2023年5月7日
「主は私の羊飼い」
新約聖書:ヨハネの福音書10章1節〜18節
前回は、イエス様が、生まれつき目の見えない人の目を開けられたと言う話をしました。イエス様は、癒された人に言われます。「わたしはさばきのために、この世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(39節)またイエス様は、パリサイびとたち、当時の宗教指導者たちに、あなた方は目が見えると言っているが、実は霊的な面で盲目であると話されたということをお話ししました。(41節)
今日の箇所はその続きです。イエス様はそのパリサイ人たちに、羊飼いと羊の譬えを用いてご自分が真の救い主であり、ご自分を救い主と信じる者の牧者であることを話されます。ここからイエス様が私たちの羊飼いと言われた意味について、一緒に考えたいと思います。
T イエス様の例え
A 羊飼いの仕事
初めに羊飼いについてご説明します。ユダヤ人が当時住んでいたパレスチナという地域は乾燥して、暑さの厳しい地域です。それで羊飼いは家畜に規則的に水を与えなければなりません。毎日井戸べに連れて行って水を与えます。
また野獣や盗人などから家畜の群れを守らなければなりません。そのため羊飼いは、杖と棍棒を持っていました。杖は、長さ1.7メートル、硬い材質の木で作られており、その一端は曲がっています。これは群れから離れた羊を引き戻すためです。棍棒は長さ76センチほどの棒で、一端を大きく曲げて丸みを持たせ、それに釘が打ち込まれていました。野獣を撃退するためのものです。
夕方、羊飼いは羊たちを「おり」に入れます。それは洞穴であったり、石を積み巡らして作った囲いでした。羊の群れは一人五十頭からニ百頭位で、多いときは補助者を置いたようです。おりに入れる時、羊飼いは入り口に立ち、杖の下をくぐらせながら羊の数を調べます。同じ地域で羊を飼う者たちは、同じおりに入れて、夜の間、交代で見張りをします。
朝になると、羊飼いは、羊に声をかけ、牧場に向かいます。羊たちは、羊飼いの声を知っていて、名前を呼ばれると、これを聞き分けて羊飼いについ行きます。羊たちの名前は、普通は花または果実だったようです。
B パリサイ人たち
主イエス様は、なぜパリサイ人たちにこの話しをされたのでしょうか? 彼らは律法によって、人々を教え導こうとした当時の宗教指導者です。彼らは律法を厳格に守ろうとしました。特に清めの教えを厳格に守り、他の者から自分たちを分離する者だと呼ばれたことから「パリサイ」という名がついたと言われています。彼らは、旧約聖書だけでなく、書かれていない口伝律法も同等に受け入れていました。
彼らが律法を厳格に守ることを強調したのは、1つは政治的に力を持っていた祭司的家系をとるサドカイ人に挑戦するためです。2つ目は、民を律法違反に陥る危険から守るためでした。このために彼らは、民に、異邦人とともに飲み食いすることを禁じます。また、安息日にしてはならない仕事の種類を決め、さらに他の禁止項目を付け加えました。こうして民に神への責任を自覚させ、いろいろな掟を守ることで聖別した生活を送るように指導しました。
彼らは、シナゴーグ(会堂)をいたるところに建てます。そしてすべての父親にその子を律法によって教育するようにしました。また日ごとに「シェマ」の朗読や、町ごとに「兄弟団」を作り礼拝行事を行うようにしました。
さらに彼らは、安息日を喜びと家庭的な楽しさの日にしたり、夫人たちが家庭を守る者として尊重されるようにしたと言われています。イエス様の時代のパリサイ派の数は正規で6千人、正規でない人を入れると2万5千人と言われ、そのうち2万人はエルサレムに居住していたようです。
一体彼らのどこが問題だったのでしょうか。彼らは、民を他宗教の影響から守るため、安息日を含めて律法を厳格に守るように教えました。彼らがいろいろな掟を作ったのは、民に神への責任を自覚させ、聖い生活をさせるためです。シナゴーグという組織を作り、民が礼拝や教育を受けることができるようにしました。安息日を、民が喜び楽しめるようにしました。彼らは大変立派なことをしたわけです。彼らが、自分たちこそ民の指導者、羊飼いと考えていたのは当然のように思えます。しかし彼らには決定的な問題がありました。
C 旧約聖書の予言
ここで旧約聖書から、神様はイスラエルの宗教指導者に何を求めていたのか見てみたいと思います。エゼキエル書34章です。エゼキエルは、バビロン捕囚の時の預言者です。彼は紀元前597年、エルサレムが破壊されて南王国ユダが消滅する11年前にバビロンへ連れて行かれます。その彼は、イスラエルの宗教指導者たちに次のように語りました。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。予言して彼ら牧者たちに言え。神である主は仰せられる。あぁ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。 牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなた方は脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気の者を癒さず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを探さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。」(1節?5節)
「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。」(11節)
「わたしが、わたしの羊を飼い、私が彼らをいこわせる。わたしは失われたものを探し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。…わたしは正しいさばきを持って彼らを養う。」(15節、16節)
エゼキエルは、バビロン捕囚の原因は、民を搾取し迷わせた貪欲で残忍な王や祭司にあるというのです。また神の愛であるイエス・キリストのことを預言しました。
