2023年8月6日



「わたしについて来なさい」

新約聖書:ヨハネの福音書12章12〜26節



 ベタニヤのマリアがイエス様の足に油を塗り、髪の毛でぬぐった日の翌日、イエス様はエルサレムに入場します。この時祭りに大勢の人たちが来ていましたが、イエス様がエルサレムに来ようとしておられることを聞いて、シュロの木の枝をとって出迎えます。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」約 500 年前のゼカリヤの預言が成就したのです。「ホサナ」とは、ヘブル語で「助けてください、救ってください、私は祈ります」と言う意味です。


 群衆は、イエス様がローマの支配から解放して下さる救い主、待ち望んでいた王だと思って大歓迎します。この時イエス様はロバの子を見つけてそれに乗られました。かつてのイスラエルの王たちのように、そしてゼカリヤの預言のことば通り。

 私たちは、この日、つまり受難週のはじめの日を棕櫚の聖日と呼んでいます。ヨハネの黙示録 7 章 9 節〜12 節には、このときのイエス様のエルサレム入場の時と同じような光景が描かれています。天国でクリスチャンが神様を賛美するときの光景です。

 しかし実はこの時、群衆はイエス様を正しく理解していませんでした。弟子たちも同様でした。弟子たちが、預言者の言っていたことだと気づいたのは、イエス様が十字架につけられ、死からよみがえったあとでした。


 さて、祭りに来ていたギリシヤ人たちが弟子のピリポにイエス様に会わせてくれるように頼み、ピリポとアンデレがそれをイエスに伝えたとき、イエス様は次のように話されました。ここが今日のテーマです。


○23 節。「人の子が栄光受けるその時」これは十字架につかれる時ということです。イエス様の死は人類に本当の救いの道を開くものだからです。

○24 節。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは 1 つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様の死のことです。

○25 節。「自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」福音書全体で 7 回も出てきます。どのようなときに言われたのでしょう。

・12 人の弟子たちを、イスラエルの家の汚れた霊を追い出し病気を癒すために遣わしたとき。(マタイ 10: 39)

・イエス様が、ご自分のエルサレムでの苦しみや死、よみがえりを話され、それを諫めたペテロに「下がれサタン」と言われたとき。(マタイ 16: 25、マルコ 8: 35)

・イエス様が弟子たちに自分は誰だと思うか聞き、ペテロが「神のキリストです」と答えたとき。(ルカ 9:25)

・大勢の群衆がイエス様と一緒に歩いていたとき。(ルカ 14:26)

・イエス様が弟子たちに向かって、再び現れる日(再臨)について説明され、ロトの妻のことを思い出すようにと言われたとき。(ルカ 17: 33)このようにイエス様がこのことばをお語りになった時の状況は様々です。またイエス様は主に弟子たちに語るのですが、ルカ 14 章では群衆に語っています。

○26 節。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」

25 節のことばは、ほとんどの箇所で「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」とともに語られました。この 12 章 26 節も、十字架という言葉は出てきませんが同じ意味です。つまりイエス様は、ご自身に従う人たちにこれらのことを強く求めておられたのです。なぜでしょう?


 神様は、人間を幸せにしたいと思ってこの世界を作られました。創世記 1 章で、神様は人間の創造に向けてこの世界を準備されたことが分かります。しかし 3 章で、そこに罪が入ってきた。そして全ての人が罪ある者となったのです。悪魔と世と罪の奴隷となってしまった。しかし神様は私たち人間を愛し、私たちを救うため、イエス様をこの世に送ってくださった。それがクリスマスです。神様に愛されていない人は一人もいない。すべての人を救うため、イエス様はお生まれになった。そして十字架で死なれ、救いのみわざを成し遂げて下さいました。

 ですからご自分に従う人たちに、この世のものに心奪われ、再び罪と死と悪魔の支配に戻らないように求めておられるのです。この世のものに心を奪われていたのでは、このイエス様に従って歩むことができません。自分の命を愛する者はそれを失います。私たちはイエス様という一粒の麦の死によって生かされているクリスチャンです。このことを曖昧にしないようにしましょう。


 そしてもし私たちがイエス様に留まるなら、このことは決して難しくないのです。パキスタンやカンボジアで、30 年以上、病気や戦争、干ばつに苦しむ人々に寄り添って生きる手助けをしてきたが、2019 年 12 月 4 日に銃撃され亡くなられた医師の中村哲さんはクリスチャンです。ご自分の仕事について聞かれたとき「道で倒れている人がいたら、手を差し伸べるのは普通のことです」と答えました。

 私たちは、イエス様によって救われた神の子です。この世の価値観に翻弄されることなく、主に従っていきましょう。「わたしについて来なさい」と言われる主に、今週も従っていきましょう。


説教者:加藤 正伸 長老



<ヨハネの福音書 12章12〜26節>

12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。

17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。

18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。

19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。