2022年10月2日



「父なる神を礼拝する時」

新約聖書:ヨハネの福音書 4章1〜30節




イエス様がユダヤからガリラヤへ向かう途中のことです。スカルというサマリアの町を通りました。旅の疲れで、ヤコブの井戸の傍らで休んでいると、1人のサマリアの女が井戸の水を汲みに来ました。彼女は人目を避けて来たのです。普通、水を汲むのは朝と夕でしたから。

イエス様はその彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われました。彼女は、少し驚いて、「どうしてあなたはユダヤ人なのにサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と尋ねます。これは、「ユダヤ人がサマリア人と付き合いをしなかった」からです。彼女も、それまでユダヤ人の男性から声をかけられたことはなかったことでしょう。


「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」のには理由があります。

ソロモン王の死後イスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダの2つに分裂します。北王国イスラエルの首都サマリアは、紀元前721年にアッシリアに占領され、多くの住民がニネベなど国外へ捉え移されます。そしてバビロンやダマスコなど他の地の住民がサマリアに移り住んで、異なる民族との結婚が行われるようになりました。この時アッシリヤ王は、捕らえ移した祭司のひとりをサマリアに行かせて、どのようにして主を礼拝するかを教えようとします。しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、彼らの刻んだ像に仕えました。このようにして、サマリアでは独自のユダヤ教を発展させていくことになりました。 (列王記 第二 17章24〜29節、40〜41節 )

もう一方の南王国ユダは、紀元前597年から538年にバビロンの捕囚を経験しますが、異なる民族との結婚を避けることができました。それでユダヤ人は人種的に純潔ではないサマリヤ人を忌み嫌ったのです。悪霊につかれていると言うくらいでした。(ヨハネの福音書 8章48節)


サマリアの女にイエス様は答えます。「もしあなたが、神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者が誰であるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエス様は彼女に、わたしは生ける水を持っていると言われます。

女性は尋ねます。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」(11〜12節)


イエス様は答えます。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13〜14節)


女性は気付いたことでしょう。イエス様の言われる水、「いつまでも渇かない水」とは、飲み水と違うということに。しかし、彼女は人目を避けて真昼に水を汲みに来ることが、そのような人生が辛かったのでした。それで女性は言います。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(15節) 自分の求めているものが何なのかよくわかりませんでしたが、女性はイエス様に求めました。


するとイエス様は彼女に、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われます。彼女は、夫がいないことを告げます。するとイエス様は、彼女に「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と言いました。

実は、彼女にとってこのことが問題だったのです。正式に結婚をせずに生活していること、これまで自分がしてきたことです。このことが、町の人の目を避けなければならない理由でした。


彼女がどのような形で、男性と一緒に住むようになったのかは書かれていません。病気で夫を早く亡くしたのかもしれません 夫に甲斐性が無く、別れたのかもしれません。小助川先生は「彼女の結婚に関しての乱れが問題であったようだ」と書かれています。5人のg男性と夫婦生活を送っているのですから、やはり何か問題があったのでしょう。そもそも結婚は、神が「幸福の基礎」として与えたものです。彼女が結婚を軽視した結果、町の人から白い目で見られることになったのです。イエス様は彼女が自分の罪に気付くようにされたのです。


彼女はイエス様を預言者だと思いました。自分の罪を自覚した彼女は、気まずくなったのか話題を変えます。今度は、礼拝すべき場所がユダヤ人とサマリア人とでなぜ違うのかをイエス様に尋ねます。(20節)「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言います。」


サマリアの人たちが礼拝していたのは、ゲリジム山とエバル山のことです。ユダヤ人たちはエルサレムでした。この2つの山は、イスラエルが、エジプトを出て後、荒野の40年を経て約束のカナンの地に入る前、モーセがイスラエル人に語ったことばの中に出てきます。(申命記 11章29〜30節)


しかしイエス様は彼女にいます。21節?24節をみてください。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」(21、22節)救い主はユダヤから出るけれども、礼拝する場所はエルサレムでもゲリジム山でもエバル山でもない日が来るということです。


「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(23、24節) 神様は、真の礼拝者が、御霊と真理によって、真心からイエスを信じる信仰によって、神に礼拝を捧げることを求めているということです。


女性はイエス様に言います。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(25節) 女性は、キリストを待ち望んでいました。イエス様は言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26節)

 

その時彼女は、それまで話していた方がキリストであることが分かりました。そしてこの方が罪深い自分を、温かく受け止めておられることを感じました。彼女の心のうちに罪が赦された喜びがありました。もはやこの時、彼女は、人目を避けて井戸に水汲みに来た女性ではありませんでした。


彼女は、自分の水がめを置いて町へ帰り、町の人々に「来て、見て下さい。」と声をかけていきます。「私がしたことを、全て私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と。彼女がこう言ったのは、自分の判断に自信がなかったからではありません。救いの知識は十分ではなかったかも知れませんが、キリストにお会いした喜びがありました。また、まことの礼拝は、彼女にとってだけでなく町の人たちにも大問題でした。町の人たちは、サマリアの地でイスラエルの神を信じる人たちだったからです。


町の人の多くが、この女性の様子と言葉によってイエス様が神の子キリストであることを信じました。彼女の言葉だけではなく、「来て、見て下さい。」と言う女性を見て、何か重大な事が起きたことが分かりました。「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」(30節)のです。

町の人たちは、イエス様に会って、自分たちのところに滞在してほしいとお願いしました。イエス様はその願いを受け入れ2日滞在します。そしてさらに多くの人が、直接イエス様の言葉を聞いて信じました。


今日のこの箇所から、3つのことが分かります。

一つ目は、イエス様は、私たちを新しく生まれ変わらせてくださるということです。サマリアの女性は、イエス様を信じたとき、心の奥底から永遠の命への水が湧き出るようになりました。それまで自分の罪が原因で人々から白い目で見られ、深い孤独感を味わっていた彼女でした。しかしイエス様はその彼女を受け入れたのです。彼女は、罪が赦されたことを知り、町の人にキリストを伝える人へと変えられました。「生ける水」とは聖霊による救いの喜びのことです。(ヨハネの福音書 7章37〜39節)

信じている私たちはどうなのでしょう。イエス様を信じている私たちは、ルターの言う「義人にして罪人」です。古い人が死んだあともうちには罪が残ってます。ですから日々悔い改め、赦しを頂くことです。その時、心のそこから命への水が湧き出るのです。


二つ目は、神様は、私たちに、御霊と真理によって礼拝することを求めておられるということです。私たちも、真心からイエスを信じる信仰によって、神に礼拝を捧げていこうではありませんか。礼拝こそが教会の中心です。


三つ目は、イエス様はあなたを用いて、キリストの救いの恵みをもたらす器としてくださるということです。

彼女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々にイエス様のことを証しました。彼女はキリストの恵みによって変えられ、心の奥底から生ける水が流れ出るようになったのです。主が用いてくださる時は感謝しましょう。





<ヨハネの福音書 4章1〜30節>

1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、

2 −−イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが−−

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

8  弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」−−ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである−−

10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。

28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。






説教者:加藤 正伸 長老