2021年12月19日


「救い主はどこに?」
ルカによる福音書1章26〜38節、46〜55節

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1.「はじめに:遥か昔からの変わらない約束」


 これまで創世記を見てきて、神の創造の祝福の約束から、堕落の時にすでにあった、女の子孫が悪魔の頭を砕くという救いの約束、そして、今見ている、アブラハムへの大いなる国民とし祝福するという約束や、そのための約束の子イサクの誕生の約束に至るまで、それらは全て遥か昔から神は私達のために救いを約束してくださっていて、その通りに約束を果たして下さったという事実である、イエス・キリストの誕生を指し示しているものに他なりません。しかしその約束の成就と真実さは、ローマの皇帝の家系でもユダヤの王や優れた家にではなく、この田舎町ナザレのごく普通の女性であるマリヤへと実現するということもまた私達にとっては恵みの福音のメッセージに他なりません。神はその実現を伝えるため、御使いガブリエルをマリヤのところへ遣わしました。



2.「一人の処女のところへ:綿密に調べたルカの証し」


「ところで、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」26節

 まず、このナザレのマリヤについてルカは「一人の処女のところへ」と書いています。この福音書を記録したルカは、この福音書の書き出し1章の始めに、全てのことは「綿密に調べた」(1章3節)と言っています。ですから、この言葉は、彼が綿密に調べた確信として(1章1節)記しているのです。この時代も今の時代もそうですが、処女がみごもるなどあり得ない事です。ですからまず人はここで躓くのです。常識ではあり得ないことだからです。先週の創世記18章のアブラハムとサラでさえもそうでした。神ははっきりとした約束しました。「来年の今頃、男の子が生まれる」と。しかし、年老いた自分達にはあり得ない。人間の理屈、常識にあわない。だからと二人は笑って信じませんでした。多くの人も同じです。科学的にも常識的にもあり得ない。だから「マリヤは処女ではななかったのだ。マリヤは誰かヨセフ以外の人と関係を持っていたのだ」と。そのようにこの箇所を否定する教えは教会の外だけではない内でさえも沢山言われてきたのでした。けれども、ルカは始めに「綿密に調べて」と宣言しています。つまりこれは、教会が、そして使徒達が初めから確信していたこととして、そして自分もはじめから綿密に調べた事実として、この「天使ガブリエルは確かに処女マリヤのところに来た」のだと記しているのだということです。そして27節でも、この処女はヨセフのいいなずけであったとはっきり記します。さらに29節では、マリヤ自身は天の御使いに対して驚きと恐れを抱いているでしょう。「とまどい」とあり、ガブリエルも彼女に「こわがることはない」とも言っているのです。マリヤには恐れがありました。34節では彼女は「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」とも言っているのですが、皆さん、恐れと驚きで、見たこともない神の御使いの前、つまり何でも知っている神の前に立っているのと同じことですが、その神の使いの前で嘘をついたり、秘密を隠し通すことなどできないんです。先週のサラは、神に心まで見通されても「自分は笑っていない」と偽りましたが、偽り通せなかったでしょう。そしてそのような神の前の罪深さがあっても、神の約束は変わりませんでした。マリヤもこの状況で、神の前に、決して、偽れないのです。ルカは、事実を記しているのです。



3.「主の方から:罪人の一人のところへ」


 しかし、それでももちろん、マリヤは、アブラハムやサラと同様、罪人の一人であります。決して、聖女でも聖母でもありません。自分でも言っているように一人の「卑しい僕」である女性であり罪人であったのでした。しかし大事な点ですが、まさに前回、サラが、神の前にあってさえ「自分は笑っていない」と嘘を言ってしまう罪深さがあっても、神のその約束が変わらなかったように、このところでも、神はそのマリヤの罪深さも全て知った上で、そして、そのマリヤにある何かに関係なく、主は主の方から御使を遣わしている。そして「恵まれた方」と言い、ここに記されている素晴らしい事実、35節、その子は聖霊によってみごもるということが実現するという恵みがあるということなのです。

