2023年10月15日



「わたしの愛にとどまりなさい」


新約聖書:ヨハネの福音書15章1節〜17節



ふりかえり

最後の晩餐の席で、弟子の1人が裏切ることやご自分が御父のもとにいかれることをイエス様から聞いた弟子たちは、不安と恐れを抱きます。この時イエス様が弟子たちに語ったことばが14〜16章です。14章で、ご自分が「道であり、真理であり、いのち」であること(6節)、イエス様が御父におり御父がおイエス様におられること(10・11・20節)、御父が弟子たちに聖霊(助け主、真理の御霊)を与えられること(16・17・26節)、ご自分の戒めを守る人はご自分を愛する人であり(15・21節)、イエス様を愛する人はイエス様と御父に愛され、その人のところに来てその人ともに住む(21節、23節)という、驚くべきことを話されます。


「わたしにとどまりなさい」

今日の聖書箇所から、私たちは、イエス様が弟子たちに、ご自分にとどまることと互いに愛し合うことを強く求めていたことに気づきます。

特に「わたしにとどまりなさい」ということばを繰り返して言われています。(4・5・6・9・10節)では「とどまる」とはどのようなことでしょう。イエス様は、ぶどうの木と枝のたとえを用いて説明します。(5節)「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」。「とどまる」とは、生命的な結合、いのちのつながりがあるということです。イエス様の言葉が私たちの心の中に生き続けているならば、その人は「多くの実を結」ぶということです。

これには、祝福のことば「もしあなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら何でも欲しいものを求めなさい」(7節)が伴います。このことを話したのは、ご自分の喜びで弟子たちが満たされるようになるためだとイエス様は言われました。(11節)

しかしイエス様といのちのつながりがないなら、その人は実を結ぶことができません。「わたしにとどまっていなければ枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6節)

「実を結ぶもの」については、御父は「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをな」さる(2節) と言われます。農夫は、木の生育を良くし、沢山良い実を得るために剪定します。また冬の剪定は、病害虫から木を守る意味もあるそうです。イエス様は、農夫がぶどうの木の世話をするように、私たちの信仰生活を整え、実を結ぶようになるため、試練や困難などの経験を私たちに与えられるのです。

イエス様は、どんなに私たちが罪深いか、弱いのかご存知です。この世の誘惑に、肉の思いに引きずられて罪を犯してしまう。サタンの策略に引っかかる。しかしイエス様は、そのような私たちを悔い改めに導いて下さいます。律法を通して自分の不完全性と自己中心性に気づかせて下さいます。私たちは十字架のもとで罪の赦しと清めを頂きます。キリストのもとには赦しがあり、自由があり、全てがあるのです。


互いに愛し合う

イエス様が弟子たちに強く求めた二つ目は「互いに愛し合う」ことです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(12・17節、13章34節) 「愛し合う」とはどうすることでしょう。その基準はキリストの十字架です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13節) そして「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなた方はわたしの友です。」(14節)と言われます。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び任命した。」(16節、19節)イエス様は、ご自分のものである弟子たちだからこそ、これら二つのことを求めたのでした。このイエス様の愛は十字架に示されます。弟子たちは後に、この十字架が自分たちに対する神の愛であることに気づくのです。


終わりに

イエス様は永遠の昔に御父から生まれた真の神です(ヨハネ1:1〜18)。そのお方が、約2千年前にユダヤのベツレヘムで人となって生まれました。神が人となって生まれ、人を滅びから救うために死なれる。これはありえないことです。そのありえないことが起きたのがクリスマスです。イエス様は私たちの悲しみや苦しみをご存知です。今日も闇の中で苦しむ人を救おうとされています。

イエス様は言われました。「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物より大切であり、からだは着物より大切だからです。」(ルカ12:22、23)

今日もイエス様は、私たちに「わたしにとどまりなさい」、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われます。私たちのためにいのちを捨ててくださったこのイエス様にとどまりましょう。そして本当のキリスト者の交わりを育てていきましょう。愛の基準はイエス様です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」





<ヨハネの福音書 15章1〜17節>

1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。