2022年10月16日



「慈しみ深い主イエス様」

新約聖書:ヨハネの福音書5章1〜18節




はじめに

ヨハネの福音書5章は、前半と後半に分けることができます。前半では、イエス様が安息日にベテスダの池で病人を癒されたこと、またそれを聞いたユダヤ人たちが、安息日を守らないイエス様を迫害するようになったことが書かれています。後半では、イエス様が、ご自分が神の子であることをユダヤ人たちに証しした内容が記されています。

今日はその前半部分を3つに分けてお話しします。第一は、イエス様が病人をあわれまれるお方であるということ、第二は、イエス様は安息日にみわざを行われたということ、第三は、イエス様は私たちを罪から救うために来られたということです。

 

ポイント1  イエス様は病人をあわれまれるお方である

 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られます。(1節)カペナウムからエルサレムまで、直線距離で約100キロ、東京-熱海間の距離ですから、徒歩で数日はかかりました。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていました。(2節)ベテスダの池は、神殿の北からさほど遠くない場所でした。ベテスダと言う名前は、訳すと「哀れみの家」と言う意味だそうです。


ここに多くの病人や障害のある方々が集まっていました。(3節) 理由の一つは4節にありますが、「主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされた後で最初に入ったものは、どのような病気にかかっているものでも癒されたからである」。このことを信じていたからです。わらにもすがる思いだったのでしょう。

「池の水が動く」ことについて、注解書には「間欠泉の現象」(間欠泉とは、一定周期で水蒸気や熱湯を噴出する温泉のこと。日本では長野県の地獄谷温泉や熱海の大湯間歇泉が有名)や、「池の底には地下水が流れていて、時々泡立って、池の水を撹乱した」という説があります。

 そこに38年間、病気で思うように体を動かすことのできない人が横になっていました。(5節) 彼はどのような思いで毎日を過ごしていたのでしょうか。食事は誰が用意していたのでしょうか。


イエス様は彼を見て同情され、そして言われます。「よくなりたいか」。(6節) この言葉を、皆さんはどのように感じられますか?決して冷たく突き放すようなことばではありません。優しい、温かいことばだったことでしょう。


しかし彼は、水が動かされた後に最初に池に入ること、そうすれば自分の病は直るという思いでいっぱいでした。そして自分を池に入れてくれる人がいないことが彼にとっては問題だったのです。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです。」ここにはあきらめと悲しみすら感じられます。しかしその彼のところにイエス様の方から近づき、彼の前におられたのです。


イエス様は彼に言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節) 彼は「起きて床を取り上げて歩きなさい。」と言うイエス様のことばに出会います。そしてそのことばを信じたとき、彼は治りました。そして床を取り上げて歩き出しました。(9節) 


その後、彼は神様を礼拝するために神殿に行きました。その彼を、イエス様は神殿の中で見つけます。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(14節) 私たちは、このイエス様のことばから、彼が病だけでなく罪も赦されていたこと、彼がその罪を自覚していたことに気づきます。この人の罪とは何か。それについては何も書かれていません。


ここまでのところから、イエス様は私たちの病に同情してくださる方であることがわかります。イエス様は、この人だけでなく、他にも多くの人をいやされました。マタイの福音書には、ペテロの姑、100人隊長のしもべ、ツアラアトの人、悪霊に憑かれた人、てんかんの息子、足の萎えた者、手足の不自由な人、視覚障害の人、口のきけない人の病を癒されたことが書かれています。

マタイの福音書 8章17節には、「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」と書かれています。


イエス様がどんなに病人を哀れまれたのか、次の安息日のこととも重なりますが、それがとてもよくわかる箇所が、ルカの福音書13章14?16節です。ここには、イエス様が18年間病で腰が曲がって伸ばすことのできない女性を安息日に直したことが書かれています。しかしそこにいた会堂管理者は、安息日には働いてはいけないと憤ります。その彼に、主は言われました。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」このイエス様が、今も私たちのことを心に止めておられるのです。


ポイント2 イエス様は安息日にみわざを行われた

イエス様に癒していただいた人は床を取り上げました。しかしパリサイ人はその癒された人に「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」と言います。(10節) 律法で定められた規則に従っていないというのです。ユダヤ教の「ミシュナー」、これはユダヤ教の指導者やラビの口伝律法を集めたものですが、これによると、安息日に物を運ぶ事は禁じられていました。床に人を乗せて運ぶ事は許されたが、床だけを取り上げて運ぶ事は禁じられていたそうです。

