2022年9月18日



「天から与えられるのでなければ」

新約聖書:ヨハネの福音書 3章22〜4章3節




はじめに


皆さんは見たくないものを見たときどうされますか?目を背けることでしょう。また聞きたくないものが聞こえてきた時には、耳を塞ぐことと思います。

バプテスマのヨハネは、誰であろうと真っ直ぐに律法を語り、律法学者やパリサイ人に嫌われた人でした。しかし、その彼の元に多くのユダヤ人がバプテスマを受けに来ます。今日は前回で、このバプテスマのヨハネのことを話します。後半は罪の悔い改めとイエス様の救いの恵みについて話をします。



1、バプテスマのヨハネと弟子たち


ヨハネの福音書3章22節の「その後」というのは、イエス様が過越の祭りのためにエルサレムに行き、ニコデモと会った後のことです。その後イエス様は、弟子たちと一緒にユダヤに行き、そこに滞在してバプテスマを授けます。一方でバプテスマのヨハネも、サリムに近いアイノンと言う場所で、人々にバプテスマを授けていました。

そこでヨハネの弟子たちが、ユダヤ人ときよめについて論争します。どのような内容だったか書かれていませんが、他の箇所からパリサイ人や律法学者とバプテスマのヨハネたちの関係は良くなかったことがわかります。

パリサイ人たちは、外面的に律法を守ることを重視しました。マルコの福音書7章5節で、 パリサイ人と律法学者たちがイエス様にこう尋ねる箇所があります。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」彼らは、昔の人たちの言い伝えを重視し、 律法を形式的に守るように教えていました。

これに対してバプテスマのヨハネは、すべての民に、神の前に真に悔い改めることを求めます。彼の目的は、「父たちの心を子供たちに向けさせ、不従順なものたちを義人の思いに立ち返らせて、主のために整えられた民を用意」(ルカ1: 17)することでした。

ルカ3章7節には、彼が、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆に向かって、「マムシの子孫たち。誰が、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と言ったことが書かれています。心から罪からの解放を願って来た人たちは、ではどうすれば良いかと尋ねます。その群衆に、バプテスマのヨハネは、貧しい人に下着や食べ物を分けなさいと言いました。取税人には、決められた以上に取り立てないように、兵士たちには、力ずくで金を奪ったり脅し取ったりしないようにと説教します。

彼は、ヘロデ王の罪も見過ごしませんでした。ヘロデ王は、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤと恋に落ちて、ピリポが存命中にも関わらず、巧みに彼女を自分のものとします。この時ヨハネはヘロデ王に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったのです。(マタイの福音書 14章3〜4節)

ユダヤ人、パリサイ人、ヘロデ王の罪はどのような罪なのでしょう。それは第九戒、第十戒を破ったことです。「あなたは、隣人の家を欲しがってはならない」という戒めです。彼らは、外面的に神の律法を守っていれば罪を犯していないと考えました。しかしどんなに外面的に律法を守っていても、背後にある心が間違っていれば、その人は罪を犯しています。法律は守っている。社会的には問題ない。しかし心は貪欲に満ちている。そして世間に非難されない形で、法を駆使し、隣人のものを、名誉を保ちつつ手に入れている。これをバプテスマのヨハネは指摘したのです。

律法とは、神様が人間に与えてくださった幸福の秩序。バプテスマのヨハネは、律法を律法として民に語りました。神の前に罪を悔い改め、心を変えよと迫ったのです。ですから、外面的に律法を守ることで社会的には問題ないとするパリサイ人や律法学者たちから睨まれたのは当然でした。



2、弟子たちの不満とヨハネの答え


この論争の後、弟子たちがヨハネのところに来て言います。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」(ヨハネの福音書 3章26節)

