2021年12月26日


「しようとしていることを隠しておくべきだろうか」
創世記18章16〜21節

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1.「はじめに


 アブラハムの元へやって来た3人。彼らの目的の一つは、これまで見て来たように、アブラハムとサラに、来年の今頃、サラに男の子が与えられるという約束を伝えるためでしたが、もう一つのなそうとすることがあったのでした。それがここから記されているソドムという町への裁きになります。



2.「主がしようとしていること」


「その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。」16節


A,「最初の目的:罪を知ることで、サラの信仰は強められた」

 三人は、アブラハムのもてなしを受け、そしてアブラハムとサラへ、来年の今頃、サラに男の子が与えられるという約束を伝えました。サラはその時、心の中で笑って信ぜず、神に心の中を見られ、「なぜサラは笑うのか」と問われた時に、自分は笑っていないと偽りましたが、神は「いや確かに笑った」とサラに言いました。サラは確かに罪深い一人の女性ではあり、信ぜず笑ったという事実がありながらも、決して、完全に神を否定し反抗するような者ではなく、アブラハムと同様に、不完全な罪人でありながらも一人の信仰者であったのでした。ですから神の「なぜ笑うのか」「確かに笑った」というその信じないことを指摘する言葉は、サラにとっては、神は、心の奥底の隠し通そうとした罪であっても見通されるお方であり、まことの神であると恐れさせられ、自分の罪深さを刺し通される「律法」の言葉であったことでしょう。この出来事と神の言葉は彼女に悔い改めを起こさせたのです。しかしそのような律法の言葉で刺し通されて同時に、神はそれでも約束の通りに、サラに男の子を与えるという、神がしてくださる約束、つまり「福音」を語ってくださったからこそ、サラもアブラハムもさらに信仰が強められた恵みの時となったのでした。ヘブル11章11節には、このようにきちんと証しされているからです。

「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」ヘブル11章11節

 笑って信じなかったサラも恵みのゆえに信じたのでした。主が「義人であり同時に罪人である」信仰者のその信仰を、そのみ言葉によって、教え、育て、強めてくださる恵みはここでも変わらないのです。その直後、ソドムへ向かおうとする三人の出来事なのです。


B,  「主の約束と心は変わらない」

 もてなしを終え、三人はそのアブラハムの樫の木の下の天幕から離れソドムを見下ろす丘へ上がって行きますが、アブラハムは三人を見送るため一緒に歩いて行ったのでした。

「主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべて国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」18章17〜19節

 その一緒についてくるアブラハムを見て、まず主はこう「考えた」とあります。英語ですと「言った」とあります。おそらく、その17?19節の主の言葉が、アブラハムに話しているような、「あなたは」ではなく、「彼は」となっていて、アブラハムへの話口調ではないため、アブラハムへ「言った」ではなく「心の中で言った」「考えた」という訳になったのでしょう。では、創世記を記したモーセは、なぜこの主の心の中のことを知っているのか、ということになりますが、それはもちろん、聖霊によって示され、教えられ、モーセは記しているに他なりません。そしてその主の心の声は、まさに、これまでもアブラハムに伝えて来た、変わらない、大いなる国民と祝福の約束と、そしてアブラハムを選んだ目的でした。ですからこのところの幸いは、神は、その心と言葉は、一致しており、神はその心を決して偽らないということを教えられます。主は、その心からのことをアブラハムとサラに本当に思って約束されて、そして、その言葉、つまりその心を、主は、事実、実現されようとしておられることがわかります。



3.「隠しておくべきであろうか」


A,「目の当たりにする裁き:律法の言葉」

 そして、主は、「しようとしていることを隠しておくべきであろうか。」と言っています。その言葉には、主のアブラハムに対する親しさと憐れみの深さを教えられます。なそうとすることを隠しておくことがアブラハムにとって良いことなのか、と主は思われているのです。そのこれからなそうとすることは恐ろしい裁きではあるわけですが、なぜ隠しておけないのでしょうか?主は18、19節にあるように、アブラハムは祝福されるのであり、その祝福のうちに子孫が神に従って行くのだからといいます。つまり、この後、起こる恐ろしい裁きをアブラハムは目の当たりにするのですが、そこには神の真実が現されることになります。それは罪に対する怒り以上に、それを悔い改めないことへの裁きです。神は愛であり、憐れに満ちたお方であるのですが、義なるお方でもあります。特に、今までもそうであるように、罪は皆にあるのですが、その罪が自分にはない、関係ない、と罪に安心し切って悔い改めないものには大きな裁きと滅びがありました。神は、そのようにアブラハムに神の真実を隠しておくことはできないし、むしろ、そのことは、伝えなくても、いずれ知ることにもなります。どんなに罪深い存在でも、神の言葉を恐れ、罪を日々悔い改める信仰者には、神は、そのみ言葉を持って、そのことを明らかにするし、信仰者は、そのように神が心配して心から語ってくださるみ言葉によってこそ、そのことを、ますます恐れを持って受け止めるのです。主がみこころを隠されないのは、そのように、信仰者への日々の気づきと悔い改めのための、律法であるということです。