しかし、癒された人は彼らに答えます。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」(11節)「しかし」と言う言葉から、彼がユダヤ人たちに、自分を直してくれた人のことを伝えようとしていることが分かります。しかしユダヤ人たちには、それはどうでも良いことでした。彼らは癒された人に尋ねます。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」(12節)



彼にはそれが誰だかわかりませんでした。人が大ぜいそこにいる間に、イエス様は立ち去られたからです。(13節)彼は、後になって、神殿でイエス様と出会い、それがイエス様であることが分りました。そしてユダヤ人たちに、自分を直してくれた方がイエス様だと報告します。(15節)彼らに政治的な権限があったからでしょう。

このためユダヤ人たちは、イエス様を迫害するようになります。(16節)またイエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたので、ますますイエスを殺そうとするようになりました。(18節) 

 

ユダヤ人たちも、はじめのうちは、イエス様がご自分を神の子としたことについて、意見が分かれていたようです。(ヨハネの福音書 9章16節)しかし、イエス様がご自分を神としていたことから、死にあたると判断したようです。(ヨハネの福音書 10章33節)


そもそも安息日とは何なのでしょう。十戒の第三戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」 出エジプト記20章10節「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。−−あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も−−」。パリサイ人たちは、これに「ミシュナー」にあるような様々な規則や決まりを付けました。


しかし、イエス様は言われます。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコの福音書 2章27〜28節) 神様は私たちを愛し、私たちに必要なものとして、安息日を与えてくださいました。私たちは、神様を礼拝する者として造られました。安息日は、私たちが、神様のみことばを聞き、礼拝することで、真の安息を得るためのものなのです。


注解書に次のような説明がありました。「神は、毎週の安息日を守る必要はありません。なぜなら神は、永遠の安息日を守っているからです。神様は、創造された世界の保持者として、今でも真断なく働いておられます。」ですからイエス様は、17節で、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と言われたのです。「人の子は安息日にも主です。」


聖書には、この他にも安息日にイエス様が病人や障害のある人を癒した箇所があります。生まれつきの盲人の目を、泥を作って開けられました 。(ヨハネの福音書 9章14節) 会堂にいた片手の萎えた人を直しました。(マルコ3: 1?3、ルカ6:6?8)


皆さんの中に、クリスチャンなら礼拝を守らなければならないと思っている方はいないでしょうか。神様が人のために、必要なものとして安息日を与えてくださいました。神様はすべての人が神様を礼拝し、心も体も癒されることを望んでおられるのです。礼拝は規則や決まりではありません。神様の御心を損なわないようにしましょう。


ポイント3 イエス様は私たちを罪から救うために来られた


先ほど述べた通り、イエス様は彼の病だけでなく罪も赦されました。私たちは、「キリストが現れたのは、罪を取り除くためであった」(Tヨハネ3: 5)ことを知っています。そしてそのキリストを信じて私たちは罪から救われたのです。

イザヤ書53章5〜6節には、次のように書かれています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」


私たちは、毎日家庭で、職場で必死に働いています。生活しています。そんな中で、病気になり、職場や家庭の人間関係に苦しみます。次から次に問題が起きることもあります。ため息をつきながら、ようやく布団から起き上がり、学校や会社に出かけることもあります。痛む手や体をさすりながら1日を始める人もおられるでしょう。


皆さんの中に神様は自分に関心がないのではないか、と思っている人はいないでしょうか。祈っても聞いてくれないと思っている人はいませんか。違います。1秒でも神様はあなたから目を離した事はありません。十字架にかかって血を流し、あなたに命を与えて下さった神様が、あなたに関心がないはずはありません。ベテスダの池にいた病人のところに来られたように、イエス様はあなたのところに来てくださいます。

神の愛、キリストの十字架の救いを信じましょう。感謝しましょう。神の愛に留まり、イエス・キリストとともに歩みましょう。イエス様があなたに十字架の恵みを与えてくださいます。


 


1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。*"

5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」

12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」

13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

ヨハネの福音書 5章1〜18節






説教者:加藤 正伸 長老