皆さん。パリサイびとたちは、神様に喜ばれるために、律法を守ろう、聖い生活を送ろうと努力し、社会活動に励みました。しかし彼らは神様がどんなに自分たちを愛し、心にかけているかを知ろうとしなかったのです。無視したのです。決定的な問題とはそのことです。
彼らは、神の愛であるイエス・キリストを認めようとはしませんでした。自分たちを知識のない民衆とは別の特別な存在だと考えました。イエス様のことばを聞き、そのわざを目にすると、イエス様を救い主として認めるどころか、自分たちの立場を危うくする存在として殺す計画を立て、そして十字架につけました。
今日の箇所は、その彼らに向かって、イエス様が神様の御心と救いの御わざを語っているのです。
U主キリストと信徒
次に、この箇所から、イエス様が私たちの羊飼いと言われた意味について一緒に考えていきましょう。
A 羊と羊飼い
2節から5節には、イエス様が、信徒一人ひとりの名を呼ばれること、信徒は牧者であるキリストの声を聞き分け従うこと、しかしイエス様でなくこの世の声には決してついて行かないこと。イエス様は私たち信徒の先頭にいて導いてくださることが書かれています。
9節10節には、イエス様を信じるならば誰でも救われ、祝福された人生を送ることができること、イエス様がこの世に来られたのは、信徒である私たちがいのちを保ち、平安が与えられ、恵みを豊かに受けるためであることが書かれています。
11節には、イエス様はそのためにご自分のいのちを捨てられることが書かれています。
12節13節には、イエス様はいつも一人ひとりの信徒のことを心にかけて下さる方であること、また雇い人のように私たちが試練に会ったとき私たちを置き去りにすることはないことが書かれています。
14節には、私たちとイエス様は大変身近な関係だと言うことが書かれています。
16節には、イエス様は、私たちの教会や教団だけでなく他の教会や教団も導いておられ、イエス様の声に聞き従う者は1つの群れとなることが書かれています。私たちは公同の教会の存在を信じます。
私はこの説教を準備していて、特に14節からこんな自分にもイエス様を信じる信仰が与えられていることを感じ、感謝しました。
B 詩篇23篇
詩篇23篇は「主は私たちの羊飼い」ということばから始まります。私たちの良き羊飼いである神は、私たちが生きるために必要なすべてのものを与えてくださいます。私たちはしばしば、神様のこれらの贈り物に目をむけようとせずに、自分が欲しいものだけを考えてしまうように思います。そして与えられないと不平を言うのではないでしょうか。しかしそのような私たちであっても、主は、ご自身の恵みを控えることはなさらない。神は私たちにご自分のひとり子イエス様を与えてくださったのです。
「死の陰の谷」とありますが、ある人にとっては、病気が「死の陰の谷」かもしれません。別の人にとっては失業かもしれません。あるいは、家庭内の不和であったり、子供のことであったり、体の衰えという方もいらっしゃるでしょう。私たちが「死の陰の谷」を歩く時、主は私の前を歩いてくださいます。主は私たちと共にいて、ガイドしてくださる。主は私たちだけで行かせるような事はされません。また「あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです」とあります。もし罪を示されたならば、素直に悔い改め、主に従っていきましょう。
C招き
1 み声に聞き、従う
今日は、主は私たちの羊飼いということについて考えてきました。皆さん、主は私たちの羊飼いです。私たちは牧者であるイエス様の声を知っています。私たちが牧者であるキリストの声を聞き分け、イエス様について行くとき、主は祝福して下さいます。
一般に教会には牧師がいますが、当教会では不在なので、今は長老と説教者が説教をしています。長老は教会の霊的な面に責任を持っています。充分ではありませんが、信徒がキリストから離れないように祈っています。また傷ついたとき、弱っているときは力づけていきたいと願いながら奉仕しています。イエス様の御声に聞き従っていきましょう。イエス様は必ずお一人お一人を守り、その必要を満たし導いてくださいます。
祈り
良き羊飼いなる神様。私たちは、日々、あなたから必要なものを豊かに与えられていることに感謝します。しかし、あなたの声に聞き従うことのあまりに少ないものです。いつも自分のことだけで背一杯です。それでもあなたは、私を愛して下さいます。どうかあなたに聞き従っていくことができるようにしてください。
また私たちが、自分のことだけでなく他の兄弟姉妹たちのことを考えられるようにしてください。また長老、説教者、役員が、主から委ねられた務めを果たすことができるように力をお与え下さい。そして1つの群としてイエス様に従っていくことができるようにしてください。あなたの愛に感謝致します。アーメン
<ヨハネの福音書 10章1〜18節>
1「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
2しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
3門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
4彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
5しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
6イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
7そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
8わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
17わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
説教者:加藤 正伸 長老