このときの弟子たちの気持ちを考えてみましょう。弟子たちは、先生であるヨハネがイエス様を「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と言い、キリストだと証言していることを知っていました。けれども、この時はパリサイ人に批判された後なので、傷ついていたのかもしれません。また、イエス様たちが自分たちよりも多くの弟子を作っているのも知っていました。それまでは「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」が自分たちのところへ来ていたのです。これから先の不安もあったかもしれません。ですから、弟子たちは、先生であるヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったイエス様を「あなたが証言なさったあの方」と言ったのです。  

これに対してバプテスマのヨハネは、これまで自分に従ってきた弟子たちにもう一度思い出させるように答えます。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。」(ヨハネの福音書 3章27〜28節) 目を人ではなく天に向けなさい。神様が与えて下さるのだ。他でもない、あなた方こそ私がイエス様について話したことの証人だ、と諭したのです。バプテスマのヨハネは、自分と自分に与えられた役割を知っていた謙遜な人だったのです。



3、 ヨハネの喜び


ヨハネは続けてこう言います。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネの福音書 3章29節)「花嫁」とはイスラエルの民のこと、「花婿」とはキリストのこと、友人とはバプテスマのヨハネのことです。イスラエルの民を救うのはあの方であり、私は民衆があの方のほうに行くことを喜んでいる。それも喜びに満ち溢れているというのです。ヨハネは、人の称賛では無く、自分の使命を果たして神様に褒められる喜び、神様に奉仕する者の喜びで満ちていたのでした。

ヨハネは最後に「あの方は盛んになり私は衰える」と語ります。これは、イスラエルにイエス様を明らかにするという役目が終わると言う意味でしょう。自分の役目が終わることを伝え、弟子たちに、イエス様を信じるための備えをさせたように感じます。この後ヨハネは投獄され、殺されてしまいます。



4、イエス様の救いのみわざと悔い改め


31節「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」ヨハネは地から出る者、イエス様は天から来る方ということです。他の箇所でイエス様もこう言われます。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。」(ヨハネの福音書 8章23節) イエス様は神様であり人なのです。

33節に「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」別の箇所では、「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Uコリント1: 22) 私たちと神様との関係は、このように確認の印を押すという固い関係だということです。そして、私たちは「永遠のいのちを持つ者」、「神の子ども」となりました。

(2)日々の悔い改め(日毎の洗礼)

私たちは、神様と歩むこと、喜びの信仰生活を送ることを願っています。どうすれば良いでしょう。バプテスマのヨハネもイエス様も悔い改めということを強調しています。ここで悔い改めについて考えたいと思います。

聖書神学校の公開講座(説教学)で銭谷先生は、救われて洗礼を受けたクリスチャンの悔い改めについて、次のような説明をされました。「クリスチャンの回心は、洗礼を受けて終わりではなく生涯続きます。生涯自分の罪を悔い改めていきます。私たちは洗礼を受け、キリストの死に預かるバプテスマを受けて、キリストとともに葬られました。私たちはあの十字架で罪に対して死にました。今私たちは、復活のイエス様とつながり、新しい命につながっています。イエス様の喜ぶことをしたい。しかし私たちは毎日罪を犯します。そしてイエス様の赦しを必要とします。これが日毎の洗礼です。洗礼を受けたキリスト者は、毎日、悔い改めと信仰に生きる、というのです。」

特に手強い罪は、妬みです。これはパリサイ人や律法学者、ヘロデ王と同じ罪です。そのような自分を嫌い息苦しいと思っても、スッと心のうちにある。これが原罪です。私たちも、日々イエス様の赦しを必要としているのです。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙 第一 1章8〜9節)

「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」ヨハネの黙示録 12章10節



5、まとめ


今日の説教題は「天から与えられるのでなければ」です。天から私たちに与えられるもの、それは福音です。イエス様を信じた人に与えられる罪の赦しです。神様は私たちが悔い改めるとき、すべての罪からきよめて下さるお方です。その恵みに日々預かっていこうではありませんか。




<ヨハネの福音書 3章22〜4章3節>

22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。

24 −−ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである−−

25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。

26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

32この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。


1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、

2 −−イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが−−

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。




説教者:加藤 正伸 長老