2023年10月8日



「みことばを聞くことと実行すること」


新約聖書:ヤコブの手紙 1章18〜27節



T.ヤコブの手紙とは


新約聖書の書簡は、パウロの書いたものが多いのですが、このヤコブの手紙を書いたのは、1章1節のあいさつにもあるとおり、ヤコブです。そして、このヤコブという人物は誰かというと、イエス様の弟(ヨセフとマリヤの子ども)です。

ヤコブは、イエス様の復活まではクリスチャンではありませんでしたが、復活後に回心してクリスチャンとなり、エルサレム教会の指導者となりました。

ヤコブの手紙は、ステパノの殉教後に起こった迫害によって諸国に散らされたユダヤ人クリスチャンへ宛てて書かれたもので、特定の誰かに対するものでは無く、外国に移住したユダヤ人クリスチャンたちが回覧して読むように書かれたものです。そのため、読む人たちが旧約聖書やユダヤ教のことを良く知っていることが前提となって書かれています。

1章の前半は、以前にお話しているので、今日は、1章の後半のお話をしたいと思います。



U.みことばを聞くこと(18-21)


1. 真理のことばをもって(18)

19節の「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。」の「そのこと」とは、18節に書かれていることを指しています。

まず、18節から、私たちが霊的に新生したのは、父なる神さまによる一方的な恵みであり、私たちが生まれながらに持っている資質や、努力によって後から獲得した良い性質などに寄るのではないということを初めに覚えておいていただきたいと思います。


2.神のことばに耳を傾ける(19-20)

そして、19節からは、新生した私たちに対する勧めが書かれています。

ヤコブが、ヤコブ書の中で書いているクリスチャンへの勧めは、あくまでもすでに救われている私たちへの勧めであって、救われるためにするべきことではありません。

まず、ヤコブは、「聞くには早く」「語るにはおそく」「怒るにはおそい」ようにしなさいと私たちに勧めています。

「聞くには早く」とは、何を聞くのでしょうか?私たちが聞くべきなのは「みことば」です。真理のみことばによって新生した私たちには、みことばは命の源です。信仰の基本は、みことばに聞くことです。当時は、一般のユダヤ人が自分で聖書を持つことはできませんでしたので、指導者たちの語るみことばを一生懸命に聞かなければなりませんでした。また、今のようにメモをして、あとでゆっくりと聖書を読み返すというようなこともできない時代でしたから、それこそ語られるみことばを一生懸命に聞いたことと思います。

次に、「語るにはおそく」とあります。これは、語られたみことばを性急に判断するのでは無く、自分の中で理解を深めましょうということです。また、日本には「口は災いの元」ということわざがありますね。聖書には、同じような意味合いのことばが特に箴言で繰り返し語られています。例えば、箴言10章19節や箴言13章3節です。「語るにはおそく」というヤコブの言葉には、言葉を発する前に、それは語ってもよい言葉であるのかよく考えましょう、という意味合いもあると思います。

そして次に「怒るにはおそいようにしなさい。」とあります。旧約聖書では神さまが怒りに燃えて、というような記述があったり、イエス様が神殿にいる両替商やいけにえとして捧げられる動物を売る人たちに怒ったエピソードなどもあるので、私たちも怒っても良いのではないかと思われるかもしれませんが、父なる神さまやイエス様の怒りは「神の義」を実現するためのものです。私たちも、「神の義」を実現するためであるなら、怒ってもいいかもしれませんが、では、自分のうちから怒りが湧いてきたときは、これは「神の義」を実現するための怒りだろうか、と、よく吟味する必要があると思います。これも、箴言にみことばがあります。箴言14章29節や箴言19章11節です。


3.神のことばを受け入れる(21)

ヤコブは、「聞くには早く」「語るにはおそく」「怒るにはおそい」ようにしなさいと私たちに勧めました。そして、その聞いたみことばを「すなおに受け入れなさい」と勧めています。なぜなら、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことが」できるからです。

これは、イエス様がとても分かりやすいたとえ話をしてくださっています。読むまでも無いくらい有名なたとえ話(種まきの例え)ですが、マルコの福音書4章14節から20節をもう一度読んでみていただけると良いと思います。

