2023年7月30日
「天にいます私たちの父よ〜主の祈り」
新約聖書:マルコの福音書14章32〜42節
祈りとは「あらゆる苦難に際して神に呼びかけること」(ルター)。
「イエス様が私たちの心を叩いてくださったことの結果」(O・ハレスビー)。
神様は神の子である私たちに祈ることを命じておられる。祈る事は神様の御心であり、祈りを通して神様は私たちに幸いを与えて下さる。
「主の祈り」とは、主イエス様ご自身が与えて下さった祈り。すべての教会に共通する。
「主の祈り」は、神への呼びかけ、7つの願い、神の賛美からなる。前半の 3つは天の宝を求める願い、後半の4 つは地の戦いの助けを求める願い。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」(マタイ 6章33節)
神への呼びかけ
「天にいます私たちの父よ」
天は「全能の」、父は「親子の親しさ」。ローマ書8章14〜16節
「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。…私たちは、御霊によって「アバ、父」と呼びます。」「アバ」は当時のユダヤ人の日常語でお父さん。「父」はギリシャ語。「天の父」と呼ぶ者はキリスト・イエスにあって兄弟姉妹の関係にある。
第一祈願
「御名があがめられますように」
神様の御名はそれ自体で聖いが、「私たちの間でも聖くあるように」。すなわち、信じた私たちの間でも、神様の名前の偉大さ、聖さが保たれるように、また神様を知らない人々の間でも神様の名前があがめられるように祈る。
神様の名前があがめられるときとは、神様の御言葉が正しく純粋に教えられるときと、私たちが御言葉に従って聖い生活を送るとき。反対に教会で偽りの教えが教えられる時や、私たちキリスト者の生活が罪に満ちたものであるときには神様の御名が汚される。私たちも、教会で御言葉が正しく、純粋に語られるように、また私たちが清い生活を送れるように求めていきたい。
第二祈願
「御国が来ますように」
天の「御国」とは「キリストの支配する」所という意味。
この神様の支配が私たちだけでなくすべての人に及ぶように、神の御言葉が伝えられるように、真理が知らされるように、人々が神の愛に生かされるように、祈っていきたい。
第三祈願
「御心が天で行われるように地でも行われますように」
御心が私たちの間でも行われますように。そのために私たちを悪魔の攻撃から守ってください、私たちに戦う力を与え私たちが勝利できるようにしてくださいと祈る。
悪魔は、私たちが聖い生活を送ることや、御国が広がること、教会で純粋に福音が語られることを妨げようとする。私たちを誘惑し、私たちの内側に残る肉の性質に働きかける。私たちの肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に働きかけ聖い生活を送ることや隣人の救いへの関心を失わせようとする。特に神様の御心を行おうとしているときは悪魔の攻撃も激しい。
教会で純粋に福音が教えられるように、私たちが聖い生活を送れるように祈ってきたい。
第四祈願
「私たちの日ごとの糧を今日も与えてください。」
神様が私たちに、私たちの肉体と生活に必要なもの全てを与えてくださることを感謝する。同時にそれを妨げようとする悪魔から守ってくださいと祈る。
「日ごとの糧」とは、例えば、食べ物や衣服、住まい、職場、家庭、お金や財産、両親や子供たち、友人、良い政府や役人、季節に合った天候、平和や健康、秩序と名誉など。まことの神を知らない人たちは、神様のその慈悲深さに気づかない。ルカ 12:16。ルカ 16:19。しかし「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方。(マタイ 5章45節)。
神様の子どもである私たちは、神様にこれらの贈り物を感謝し、神から授かっているものを奪おうとする悪魔から守ってくださるように祈っていきたい。
第五祈願
「私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪のある人たちを赦しました。」
神様の前に自分の赦しと人間関係における赦しを求める祈り。
私たちは、神と救い主イエス様を信じてバプテスマを受けた後も毎日罪を犯す。私たちの内側には罪の性質が残っている。またこの世の誘惑を受ける。その背後には悪魔が控えている。私たちは余計なことを言い、怒り、落ち込む。しかし私たちが重ねて罪の赦しを神様に請うとき、神様は祈りを聞いてくださる。それで私たちは、罪が赦されている確信を持ち、神様の前に安心して祈ることができる。
(注目すべき補足)「私たちも、私たちに罪のある人たちを赦しました」
キリスト者の向かう方向。私たちは、親子の間で、夫婦の間で、社会の中の様々な人間関係の中で傷つく。それが大きな重荷となる。赦すことができないと私たちの信仰生活は歪む。 しかしイエス様は、私たちの負いめ(負債)を完全に支払ってくださった。もし私たちが赦さないならイエス様の与えてくださった赦しを自分で帳消しにすることになる。(マタイ 18: 20)
主は私たちを、十字架によって赦されたということを起点・動機として、心の中で隣人を赦すことができるようにしてくださる。それが実際に隣人を赦す言動になる。「赦したくても赦せない」ときのために神様が備えてくださったものが聖礼典。聖礼典を通じて私たちは赦しを体験できる。
第六祈願
「私たちを試みに会わせないで」
悪魔の誘惑から守られ、恵みの状態にとどまることができるようにという祈り。
「試み」(ペイラスモス)には「試練」と「誘惑」の 2 つの意味がある。「試練」は、私たちの信仰を強くするため神様が私に来ることを許されているもの。試練の結果人は神に近づく。「誘惑」はその逆。その結果は罪で神から離れさせる。悪魔とこの世と私自身の人間の性質は私を罪に転落させようとする。この世に生きる限り誘惑から自由になることはない。誘惑にあってもそれを避け、誘惑を承認しないことが大切。
与えられた試練を耐え忍ぶことができるように、また誘惑を避け、打ち勝つことができるように祈っていきたい。
第七祈願
「悪からお救いください」
悪魔からお守り下さいと言う祈り。
悪魔は、真実の意味で神ではないのに、この世の人々の思い違いによって、まるで神のように仰がれている者。悪魔の働きは、私たちを偽り、絶望させ、堕落させること。特に「偽り」ほど人間世界を広く深く損なっているものはない。
天の父なる神様が私たちを悪魔から救出して下さるように祈っていきたい。
神への賛美
「国と力と栄えは限りなくあなたのものだからです」
「神様は私たちの祈りに答えることができる」そのことを確信します、という祈り。讃美のことば。
アーメン
旧約聖書の原語のヘブル語。「確か」と言う言葉で、確実や真実、まさにその通りと言う意味。この祈りはすべて、確実で真実で確固としていて、神ご自身と主イエスとその御言葉から出る真実によって成り立つということ。(悪魔は偽りの霊。見せかけであり、あやふやで曖昧でごまかし。)
「祈りとは、本質的に、無力な人のために備えられたもの」(O・ハレスビー)
特に無力さを覚えるとき、私たちはこの祈りを真心から祈っていきたい。
説教者:加藤 正伸 長老
<マタイの福音書 6章5〜15節>
5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
説教者:加藤 正伸 長老