2023年3月12日



「5つの幻と回復の希望」

旧約聖書:アモス書 7章〜9章




T.前回までのあらすじ(1章〜6章)


アモスは、職業預言者では無く、南ユダ王国に住む羊飼いでしたが、神さまからの召命により、北イスラエル王国で預言をしました。

アモスが預言した時代は、南ユダ王国ではウジヤ王の治世であり、北イスラエル王国ではヤロブアム二世の治世でした。この時代は、物質的には非常に繁栄した時代でしたが、偶像礼拝がまん延した時代でもありました。

そんな北イスラエル王国で、アモスはまず、周辺諸国への神さまの裁きを預言しました。それを聞いて北イスラエル王国の人々は拍手喝采だったと思いますが、周辺諸国への裁きの預言に続いて、アモスは北イスラエル王国への裁きの預言を語り始めました。それは、北イスラエル王国の人々が悔い改めて神さまに立ち返らなければ、国は滅び、人々は散り散りになるという預言でした。



U.アモスが見た5つの幻


今日は、アモスが見た5つの幻と、ベテルの祭司アマツヤとの対決と、最後に王国が回復される希望について書かれているところを見ていきたいと思います。

まず、アモスが見た5つの幻から見ていきたいと思います。

1.いなごの幻(7:1-3)

最初の幻は、「イナゴの幻」でした。

これは、滅びが地上を襲う幻です。神さまはイナゴの災害を準備しておられました。「二番草が生え始めたころ」とは春の季節で、この季節の「いなご」による災害は、来るべき収穫への絶望と飢饉の脅威を意味しています。

2節でアモスは民の苦しみを神さまの前に「ヤコブはどうして生き残れましょう」と訴えて、神さまの慈悲を呼び起こそうとしています。3節で神さまはアモスの嘆願を聞き入れて、その考えを変え、いなごの害を取り消されました。

2.焼き尽くす火の幻(7:4-6)

第2の幻は焼き尽くす火の幻できた。

アモスは、神さまが地上に「燃える火」を呼び寄せておられるのを見ました。この幻は夏のもので、水源の枯渇の結果、耕地の作物は枯れてしまいます。ここでもまた、アモスは神さまにとりなしの祈りをして、間一髪のところで神さまは預言者の祈りを聞き入れて、その災害を撤回されました。

第1の幻と第2の幻では、神さまはアモスのとりなしを受け入れて裁きを撤回しています。このことから、取りなしの祈りというのは必要なことなのだと言うことを学ばされます。私たちが、今、普通に生活していて裁きの撤回をお願いするようなことはほとんどないと思いますが、もう少し身近なことで、近しい人たちの救いを祈ったり、病や困難な中にある兄姉のために祈ったりすることは、私たちにも必要なことだと思います。

3.重りなわの幻(7:7-9)

第3の幻は、民に破滅をもたらそうとする破壊的な力ではなく、崩壊していくイスラエルの内的状態が示されました。

重り縄とは、現在は下げ振りと呼ばれている建築に使う道具で、壁や柱が垂直かどうかをはかるものです。アモスは、神さまが手に重り縄を持ってサマリヤの城壁の上に立っておられるのを見ました。神さまが重り縄ではかろうとしておられたのは、イスラエルの義です。重り縄はイスラエルの真ん中に垂れ下げられました。イスラエルの生活が、契約による神さまとの特別な関係に全く値しなくなっているので、この関係は破られ、契約は破棄されなければならなくなっていました。

この第3の幻では、あわれみの嘆願も、裁きを取り除くという約束もありません。それ故、この幻はもはや避けられない災いについての神さまの警告です。神さまの忍耐は尽きて、イスラエルを襲う惨禍はもはや避けることができません。こうして、「イサクの高き所」(これはベエル・シェバの古聖所も含んでいます)、それと、「イスラエルの聖所」は廃墟となります。そして、北イスラエル王国は崩壊します。

4.夏のくだものの幻(決定的なさばき)(8:1−14)

第4の幻は、ひとかごの夏のくだものの幻です。

アモスはひとかごの夏のくだものを見ますが、この幻の経験は、晩夏あるいは初秋の頃のものです。夏の果物はヘブル語で「カイツ」といい、終わりを意味する「ケイツ」にかけて大きな災いによってイスラエルに「終わり」が来ることを暗示しています。

8章全体がこの幻についての記述になっていて、そこには北王国イスラエルに下る3つの裁きが語られています。

一つ目は、9節10節で主の日が来ることが語られています。それは、主の裁きの日のことです。神様が裁きを下される時、激しい悲しみが人々を支配する様子が描かれています。

二つ目は、11節で神の言葉の飢饉が来ることが語られています。神さまの言葉は私たちが生きるために必要なものです。神さまの言葉が枯渇するということは、人間存在の根源である「生命の泉」が枯渇してしまう言うことです。