私たちは、イエス様のたとえ話にある、種からの収穫を何十倍にもできる「良い地」に自分の心をするために、まず、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去」ることが勧められています。そして、みことばを素直に受け入れましょう。もちろん、説教で語られる聖書の解釈には、「本当かな?」とか「その意味で合ってるかな?」とか思ってもいいのですが、聖書に書かれているみことばは、素直に、そのまま受け入れて欲しいと思います。



V.みことばを実行すること(22-27)


次に、22節からは「みことばを実行すること」について書かれています。

みことばを実行することについてお話しする前に、誤解の無いようにもう一度言い添えておきたいと思います。私たちがみことばを実行するのは、みことばを実行することによって救われようとしているわけではありません。救いは、あくまでも神さまを信じることによって神さまから与えられる恵みです。ここに、私たち人間の努力が挟まる余地はありません。救われるために私たちに必要なことは神さまを信じることだけです。

ヤコブによって、みことばを実行する人になることが勧められていますが、私たちは、みことばを実行することによって救われることはありません。では、なぜ、みことばを実行する人になるように勧められているのでしょうか?それをこれからお話ししたいと思います。


1.みことばを実行する人(22〜25)

ヤコブ書の今日の箇所をよく読むと、ヤコブは、みことばを実行しなさいと言っているのでは無く、「みことばを実行する人になりなさい」と教えています。みことばを実行しなさい、と、「みことばを実行する人になりなさい」は何が違うのでしょうか。

ヤコブが私たちに教えたいのは、パリサイ人や律法学者たちのようになって欲しくないということです。パリサイ人や律法学者たちは、とにかく、「律法」を守ることに一生懸命になって、なぜ、「律法」を守らなければいけないのか、本質が分からなくなっていました。私たちがみことばを守って生きることに一生懸命になるあまり、自分の努力で、苦労して、一生懸命にみことばを実行して、この自分の行いによって自分は救われていると勘違いして欲しくないのです。

そこで、まず、私たちに求められているのは、「みことばを実行する人になる」ことです。そして、それは、自分の努力で達成できるものではありません。私たちが、「みことばを実行する人」になろうとするなら、まず、神さまに祈り求める必要があります。

もし、私たちが、みことばを実行しようとして自分で決めて努力するなら、それは、私たちが元々持っている古い肉の性質が、自分の努力によって新しい肉の性質に変わったに過ぎません。私たちは、古い肉の性質から新しい霊の性質に変わっていきたいと思っています。私たちが新しい霊の性質を得ようとするなら、神さまに祈り求めるしか方法がありません。私たちが祈り求めるとき、または、日々祈りながら聖書を読むとき、神さまが私たちを新しい霊の性質に変えてくださいます。

だから、私たちは、「クリスチャンなのに」と言われないように頑張る必要はありません。みことばを実行する人になるとは、ルールに縛られて窮屈になるということではありません。

イエス様は、次のように言われています。ヨハネの福音書 8章31節〜32節をお読みください。

私たちが信仰に留まるとき、私たちは真理を知り、その真理は私たちを自由にします。何からでしょうか?私たちは罪から自由になります。罪から自由になると、自然と、神さまを悲しませるような行いからは離れていくようになります。それが、ヤコブの言っている「みことばを実行する人」になる、ということです。


2.みことばを実行する具体例(26〜27

そうすると、ヤコブが27節で取り上げているような、みことばを実行する具体例のようなことは自然とできるようになります。

孤児ややもめたちというのは、当時は弱者の象徴でした。ヤコブは、手紙を読んでいるユダヤ人クリスチャンたちに分かりやすいように孤児ややもめを取り上げていますが、パウロが、ガラテヤ書で次のように言っていることと同じことだと思います。ガラテヤ人への手紙 5章13節から14節をお読みください。


3.聖霊様が共にいて下さる

最後に、ヨハネの福音書14章14節から16節までをお読みいただきたいと思います。

この箇所でイエス様は「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」とおっしゃっていますが、この、もうひとりの助け主が聖霊様です。聖霊様が私たちと共にいて下さるので、私たちは自分で努力したり頑張ったりしなくても、「みことばを実行する人」になることができます。

私たちは、神さまを信じる信仰を告白して、共にいて下さる聖霊様に感謝して、「みことばを実行する人」になれるように祈り求めていきましょう!



説教:菊池 由美子 姉




<ヤコブの手紙 1章18〜27節>

18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。

24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。