B,「律法は最後の言葉ではない:福音が最後の言葉」

 しかし、それで終わりではない。主はいつでもそうです。聖書のはじめから終わりに至るまで、主イエス・キリストは、決して、律法だけを伝えることだけを目的としてはいません。律法は最後の言葉ではないのです。その隠しておけない神のみ心と言葉には、律法とともに即座に福音があるのです。そのようにご自身の約束のうちに召し出し、信仰を与えたその自分のものには、そのような恐れを目のあたりにしても、その信仰のゆえに、その裁きから救われる、つまり、約束によって信仰が支えられているまさにその義なるアブラハムとサラは、その滅びに含まれることなく、近くで燃え盛る硫黄が降る中でも、信仰者はその約束のゆえに大丈夫であり、恐れる必要はないという慰めも神の心にはあるし、そしてその慰めと希望のゆえにこそ、神は、それを隠しておくことはできないのです。


C,「悔い改める者に即座に福音がある」

 私たちにはももちろん、日々、イエスによって律法の言葉は迫ってきます。それは私たちの罪を明らかにし刺し通すためです。それは神のみ心です。クリスチャンは、信仰が与えられている神のものであるので、そのことに本当に刺し通され痛みを経験します。決して、自分は罪があっても安心だなどとは思いません。悔い改めに導かれます。そう、神は、私たちに決して隠しておくことをしません。神の恐ろしさ、真実さ、罪の影響の大きさ、そして、私たちの神の前の絶望的などこまでも罪人であるという現実をです。しかし、神の心、神が伝えようとしているその御心は、律法が決して私たちへの最後の言葉ではないということ、刺し通し絶望させることが神の目的でもない、悔い改めるものには、即座に約束がある。神の大丈夫がある。そう福音があるということです。大いなる裁きを前にして、隠しておくことはできない。彼らは恐ろしい神の裁きを目の当たりにする、しかし、そう彼らは約束の祝福のためであり、彼らはその祝福と恵みのゆえに心から従って行く信仰者になって行くのだから、裁きを目にしても決して揺るがされない。むしろ、神の恵みと救いを知る。そのような神の憐れみの心と目的がはっきりとあるということなのです。


D,「ロトのためにも」

 そして、もちろんご存知のように、そのように隠さず伝えることで、この後見て行きます、そのソドムにいる正しい人である、甥のロトのことを、主は気にかけているし、アブラハムがそのソドムの裁きのことを知るからこそ、アブラハムからその甥を心配する声を聞き、神は答えることになることも、神はわかって、隠しておくべきではない理由とされているのはいうまでもありません。



4.「霊において日々新しく」


 この神の心は実に、意味深いですし、教えられます。事実、ソドムとゴモラの罪は非常に大きいのですが、アブラハムとサラも、二人とも罪深い存在です。では、なぜ、二人は大丈夫で、ソドムは裁きが下るのか。それは罪の大きさや量の問題ではありません。人の前では大したことではない、あるいは人には隠せて誰もわからない、あるいは心の中だけのことで表に出てこない、どんなに小さな罪でも、神の前には明らかで大きいです。そのままにしておけば、ソドムと同じ運命になるのです。しかし二人が大丈夫であるのは、罪の質や量の問題ではない、それはどこまでも信仰の問題。つまり神の言葉によって日々、神の前の自分の罪深さを認め、そして、悔い改め、その時に、神の言葉と恵と約束の福音によって、恵みに立ち返り、神とその恵みを、神の赦しを、救いを信じた、信じているし、より頼んでいる、その一点に尽きるのです。まさにこれまで見てきた洪水で滅びた民にも、これから見ていくソドムとゴモラにもそれがなかったのです。

 私たちの肉の性質は、自分には甘く人に厳しく、人を裁くことは容易いですが、自分自身が神の前にどこまでも罪深いことをなかなか認めがたい性質があるものです。肉の性質は、罪で刺し通され、悔い改めることは、聞きたくないし避けたいものなのです。ですから、その肉の性質の必要に答えんと、人が嫌がるからと悔い改めをあえて説教から除こうとする教会もあるものです。しかし御言葉に聞こうとする聖霊にあっては、むしろその悔い改めは耐えることがありません。絶えず霊は刺し通されるのです。それはクリスチャンとされ、聖霊が与えられているものに、聖霊が働き、御言葉が働いている証しでもあります。そして、クリスチャンは神の前にあって、霊においては、その悔い改めで終わりではないということです。いつでもそのイエス・キリストの罪の赦しと日々新しいいのちに立ち返らせるためにこそ、つまり信仰が日々新たにさせられるためにこそ、その聖霊は、律法の後に、福音を持って働かられる。そのためにこそ、最初に律法はあり、律法のすぐ後には福音があるということです。そして、そこからまた律法が最後の言葉として、律法によって遣わされるのではない、どこまでも福音が最後の言葉であり、福音の言葉「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」の言葉で私たちは遣わされて行くのです。感謝な恵みではありませんか。