三つ目は、14節で偶像礼拝に対する裁きがあることが語られています。サマリヤの偶像も、ダンの偶像も、ベエル・シェバの偶像も、民の乾きを満たすことはできません。無力な偶像は、沈黙するしかないのです。

5.祭壇のおける幻(9:1〜4)

第5の幻は、祭壇の傍らに立つ主の幻です。

この幻は、裁きがすべての民に徹底的に下ることを預言したものです。

この箇所で、神さまは恵みの座を離れて、裁きの在に着かれました。神さまご自身の義に基づいて罪人(つみびと)を裁かれるとき、私たちには逃げ場がありません。

人は、神さまから逃れることはできないのです。それゆえ、最後は神さまに信頼するしか方法はないのです。ダビデも詩篇139編でこう告白しています。「神よ。私を探り、私の心を知って下さい。私を調べ、私の思い煩いを知って下さい。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いて下さい。」



V.アマツヤとの対決(7:10〜17)


さて、5つの幻について見てきましたが、第3の幻と第4の幻の間に、ベテルの祭司アマツヤとの対決の様子が描かれています。

アマツヤはベテルの祭司でした。アマツヤはたぶん、主の神殿ではなく金の子牛の偶像礼拝の祭司だったと思われます。まず、アマツヤはアモスが北イスラエル王国滅亡の預言をしていることをヤロブアム王へ告げ口しました。その上で、アモスに人々が不愉快になるような預言は止めて南ユダ王国へ帰って、そこで、預言者としての活動をするように忠告しました。

しかし、アモスは生活のために預言者としての活動をしていたわけではないので、アマツヤの命令を突っぱねます。ここで大切なのは、アモスは神さまからの召命があって北イスラエル王国で預言をしていたと言うことです。人の話を真摯に聞くと言うことはとても大切なことですけど、私たちはクリスチャンなので、自分自身の行動を決めるとき、人の言葉を鵜呑みにするのでは無く、神さまのみこころはどこにあるのかというのを考えるのは大切なことだと思います。アモスは、神さまのみこころに従って北イスラエル王国で預言し続けました。



W.回復の希望(9:11〜15)


さて、アモスはここまで周辺諸国と北イスラエル王国への裁きと滅びの預言を語ってきましたが、最後に、回復の希望を預言して終わります。

神さまは北イスラエル王国を滅ぼされますが、それは回復の希望のない完全な滅びではありませんでした。滅びと共に、いずれ、イスラエル王国が回復されることもアモスは預言しています。そして、その、回復されるイスラエル王国は、北イスラエル王国だけのことではなく、南北が統一されたイスラエル王国のことです。

アモスの預言ののち、北イスラエル王国はアッシリヤに、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされて、ユダヤ人は捕囚の民となりイスラエルから連れ去られます。その後、帰還したり、離散したりを繰り返しながら、1948年にイスラエルが一応建国されましたが、これも、イスラエル王国の完全な回復と言えるのかは疑問が残ります。歴史的な事実は、調べていただければすぐに分かることなので、今、ここでは詳しくご説明しません。

そうすると、このアモスの預言したイスラエル王国の回復というのは何なのかというと、それは、イエス様の再臨も視野に入れた私たちの救いの預言です。アモスが預言をした時代、まだ、イエス様の誕生まで何百年も前なのに、このときすでに、イエス様の再臨を暗示する預言がされていました。

9章11節12節

当時、イスラエルの周辺諸国の異邦人にも救いがあるとはユダヤ人たちは考えていませんでした。そんな時代にすでに異邦人もクリスチャンになって救われるという預言がされていました。

9章15節

この箇所は、イエス様の再臨の後のイスラエルの回復のことを預言しています。



X.最後に


旧約聖書の預言書を読んでいると、ところどころ再臨に関わる預言が出てきます。普段生活していて、再臨のことを考えることは少ないかも知れませんが、クリスチャンである限り、再臨のことを全く無視することはできないと思います。でも、すでに神さまを信じてクリスチャンになった私たちは、再臨が起こることを感謝し、神さまを賛美することができます。再臨は、神さまを信じていない人たちにとっては絶望かもしれませんが、神さまを信じている私たちにとっては希望です。

神さまは、今から数えると三千年前、四千年前の昔から、イスラエルだけではなく異邦人の救いも準備していてくださいました。それは、今、恵みによって救われている私たちの救いが、旧約聖書の時代から神さまによって準備されていたということです。私たちの信じている神さまは、全知全能の神さまです。私たちが救われたのは、なりゆきで、とか、たまたま、とか、偶然そうなったとかではありません。神さまは最初から準備して選んで私たちを救ってくださいました。

ただ、私たちは、神さまのご計画のすべてを理解することはできません。だからこそ、私たちには祈ることも聖書を読むことも、宣べ伝えることも必要です。まずは、自分が救われていることを神さまに感謝して、祈って、聖書を読んで、神さまのことを宣べ伝えていけると良いと思います。

最後に、ローマ書11章33節から36節をご紹介して終わりにしたいと思います。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」




説教者:菊池 由美子 姉