2023年4月16日



「あなたの目はどのように開いたのか」

新約聖書: ヨハネの福音書9章1節〜25節、39節



1 生まれつき盲目の人を癒す

イエス様は、通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になりました。8節にあるように彼は物ごい(乞食)をしていました。当時は、盲目の人は生活するには乞食をする外なかったのでしょう。 弟子たちはイエス様に尋ねます。「先生。彼が盲目で生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」今では差別的発言ですが、当時の人は、病気や障害を、その人や先祖の罪の結果だと考えていたようです。


しかし3節。驚くべきイエス様の言葉です。「この人に神のわざが現れるためです。」そしてイエス様は、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を彼の目に塗って、シロアムの池で洗いなさいと言われました。彼が行って洗うと、彼は見えるようになり家に帰ります。


2近所の人や知人の反応

彼をよく知る地域の人たちは、本人に会って、あまりの違いに、本人だと言うことがなかなか信じられません。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」そうだと言う人もいたし、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言う人もいたと書かれているので、よほど混乱したのでしょう。本人は「私がその人です。」と言いました。それで彼らは、「ではお前の目はどのようにして開いたのか」訪ねます。

彼は答えます。「イエスと言う方が、泥を作って、私の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい。と私に言われました。それで行って洗うと、見えるようになりました。」


3 パリサイ人の反応

人々は、その人をパリサイ人たちのところに連れて行きます。彼らは民衆の指導者だったからです。そこでパリサイ人たちも同じことを尋ねます。彼は説明します。しかし、パリサイ人たちは、彼の目が開いたことよりも、その日が安息日だったことの方が重要だったようです。安息日に病気を治す事は律法で禁じられていました。それでイエス様が神から出た者か、それとも罪人なのかと言う議論を始めます。また彼らは、目が見えるようになった人に、イエス様についてどう思うか尋ねます。彼は「預言者です」と答えます。


4 ユダヤ人たちが両親に尋ねる

18節から、彼を調べる者がパリサイ人からユダヤ人たちになります。ユダヤ人たちとはユダヤの政治と宗教の指導者たちのことです。彼らは、両親を呼び出して尋ねます。「この人はあなた方の息子で、生まれつき盲目だったとあなた方が言ってる人ですか。それではどうして今見えるのですか。」


両親は答えます。「私たちはこれが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかしどのようにして今見えるのかは知りません。あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」聖書には、「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白するものがあれば、街道から追放すると決めていた」と書かれています。


ここで両親のことを少し考えてみたいと思います。31節を見ると、盲目だった人がしっかりした神信仰を持っていたことが分かります。おそらく両親は、盲目で生まれてきた息子に、子供の頃から、神様の心にかなった生き方をするように教えてきたのではないでしょうか。

そして両親は、息子の目が癒されたのを見て、一緒に喜んだのだと思います。しかし両親は、同時に、ユダヤの指導者たちに反抗的な態度を取ることはできませんでした。ユダヤの社会から追放されることがどれほど厳しいことであるのかを知っていたからです。生き方は本人が選ばなければなりません。それで「あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」と言ったと思います。


5  2度目の呼び出し

そこで、ユダヤ人たちは、盲目であった人をもう一度呼び出します。そして彼に、「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と言い、再度本人を調べようとします。しかし彼は、「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ1つのことだけは知っています。 私は盲目であったのに、今は見えると言うことです」と答え、自分の体験したことをはっきりとユダヤ人に証言します。


しかしユダヤ人たちは、イエス様が罪人ということを明らかにしようと、再度彼に尋ねます。「あの人はお前に何をしたのか。どのようにしてお前の目を開けたのか。」盲目であった人は答えます。「もうお話ししたのですが、あなた方は聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなた方も、あの方の弟子になりたいのですか。」皮肉交じりに答えます。ユダヤ人たちは彼を罵って言います。「お前はあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。」


6 目が開かれた人の証し

彼は答えます。あの方は私の目を開けてくださった。「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、その御心を行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。…もしあのかたが神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」彼は盲人の乞食でしたが、しっかりした神信仰を持っていたのです。


旧約聖書の詩篇には、次のような言葉があります。

「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」(詩篇34篇15節)

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66篇18節)

「また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」(詩篇145篇19節)

目を開けてもらうという奇跡を体験した彼は、神様にどんなに感謝したことでしょう。


しかしユダヤ人たちは彼に言います。「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして彼を外に追い出しました。ユダヤ人の宗教的、社会的生活から締め出したのです。村八分になったのです。


しかしイエス様は、その彼を探し出して語りかけられます。「あなたは人の子を信じますか。」彼は答えます。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエス様は彼に言われます。「あなたはその人を見たのです。あなたと話してるのがそれです。」彼は「主よ。私は信じます。」と言い、イエス様を礼拝しました。


7 霊的な盲目

実は、この箇所は、イエス様が盲目だった人の目を開かれたこととともに、もう一つのことを私たちに伝えています。39節をみてください。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

これは、イエス様が、霊的に盲目状態にある私たちを霊的に見えるようにして下さるという意味です。


すべての人は、霊的に盲目な者として生まれて来ます。しかし、神の子イエスは私たちを「見える」者にして下さいます。本当の希望や喜び、平安を与えて下さいます。心の目が開かれ、自分にとって何が一番大切なことか分かるようになります。それまで自分を苦しめていたものから解放されます。


しかし、この時のパリサイ人やユダヤ人たちは、イエス様に出会いましたが、目が開かれることはありませんでした。、「見える」と言いながら、実は「盲目」でした。ローマ人への手紙2章17節?24節には彼らのことが書かれています。

彼らは、律法を頼みとし、神を誇り、律法のうちに具体的に示された知識と真理を携え、先生と言われるような人たちでした。しかし、盗むと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫する、神殿のものを掠め取る。律法を誇りとしながら律法に反し、神を侮っていました。神様はそのことをご存知でした。しかし、パリサイ人たちは、自分の罪、欲深さに気づきませんでした。彼らは「見える」と言い張りつつ、自分も主イエス様も「見ない」まま、救い主キリストを拒んだのです。


8「あなたはその人を見たのです」

「神のわざ」とは、神様が罪人である人間に「まことの光」をお与えになるということです。イエス様は「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネの福音書1: 9)です。イエス様は言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないためです。」(ヨハネの福音書12: 46)この「まことの光」を受け入れたとき、人は喜びや平安を体験します。イエス様は今日も生きておられます。ぜひこのイエス様を知って下さい。


すでにイエス様を信じている方で、今イエス様が「見えない」ように感じている方はいらっしゃいませんか。悲しみも苦しみも神様が与えてくださるものです。喜びも神様が与えてくださいます。将来の事は神様の領域です。神様だけが将来を知っています。その神さまがあなたと共におられるのです。目から鱗を取り去っていただきましょう。イエス様はあなたの信仰を喜んでおられます。イエス様の十字架を見上げましょう。盲目だった人がイエス様を礼拝したように、感謝して礼拝を捧げましょう。


「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。あなたは人の子を信じますか。」(35節)「イエスは彼に言われた。あなたはその方を見たのです。あなたと話してるのがそれです。」(37節)



<ヨハネの福音書9章1節〜25節、39節>


1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

6イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

7「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

8近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」

9ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。

10そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」

11彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

12また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。

13彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

14ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

15こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

16すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。

17そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

18しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、

19尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」

20そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。

21しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」

22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

23そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。

24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

39そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」




説教者:加藤 正伸 長老