2023年1月8日



「神さまからの最高の贈り物を受け取りましょう」

新約聖書::ヤコブの手紙1章1節〜18節



T.ヤコブの手紙とは


新約聖書の書簡は、パウロの書いたものが多いのですが、このヤコブの手紙を書いたのは、1節のあいさつにもあるとおり、ヤコブです。そして、このヤコブという人物は誰かというと、イエス様の弟(ヨセフとマリヤの子ども)です。

ヤコブは、イエス様の復活まではクリスチャンではありませんでしたが、復活後に回心してクリスチャンとなり、エルサレム教会の指導者となりました。

ヤコブの手紙は、ステパノの殉教後に起こった迫害によって諸国に散らされたユダヤ人クリスチャンへ宛てて書かれたもので、特定の誰かに対するものでは無く、外国に移住したユダヤ人クリスチャンたちが回覧して読むように書かれたものです。そのため、読む人たちが旧約聖書やユダヤ教のことを良く知っていることが前提となって書かれています。



U.試練と誘惑と忍耐


1.試練による成長(2-4)


まず、ユダヤ人クリスチャンたちに対して、試練に対して神さまに祈って知恵を求めるように教えられています。

そもそも、この手紙は迫害によってエルサレムから近隣の国々へ散らされたユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたものですので、この手紙を読んでいるクリスチャンたちはまさに試練の真っ只中にいたと思われます。

彼らの個々の状況は様々だったと思いますが、ヤコブは、今の試練は信仰を成長させるチャンスだと彼らを励ましています。

マタイの福音書5章10節から12節で、イエス様は次のように言われています。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口をあびせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

ヤコブが自分の手紙でユダヤ人クリスチャンたちを励ましたとき、このイエス様の言葉が念頭にあったのではないかと思います。



2.知恵を求めなさい(5-8)


そして、ただ励ますだけでは無く、どのようにして試練に打ち勝つことができるのかのアドバイスもしています。

5節で、ヤコブは、試練に打ち勝つために神さまに知恵を求めるように勧めています。そして、神さまに知恵を祈り求めるとき、少しも疑わずに求めるように教えています。

有名な聖句ですが、マタイの福音書7章7節で、イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。」とおっしゃっています。また、イエス様はマタイの福音書21章21節22節で、疑わずに祈り求めることの大切さも教えておられます。

「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

これも有名なイエス様のおことばですね。



3.試練と身分の関係性(9-11)


さらに、ヤコブは貧富について言及しています。

迫害によって近隣の国々へ散らされた人々の中には、エルサレムから離れたことによって貧しくなった人もいたし、お金持ちだったからこそ迫害の激しいエルサレムから逃れることができた人もいたのでしょう。

生活していくのにお金が必要なのは今も昔も変わらないでしょう。ここで、貧富について言及されるのは唐突な感じがしますが、散らされたユダヤ人クリスチャンたちにとって、貧富や身分の差の問題は信仰の問題だったのだと思います。これは、時代や場所と関係のあることなので、今の日本に住む私たちには分かりにくいのですが、当時のイスラエルとその周辺の国々では貧富の差がそのまま身分の差に直結していました。それで、ヤコブは、この問題を信仰の問題として避けて通れないと思い、ここで言及しました。

富んでいる人には、富は人生の確かな土台を与えるものでは無い、富んでいることによって救いを買い取ることはできないということを知ってもらい、たましいが砕かれ、神さまによって低くされて、謙遜になることを勧めました。

逆に貧しい人には、キリストにあって高い身分が与えられていることを教えています。当時、貧しいということには、単に貧乏であるということだけでなく、身分が低く、さげすまれているという意味もあったからです。

ヤコブは、富んでいる人にも貧しい人にも、この世の富は一時的なものであり、人間の栄華ははかないものであることを知って欲しかったのです。

そして、これは、私たちにも通じるところがあると思います。ここで言及されている富とは金銭的なことで、今、この教会の中でお金持ちであることをおごったり、貧しいことをひがんだりする人はいないと思いますが、この富を、金銭的な富のことだけでは無く、自分の才能のようなものも含まれていると考えると、私たちにも通じるところがあるのではないかと思います。人間的なある特定の才能に富んでいる人は、その才能をおごることなく、また、自分と同じような才能の無い人をさげすんだりすること無く、体の各器官が違う働きをするように、神さまは私たちにそれぞれ違う賜物を与えて下さっていて、それぞれがふさわしい働きをしているということをいつも心に留めておいていただきたいと思います。

そのために、自分自身の賜物をよく知ると言うことも大切です。さらに、自分の賜物を神さまによってふさわしく用いていただけるように日々祈ることも大切だと思います。



4.試練と誘惑(12-15)


また、試練の話に戻ります。

貧しさも豊かさも、私たちにとっては信仰を試す試練となるものです。そして、試練は、クリスチャンの品性を完全へと導きます。しかし、試練には、誘惑を引き起こす危険も潜んでいます。試練自体は、神さまから与えられたもので悪いものではありません。試練は私たちの信仰の訓練になるもので、信仰を強める助けとなるものです。

