2022年7月31日



「水がめに水を満たしなさい」


ヨハネの福音書 第2章1節〜12節



1 アウトライン


今回はイエス様が婚礼の席で奇跡を行われた箇所からお話しします。このことは、かつて実際にあったこと、歴史上の事実です。歴史上の事実だからこそ、私たちは、復活されたイエス様がどのようなお方で、今、私たちに何をしてくださる方なのかを知ることができます。


それから3日目、すなわちイエス様が弟子のピリポとナタナエルに会われてから2日後、ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこにイエス様の母がいました。5節のことばからイエス様の母マリヤは世話役の1人だったと思われます。そしてこの時イエス様も弟子たちもこの婚礼の場に招かれました。

ところが、宴会に用意されていたぶどう酒が無くなります。イエス様の時代には1週間にわたって祝宴が催されました。またその祝宴にはしばしば町中の人が招かれました。当然、宴会世話役や新郎は、前もって注意深く準備をしたと思います。しかし予想以上に人が来たのかどうか、はっきりとしたことは分かりませんが、用意していたぶどう酒が無くなってしまいました。それで宴会の世話役も母マリヤも非常に困っていました。

この時母マリヤは、息子のイエスに「ぶどう酒がありません」と言います。マリヤは、息子のイエスがぶどう酒の都合をつけてくれることを望んでいたのかもしれません。しかしイエス様は母マリヤに言われます。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」

私たちは「あなたは自分と何の関係もない」というこの答えに驚きます。しかし注解書によると、イエス様がここで言われたのは、自分の関心と母マリヤの関心が全く異なるのですよ、ということであり、母を突き放すような冷たい調子はないそうです。むしろ言外に、「心配はいりません、私に任せてください」と言う意味があるのだそうです。

さらにイエス様は母マリヤに「女の方。わたしの時はまだ来ていません」と言われます。ここで「女の方」とは、「敬愛する女の方よ」(詳訳聖書)とも訳され、尊敬を込めたことばだそうです。実はこのことばは聖書にもう1カ所出てきます。それは、十字架につけられたイエス様が、母と弟子のヨハネに声をかける場面です。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネ19: 26)

また「わたしの時」とは、聖書の他の箇所から、イエス様が十字架につけられる時、イエス様の受難の時のことだということが分かります。イエス様は、人類の罪を一身に背負って十字架で命を捨てるために、この世に来られました。(ヨハネ19: 26、ヨハネ8: 20「イエスの時」ヨハネ7: 6「私の時」、ヨハネ13: 1「ご自分の時」)

母マリヤは、手伝いの人たちに「あの方の言われることを何でもしてあげてください」と言います。マリヤは、イエス様が何をしようとしているのか分かりませんでしたが、イエス様を信じました。

さて、そこにはきよめの水を入れる石の水がめが6つ置いてありました。80〜120リットル入りです。きよめの水というのは、「パリサイ人を始めユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを固く守って、手をよく洗わないでは食事を」しない(マルコ7: 3)慣例があったからです。水がめの大きさは、私たちが屋外に置くゴミ箱用ポリバケツが70リットル入りですから、かなり大きかったことがわかります。イエス様は手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい」と言われます。それで彼らは水がめをふちまでいっぱいにしました。そしてイエス様に言われ、宴会の世話役のところに持って行きます。

宴会の世話役は、それを味わってみたところ、上等なぶどう酒であることに驚きます。彼は花婿を呼び、「あなたは良いぶどう酒をよくも今までとっておきました。」とまるで花婿が隠していたようなことを言うのですが、自分の責任問題だったので、とても安心したということなのでしょう。

イエス様は、このことを最初の「しるし」として行われました。この奇跡を見た弟子たちは、イエス様が神の子キリストだということを信じました。「信じた」とあるのは「信じるようになった」と言う意味だそうです。2章から11章に7つのしるし(奇跡)が記されています。イエス様は、目の見えない人の視力を回復させ、足の萎えた人を歩かせ、死者の命を復活させます。また自然を支配する力を示されす。

この後、イエス様は、母や兄弟たちといっしょにカペナウムに下って行き、そこに滞在されます。このカペナウムは、ガリラヤにおけるイエス様の宣教の拠点となります。主な通商路が交わる所にあり、ローマ兵の駐屯地と税関所がありました。 (マタイ9: 9)


さて今日は、2つのことばをキーワードに、信仰について考えたいと思います。「しるし」と「水を汲む」です。



2 「しるし」と「奇跡」の意味すること


2章11節で、聖書は、イエス様の奇跡を「しるし」と記しています。しるしと奇跡とはどう違うのでしょうか。英語では、しるしはsign 、奇跡はmiracle。結論を言うと、信じた人は、イエス様の奇跡のうちに、イエス様が神の子だと信じる「しるし」を見ました。しかし、不信仰な人は、奇跡は見ましたが「しるし」は見ませんでした。

誰もが奇跡を見たいと思います。けれども、イエス様の奇跡にイエス様が神の子キリストとだという「しるし」を見ることができるのは信仰者だけだということです。

イエス様はこうも言われました。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10:37?38)

私たちは、イエス様の奇跡とみことばを通して、神様がどのような方なのか知ることができるし、知っていきたいと思います。



3 「水を汲む」


マリヤは、神の子イエスを信じました。そして宴会を手伝っていた人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言いました。イエス様はその手伝いの人たちに、「水がめに水を満たしなさい」と言われ、彼らは水がめを縁までいっぱいにしました。イエス様はその水がめの水をぶどう酒に変えました。

ここで疑問に思う方がいるでしょう。水がめの水は当時のユダヤ人にとって汚れから身をきよめるためのもの。問題はぶどう酒がないと言うことです。なぜ水を汲むのでしょう。それもぶどう酒の器ではなく、水がめです。また水を汲むにも、今のように水道とホースがあって手軽に水を入れることができたわけではありません。水を汲むことに不平を言ったかもしれません。

しかし、マリヤも手伝いの人たちも、何のために水がめに水を入れるのか分かりませんでしたが、水を汲みました。そして主の栄光を見たのです。



4 主のみことばを信じるとき


私たちも、人生において解決の難しい問題に直面することがあります。自分や家族の病気、職場の人間関係など。解決が難しいというより、そもそも解決のつかない問題なのかもしれません。そのような時、私たちは悩み、苦しみ、落胆し、疲れ、落ち込みます。

しかし、イエス様は、私たちに、その悩みや苦しみをご自分に委ね、みことばに聞くことを求めておられます。私たちが主を信じ、みことばを信じるとき、主は栄光を現して下さいます。私たちがぶどう酒を用意するのではありません。主の約束を信じて主の示されたことを行うこと、それをこの箇所は教えているのです。

主は、私たち1人ひとりの悩みや苦しみをご存知です。その悩みや苦しみを、マリヤのようにお伝えし、みことばに聞き従うとき、主はご自身の栄光を現して下さいます。主を信じましょう。イエス様は私たちの祈りに答えてくださいます。




ヨハネの福音書 2章1〜12節

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。

2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、−−しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた−−彼は、花婿を呼んで、

10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

12 その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。




説教者:加藤 正伸 長老