2023年11月5日
「ルターの宗教改革と律法」(要約)
旧約聖書:出エジプト記20章1節〜17節
1 ルターの宗教改革
1517年10月31日は宗教改革の日と言われています。当時のキリスト教会の聖職者たちの生活は全体的に堕落していました。司祭たちは半ば公然と妾を持ち、地位の高い聖職者たちは富と権力を求めていました。
しかしルターが問題にしたのは、カトリック教会が聖書にない教えを持ち込んでいたことです。このことを批判し、聖書に立って、民衆に信仰と生活の本来のあり方を取り戻そうとしたのが宗教改革です。
2 ルターの批判したこと
ルターが指摘したのは主に次の3点。第一に聖書の権威。カトリック教会は、聖書が神の言葉であり権威あることを認めていましたが、唯一の権威であるとは考えませんでした。聖書のほかに「伝承」すなわち教皇や教会会議、教会教父の権威も認めていました。これに対してルターは聖書が唯一の権威であると考えました。
第二に神の恵みの理解。カトリック教会は「義認」を「成義」と呼んでいました。神による義の宣告だけでは充分でなく、自ら神に協力していく過程が必要だと考えていたのです。またキリストの恵みだけでなく、様々な救いの手段を作り出します。マリア崇拝もその一つです。これに対してルターはキリストの恵みによる救いを語ります。
第三に、律法と福音の区別。カトリック教会では律法と福音の区別が曖昧でした。そのため人々はキリストの義を理解できませんでした。これに対してルターは律法と福音の2つを正しく区別します。ルターの改革の原則は「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」だったのです。
ではルターたちはどのように、民衆の信仰と生活の本来のあり方を取り戻したのでしょうか。それがこのキリスト教五部。モーセの十戒と使徒信条、主の祈り、洗礼と聖餐です。
3「クリスチャンの信仰と生活の全体像〜キリスト教五部」(図を参照)
(1)律法の山と福音の山
聖書には2つの山があります。律法の山と福音の山です。律法の山とはモーセが十戒を受けたシナイ山。福音の山とはイエス様が十字架につけられたカルバリ山のこと。律法はモーセ、福音はイエス様を通して与えられました(ヨハネの福音書1章17節)。
(2)洗礼まで
人がキリスト教に触れるとき、先ず律法に直面します。父母を敬え、姦淫してはならない、日曜日の礼拝を守れ、嘘をついてはいけない…。聖書の神様は高い道徳的基準を持っていること、罪を嫌がる神であることを知ります。このとき聖書から離れる人と聖書を知りたいと思う人に分かれます。
キリスト教に触れ、聖書を読んで感動した人は、この十戒を守ろう、生き方を改めようとします。しかし守ろうとすればするほど、守れない自分、罪深い自分に気づきます。
しかし聖霊に導かれ、カルバリ山の前に立つとき、自分の罪、親不孝や汚さ、自分勝手さなどを自分の代わりに被ってくださった方がいることを知ります。また父と子と聖霊なる神様がおられ、御子イエス様を私たちにくださったこと、自分が以前神様の前に犯した罪もすべて赦してくださることを知ります。そこで私たちは喜びで満たされ、洗礼を受けてイエス様の赦しを受け取ります。
(3)信仰生活
今度はクリスチャンとして聖霊に導かれながら、反対側から律法の山、シナイ山を登っていきます。以前は神様に受け入れてもらうために登ろうとしましたが、今度は赦してもらったので、神様が喜ぶ生き方をしていくのです。
(4)主の祈りと聖餐
ところが私たちの内側にはまだ罪が残っています。肉がある限り罪との戦いは避けられません。人をねたむ気持ちや自分を優先する思い、親を敬いたくない思いとの葛藤があります。この世や悪魔との戦いもあります。その私たちに与えられているのが「主の祈り」です。
また私たちは自分の個々の罪の赦しを「聖餐」を受けることで頂きます。イエス様が自分のこの罪のためにも死んでくださったことを確認していくのです。
こうして私たちは、洗礼に守られ、主の祈りを祈り、個々の赦しを聖餐で確認しながら、自分の内側にある罪やこの世、悪魔との戦いを戦っていくのです。これが宗教改革のときにルターたちのとっていた信仰の全体像です。今の私たちの信仰と生活を支えているのも、このモーセの十戒と使徒信条、主の祈り、洗礼と聖餐です。
4 説教は十戒と福音を語るところ
カール・F・ヴィスロフは、律法と福音の違いを次のように指摘しています。
(1)律法は完全な遵守を要求するもの、福音はいただくもの。
(2)律法はあなたに行いを要求する。あなたは人である、あなたはこうすべし、こうしてはならない。福音はあなたではなくイエス様を対象としている。
(3)十戒はすべての人の心に記されているもの。福音は聖霊によって教えられるもの。
(4)律法は自己義認の罪人に語られる。福音は主の言葉におののく人に伝えられる。
(5) 律法も福音も聖書全体に並行してある。旧約は律法、新約は福音ということではない。
律法も福音も神の御言葉です。イエス様は律法を廃止されていません(マタイ5:17)。使徒たちは律法と福音を宣教しています。教会は十戒と福音を語り宣教しなければなりません。私たちは、十戒は完全に守れないものという理由で、学ぶことを避けてはこなかったでしょうか。十戒が示している神の御心に耳を傾けることが大切です。そのためにルターは小教理問答書(カテキズム)で十戒の説明をしているのです。
5 小教理問答書とルターの祈り
ルターは十戒をどのように扱っていたのでしょう。あるとき古い友人の1人がルターに、どのようにして祈るべきか尋ねました。それに手紙の中でこう答えています。
「十戒を祈るとき、一つ一つの戒めについて、第一に、その戒めが真実に何を伝えているか、神様は私たちに本当は何を求めておられるのかを考える。第二に、そのことに感謝する。第三に罪を告白する。最後に祈る。この方法は、私たちを本心に立ち返らせ、祈る心を起こさせてくれる。」
ルターは、キリストに贖われた者として十戒を読み、十戒を通してこの世と自分の罪を教わっていました。私たちの肉と、悪魔は絶えず私たちはイエス様から引き離そうと狙っています。私たちも十戒からこの世と自分の罪を教わり、福音の恵みを確かなものにしていきましょう。
説教:加藤 正伸 長老
<出エジプト記 20章1〜17節>
1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。−−あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も−−
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
13 殺してはならない。
14 姦淫してはならない。
15 盗んではならない。
16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」