では、誘惑とは何でしょうか。

日本語には「魔が差す」という言葉があるのですが、まさに、誘惑とは「魔が差す」ようなものだと思います。ヤコブは、誘惑が悪魔から来るとははっきり言及していません。なので、必ずしても外側から来るものではなく、試練の中にあるとき、あるとき、ふっと「魔が差す」ように、自分の中の欲に引かれて誘惑に陥ることがあります。

私たちは、誘惑に陥ったとき、その責任を神さまに転嫁してはいけません。神さまは、試練は与えられても私たちを誘惑して罪に陥らせようとなさる方ではありません。

罪を犯したとき、それを神さまや悪魔などに責任転嫁してはいけません。当然、神さまが私たちを罪を犯すように誘導されることはありません。悪魔は、私たちに罪を犯させようとしてきますが、私たちは悪魔に責任転嫁して自分の犯した罪について、悔い改めて告白することを避けてはいけません。私たちが罪を犯すのは、外的要因があったとしても、あくまでも自分の中にある欲が、罪となる行動や思いを引き起こしているので、自分には罪が無いかのように責任転嫁することはできません。もし、誘惑に陥って罪を犯してしまったと気付いたときは、すぐに悔い改める必要があります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節

ヨハネによってこのように書かれています。私たちが悔い改めるとき、神さまは私たちの罪を赦して下さいます。罪を犯したと分かったとき、私たちはその罪を誰かのせいにしてあれこれ言い訳するよりも、早く、できるだけ早く、悔い改めて神さまに赦していただく方が良いと思います。



5.神の賜物、良い贈り物(16-18)


「だまされないようにしなさい。」とヤコブは愛する兄弟たちに警告しています。

今も、色々な詐欺がありますよね。

メールなどでも迷惑メールで色々な方法で詐欺に引っかけようとしてくるものが届きます。そういうのはだいたい見るからに詐欺だなって分かるものが多いのですが、詐欺の中には、巧みに私たちをだまそうとしてくるものもあって、絶対に騙されないと思っていても、騙されそうになったり、騙されてしまったりすることもあります。

同じように、私たちの信仰を揺るがそうとしたり、信仰に疑いを生じさせようとしたり、信仰を失わせようとしてくるものがあって、ヤコブはそういうものに「だまされないように」と警告しています。そういう私たちを「だまそうと」してくるものは巧みです。

でも、神さまは変わることの無いお方で、どんな時にも頼ることのできるお方です。

また、私たちをだまそうとするものが自分の中から出てくることもあります。それが疑う心です。だから、ヤコブは6節で「少しも疑わずに、信じて願いなさい。」と勧めているのです。

また、私たちはお祈りの時に「天の父なる神さま」と言うことがあります。神さまは、父として私たちをお生みになりました。私たちが霊的に新生したのは父なる神さまによることです。18節に「みこころのままに」とあるように、私たちの新生は父なる神さまの願いによるのであり、救いは自分自身の努力によるのでは無く、神さまからの一方的な恵みによって私たちは救われているのです。

この、霊的な新生や救いの恵みが17節で言われている神の賜物であり、神さまからの良い贈り物なのです。



V.では、私たち


最後に、まとめたいと思います。

今日の箇所は、主に試練と誘惑と忍耐について書かれていました。

ヤコブの手紙に書かれていることは、行いに関することが多く、私たちにクリスチャンとしてどのように生きれば良いのかを分かりやすく教えてくれています。

しかし、ここで間違えてはいけないことがあります。

もし、ヤコブが書いているようなことを自分の努力で行い、それが救いに繋がると誤解するなら、それは律法主義です。旧約聖書の時代に神さまが与えて下さった律法は良いものでしたが、律法を守ることで救いが得られると考え、自分の努力によって律法を成就しようとする考えは律法主義で、これは誤りです。

律法は良いものですが、律法主義は誤りです。

ヤコブが書いている模範的な行いは、いずれ私たちも獲得していくべき物ですが、それは、自分の努力によってではありません。自分の努力によってクリスチャンらしい行いを獲得しても、それは肉から肉に変わったにすぎません。私たちは、肉から霊に変えられていかなければなりません。

ヤコブが書いていることは、あくまでも救われたあとの、私たちのあるべき姿であって、さらに、そのあるべき姿も自分自身の努力によって獲得するものでは無く、祈り求めて神さまによって変えていただいて獲得していくものなのです。

神さまは、私たちのクリスチャンらしい姿やクリスチャンらしい生活というのもすでに用意して下さっています。神さまに救われて、新しい命を貰っていると言うことは神さまからの最高の贈りものですが、新しい年になって、もっともっと神さまに祈り求めて、神さまからの最高の贈りものを受け取って、信仰を新たに歩んでいきましょう。


最後に、第二コリント4章16節から18節をご紹介します。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」





<ヤコブの手紙 1章1〜18節>

1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。

10  富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。

11 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。





説教者:菊池 由美子 姉