2022年11月6日



「神の子イエスを信じる者の幸い」

新約聖書:ヨハネの福音書5章19〜47節



はじめに

前回は、38年もの間病気で伏せていた人をイエス様が癒された話をしました。イエス様がこの人を癒したのは安息日でした。ユダヤ人の指導者たちは、モーセの律法を守らないと言う理由でイエス様を迫害します。 もう一つ、いやそれ以上にユダヤ人たちを怒らせたことがありました。それはイエス様が「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられた」ことです。それでユダヤ人たちはイエス様を殺そうと考えるようになりました。 (18節、19節)

今日のこの箇所は、イエス様がユダヤ人たちに、ご自分が神の子であること、また神から遣わされたことを証しする場面です。御父と御子の一体性、御子イエス様の権威、イエス様ご自身の証言、ユダヤ人たちの誤りが示していること、の順でお話をします。なぜイエス様はユダヤ人たちにこの話をしたのでしょう。それは、彼らが、イエス様を信じて救われるためでした。(34)



1 御父と御子の一体性(19節〜20節)


神様とはどのようなお方でしょうか?この世界を創られた方です。そしてそれを保持されておられる方。また私たちに、体や、心、理性、感性、食べ物、着るもの、家族、家庭、私たちに必要なもの全てを豊かに与えてくださる方であり、あらゆる危険から私たちを守り悪魔から遠ざけてくださる方です。

イエス様は、この神様を「父」と呼びます。ご自分は「父から遣わされた」、またご自分は「父の名によってきた」と言われました。さらにイエス様は、19節にあるように「父が知っておられることを見て行う以外は、自分は何も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」30節では「ただ聞く通りにさばくのです。」と言われます。

なぜなら「父が子を愛して、ご自分がなさることをみな、子にお示しになるからです。」(20節)ご自分も「わたし自身の望むことを求めず、私を遣わした方の御心を求めるからです。」(30節)。ここに御父と御子の一体性を見ることができます。



2 御子イエス様の権威(21節〜30節)


イエス様は、父なる神様からこの世に遣わされました。それはこの世をさばくためです。22節には、「父はすべてのさばきを子に委ねられた。」また27節には「父はさばきを行う権威を子に与えられた。」とあります。そして、「それは、すべてのものが、父を敬うように子を敬うためです。」(23節)と言われました。そのさばきというのは 「イエスを信じる者はよみがえっていのちを受け、イエスを信じないものは甦えってさばきを受ける」(29節)ことです。

イエス様は、「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださった」(26節)と言われました。そして「与えたいと思うものに命を与えます」(21節)。人は、イエス様のことばを聞いて、父なる神様を信じるならば、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがありません。(24節)「神の子の声を聞く者は生きる」(25節、28節)のです。

またヨハネ3章18節にはこう書かれています。 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

小助川次雄先生は、ある著書で「ある日本人の医師が、神は信じられるが、ユダヤ人のイエスが子なる神であることを信じられないと言ったまま逝去してしまった。イエスを信じることによって永遠のいのちを得て、さばきからも救われるのに、残念でならない。」と書かれています。

私たちは、このイエス様を信じて、罪赦され、罪と死と悪魔の支配から解放され、永遠のいのちを与えられています。(ヨハネ3:15)私たちには神様の愛が与えられ、イエス様の愛の中にいるのです。



3 イエス様ご自身の証言(31節〜47節)


イエス様は、ご自分が神様からこの世に遣わされたことを、次のようにユダヤ人たちに証しされました。

1つ目は、神ご自身が、イエス様について証しをしておられることです。(32節、37節)

2つ目は、バプテスマのヨハネの証しです。ヨハネはイエス様を「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証しし、「この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハネ1: 34)と言いました。

3つ目は、イエス様が行うわざです。(36節) ルカ7章22節に、イエス様ご自身が語られたわざが書かれています。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」

この他にも、水の上を歩く、5000人に食物を与える、水をぶどう酒に変える、嵐を沈めるなど、様々な奇跡を行われました。

4つ目は、聖書です。聖書がイエス様について証しをしているのです。(39節)



4 ユダヤ人たちの過りが示していること


ユダヤ人たちは、当時、イエス様の弟子たちと同じように、その目で真の神イエス様にお会いしていました。その耳でイエス様のことばを聞いていました。しかしイエス様が神様から遣わされたことを信じようとはしませんでした。(38節)イエス様のもとに来ようとはしませんでした。(40節、43節) なぜでしょう? 私たちはパリサイ人ではありませんが、肉を持っているので、同じような間違いを犯す可能性があるように思うのです。ここで、私たちが信仰者として気をつけなければいけないことを考えてみましょう。

1つ目は、聖書を正しく理解することです。ユダヤ人たちはモーセの律法を正しく理解していませんでした。モーセの律法は、人が幸せになるために神様が与えてくださった「枠」です。ユダヤ人たちは、その律法に細かい決まり事を付け加え、民衆にそれを守るように指導しました。しかし、彼らは律法の中ではるかに重要なもの、正義と哀れみと誠実を、自分たちがないがしろにしていることに気づきませんでした。(マタイの福音書23章23節) 彼らは聖書の根本的な目的を見失っていたのでした。

2つ目は、聖書そのものの理解です。聖書は主イエス様について書かれたものですが、そのことがユダヤ人たちには分からなかったのです。彼らの聖書研究は、永遠のいのちを与えてくださる方を受け入れるように導くものではありませんでした。(39節)

3つ目は、神様を愛するということです。イエス様はユダヤ人たちを 「互いの間の栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めない」と言われました。(44節) また42節には「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。」と言われました。これは「神を愛する愛がありません」と言うことです。彼らは、神様のことを教える立場にいながら、神様から褒めてもらうことよりも人から賞賛を受けることの方が大切でした。ユダヤ人たちは根本的に偽善者だったのです。

このように見てくると、私たちも同じような間違いを犯す可能性があるのではないでしょうか。特に牧師や教会の指導者には責任重大ということです。



5 まとめ


イエス様は、ユダヤ人たちがイエス様を信じて救われるためにこの話をしました。(34) 今日のこの箇所の中心成句は、24節です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

イエス様は私たちのため、あなたのために死んで下さいました。私たちは罪の赦しを与えられ、罪と死と悪魔の支配から解放されています。イエス様は今も生きておられ、私たちと共にいて下さいます。悪魔は私たちを、不平不満、他人への妬み、悪意、自暴自棄のままに縛りつけようとします。しかし私たちは悪魔の支配から解放されているのです。かつて私たちを縛り付けていた鎖は無いのです。そのことを忘れないようにしましょう。

今は、誰もが不安な時代です。1年半前に始まったコロナ感染は未だに終息しません。3月から開始されたロシア軍のウクライナ侵攻は、冬を迎える今も続いています。北朝鮮から威嚇のためのミサイルが発射され、東北では緊急避難の通報まで流れました。しかし私たちには、イエス様にある希望があります。神を信じることの幸いを伝えていきましょう。今週も、主の平安が皆さんと共にありますようにお祈りいたします。



<ヨハネの福音書 5章19〜47節>

19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。

21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。

28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。

29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。

32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。

33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。

34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。

35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。

36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。

37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。

38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。

39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

41 わたしは人からの栄誉は受けません。

42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。

43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。

46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。

47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」






説教者:加藤 正伸 長老