5.「正義と公正を行わせるため」


A,「義は信仰:良い行いは福音から生まれる信仰の行い」

 ですから、18〜19節にある、義、正しさ、正義と公正は何を意味しているかというと、どこまでも賜物としての恵みである、信仰であるということです。そして、神が喜ばれる良い行いは、律法による良い行いではなく、信仰による行いであり、福音から生まれる良い行いを示しているのです。事実、律法は、私たちが何をすべきかしか示しません。律法による行いは、誰のためであれ、しなければいけないからする行いであり、どこまでも強いられての行いであり、律法による行いは、心からの愛からである行いにはなり得ません。しかし、イエスは、パリサイ人や律法学者の律法から出る、心からの愛から出ていない良い行いには偽善と呼び厳しかったです。彼らは目に見える表向きのこととしては、行いも振る舞いも人の評判も良かったですし、尊敬もされていたのです。しかし、イエスは、彼らを偽善と断罪しました。むしろイエスは、イエスが与える水のたとえや、枝がぶどうの木に繋がっているなら大いなる実を結ぶと言っているように、その良い心、つまり信仰の心から、つまり信仰は福音によって与えられ強められるのですから、福音から溢れ出る信仰の行い、心から喜んで行う行いこそ良い行いとして教え、求め、そして喜ばれたことは、これまでも説教で何度も伝えてきたことです。事実、使徒たちも、律法に駆り立てらて、裁きの言葉で、あの罪責感で押しつぶされるような状況で、宣教をはじめ、良い行いに遣わされて行ったのではありません。イエスの復活を目にし、罪の赦しを受け、イエスから「平安があるように、あなたとともにいる」と言われた、その福音のゆえに、命令に喜んで、心から従って行きました。いやさらには、イエスから「聖霊を受けるまで待つように」と言われ、本当に聖霊を待って、そして、聖霊を受けたその時に、福音の意味を、悟り、喜びに満たされたからこそ、説教をはじめ、隣人を愛し、隣り人を愛するために遣わされて行ったでしょう。そのキリストの証人としての証しも、「こうあるべき、こうでなければならない」という律法を証ししたのですか?決してそうではなく、十字架と復活の事実にある、神の福音の喜びと平安を、証しして行ったのです。皆さん。律法を動機に、律法で駆り立て、裁きで、人を無理やり自分の願うように動かそう、させようとしても、それは「心から」「喜んで」「平安のうちに」の行動は、絶対にありません。不可能です。もしできると言うなら、キリストの福音の教えを律法に変えてしまう、混同であり、福音の崩壊です。そうすることはキリストの証人の証しでも、宣教でも教会でも何でもありません。実際誰でも、平安を、喜びを、自分が経験していなければ、平安も喜びも証しできません。その人の証しや動機は、自ずと律法にしかなりません。キリストの証人ではありません。パリサイ人と同じです。それは神の御心ではありません。福音から溢れ出る心からの良い行い、宣教の証し、それこそがイエス・キリストの喜びであり目的に他なりません。


B,「神の心は福音によって実現する」

「ブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべて国々は、彼によって祝福される。」創世記18章18節

そう、そう先に、その祝福があるからこそ、福音があってこそ、19節の目的は生きて行きます。そして、

「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」19節

 ここに「「主が」約束を成就するため」とはっきりとあるでしょう。アブラハムの子孫がその道を生き、守り、正義と公正を行うのは、まさにキリストにおいて始まる新しいいのちに実現して行きます。律法を動機にしてでは決してない。福音こそが、それを実現し成就する神の力なのです。私たちは、アブラハムの約束の祝福の子孫として、その福音によって命を与えられ、そして今日もイエスが「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださることによって、平安が与えられ、日々平安のうちに遣わされて行きます。そしてそれが心からの信仰による真の良い行いをさせ、主は私たちを用いてくださるのです。今日も受けましょう。今日も福音のうちに安心して、遣わされて行きましょう。





<創世記 18章16〜21節>

16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼ら

  を見送るために、彼らといっしょに歩いていた。

17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべき

  だろうか。

18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。

19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ

  、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就

  するためである。」

20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて

  重い。

21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを

  見よう。わたしは知りたいのだ。」