?

やはり、まずは、祈って聖書を読むことが大切だと思います。ぜひ、次のみことばをお読みください。

ホセア書 6章6節

ローマ人への手紙 10章17節

ここから、聖書を読んで神さまのことを知ることが大切であることが分かると思います。そして、祈ることについては、次のようなみことばが参考になると思います。

エペソ人への手紙 6章18節

ピリピ人への手紙 4章6節〜7節

私たちが、信仰の先輩たちの姿を見て、あのような信仰者になりたいという思いを持つことは悪いことではありません。自分にとっての信仰者のモデルになる人がいること自体は幸いなことだと思います。ただし、私たちが「自分もあのような信仰者になりたい」という思いを持ったときに、自分で、頑張って、努力して、なりたい信仰者の姿に近づこうとしたら、それは間違いです。私たちがまずするべきは、「自分も、あのような信仰者にしてください」と神さまに祈り求めることです。もし、その祈りがみこころにかなうものであるなら、私たちに与えられている聖霊様が私たちに働いてくださって、私たちは信仰が行いに表れるようにだんだんと変えられていきます。

日本人は、一人で頑張ってとか、我慢してとか、努力してとかが好きなので、どうしても自分で頑張ってしまいがちですが、それは、神さまが私たちに求めているものとは違います。神さまはなんでも頼って欲しいと思っています。

ダビデは、詩篇でこう言っています。

詩篇 37篇5節

また、ペテロもこう言っています。

ペテロの手紙第一 5章7節

もし、私たちが自分の努力で何かを成し遂げようとしているなら、私たちはあるときどうしても、自分のしていることを他の人たちに褒めて欲しくなります。これは、最近はやりの言葉で承認欲求と言います。もし、他の人たちに褒めて欲しいという気持ちが起こったときに、思ったように評価されないとだんだんと気持ちがしぼんでいってしまい、努力できなくなっていきます。もしくは、褒めて欲しい、評価して欲しいと言う気持ちが暴走して色々な問題行動に繋がったりします。でも、もし、神さまに祈って与えられたものなら、それは自分の努力や我慢から得たものでは無いので、他の人たちに褒められる必要が無いし、神さまの働きなら、自分の手柄ではないのでむしろ褒められたら恥ずかしいくらいだと思いませんか?

マタイの福音書で、イエス様はこう言っています。

マタイの福音書 6章1節〜8節

偽善だからしない、ということではなく、人に褒められるためでは無く、信仰から来る行いとして善い行いをしなさい、とイエス様は言っています。だから、私たちは、人からの賞賛を求めるのでは無く、神さまが見ていてくださるから、というところを原動力として善い行いをしていきたいと思います。

そして、神さまは私たちの想像を遥かに超えた働きをされるお方です。人間の努力だけで行われる善い行いには明らかな限界がありますが、もし、人間の努力に頼るのでは無く、神さまに頼って善い行いをするなら、神さまは人間の限界を越えて働かれるお方ですから、私たちが祈って神さまに頼っていくなら、自分の努力以上の善い行いができると思いませんか?

また、これは、人を褒めてはいけないと言っているのではありません。人を褒めることは良いことなので、どんどん褒めて良いと思います。褒めることも褒められることも良いことですが、自分の中から褒めて欲しい、評価して欲しいという気持ちが出てきたら要注意です。

最後に、私たちは、信仰が行いに表れていない、と、他の人の信仰や行いを裁くようなことはしてはいけません。私たちは自分の行いに信仰が表れているか自己吟味する必要はあります。でも、他の人たちがどのような信仰を持っているのか、どのような行いをしているのか、それを裁くのは私たちではありません。裁きは、神さまのなさることです。

イエス様も、このように言われています。

マタイの福音書 7章1節〜5節

私たちは、神さまのことを信じます!と言ったときに、神さまからの恵みによって救われました。救いには何も条件はついていません。これこれのことができたら救われる、など、自分の行いが救いの条件になることはありません。救いは全く神さまの恵みであり、私たちは信じるだけで救われたのです。

でも、信仰も成長します。私たちはきよく変えられていきます。それが、信仰に行いがあるということです。私たちが愛の行いに生きて働く信仰を得るためには、自分で頑張るのでは無く、聖書を読んで祈り、神さまに信頼して頼っていくことが必要です。私たちはクリスチャンなので、善い行いの中でも、神さまに喜ばれる善い行いができるように、神さまに祈り求めていきたいと思います。


最後に、次のみことばをお読みください。

ヨハネの手紙 第一 2章3節〜5節

ガラテヤ人への手紙 5章25節




説教者:菊池 由美子 姉


<聖書箇所>

ヤコブの手紙 2章14〜26節

14 私ガラテヤ人への手紙 5章25節の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。

22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、

23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。

26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。