 このマリヤに起こった出来事のみ言葉は、アブラハムの時から全く変わらず、私達にはっきりと伝えているのです。救い主、キリストの誕生、そしてその約束も、全く人の側の何か、人の業、思い、情熱や熱心、計画に一切よらない。罪深いから云々にも左右されない。いやむしろその罪深い世のために、神の前の救いの出来事も約束も、全て「天から地へ」、「神から私達へ」の全く恵みの出来事であるということです。アブラハムに現れた3人の人も「主の方から」であったでしょう。そしてここでも、主の方からです。そして、マリヤはただ恐れ、戸惑うだけの状況です。突然の御使いの出現なのですから。そして御使いもはっきりと言っています。「恵まれた方」と。これは恵みなんだと。「あなたは神から恵みを受けた」ともあります。さらには「聖霊があなたの上にのぞみ、いと高き方の力があなたをおおう」とも。まさにこれは「天から」、そして「神が」なさる出来事です。マリヤはただ戸惑い、恐れ、従うだけです。そう、これは人の思いや願い、情熱でも優れた行いでもありません。約束も救いも、どこまでも天からの恵みのみなのです。このようにクリスマスは、天から、神からの恵みの事実が私達に明らかにされたその証しであるということをどこまでも聖書は伝えているでしょう。



4.「裁くためでなく、真実な約束を伝えるために」


 そして、御使いガブリエルは、戸惑い信じられないマリヤに、「ダメだ」と裁いて断罪するのでも、約束を取り消すのでもない、まさにあの信じない笑う、アブラハムとサラにも語られたのと変わらない言葉を語って、約束は真実なんだと、励ましている、変わらない主の恵みを教えられます。37節で御使は言います。

「神にとって不可能なことは一つもありません。」

 何という力強い励ましのことばでしょう。御使いは曖昧さなどなく断言しているでしょう。「不可能なことは一つもない」と。「50%は可能だ」とか、「80%かもしれない」などとそんな言い方は微塵もないのです。みなさん、私たちに与えられている、みことば、約束とはそのようにどこまでも真実なのです。できないことは「一つもない」という断言がそこにはあります。神は何でもおできになる。全知全能である。不可能と言うことばは神にはないという宣言なのです。アブラハムにイサクの誕生の事を伝えたときも、御使いは「主にとってできないことがあろうか」と言いました。同じ御使いが、それから数千年後のこのマリヤにも、その神の約束を示して「できないことはない」「不可能なことは一つもない」と変わることなく断言し続けているのです。そしてこれは今も、これからも永久に、なのであり、アブラハムの時代も、マリヤの時も、今も、神のみことばは真実であり、その通りになるのであり、不可能なことは一つもないと、主は私達を励ましてくださっているのです。そして、マリヤは、その御使いのことばを受けて、つまり、彼女の力でも努力でも性質でもない、み言葉によって信仰が強められたからこそ、38節にあるように「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と、主と主のことばに信頼したのでした。ですから、このマリヤの応答の言葉も信仰も、律法ではない、こうでなければならないという模範でもない、このマリヤの言葉は、どこまでも主の御言葉、福音による賜物、恵みである信仰による応答である、ということに他なりません。



5.「救い主はどこに?」


A,「マリヤは困難の中へ」

 さて、そのように恵みと祝福に溢れている状況でありながら、しかしこのマリヤの取り巻く状況、現実は、尚も試練、困難でしょう。男を知らないのに身ごもったという事実。それは生活している社会では大問題で、マリヤが乗り越えなければならないのは、周りの軽蔑や中傷です。ヨセフは婚約を解消して去らせようとしたでしょう。そしてたとえ説明したとしても、誰がこれが聖霊によるものだと信じるでしょう。自分でさえも信じられなかったことを、周りが信じるはずがありません。まさに主だけが真実を知っておられるという状況です。この巷では、何か聖らかな天国のような状況のように語られるクリスマス物語ですが、実際は、マリヤにとっては壮絶な試練の始まりです。御使いのことばは恵みであっても、しかし表向きの現実は、人間の側からみれば「人の前」では困難と言う状況のままなのです。しかしそれでも、主と主のことばの真実さにあってこそ、つまり「神の前」にあって、信仰によってこそ、これは事実であり恵みであり祝福であることが分るのです。38節のマリヤの信頼のことばは、ですから、「苦難の中での」揺るがない平安を強く教えられている言葉に他なりません。そしてそれが私達に与えられている信仰でもあるということが教えられるでしょう。そのように、人の目にあってマイナス、ネガティブ、災難、苦難や試練にあるようなことにも、いやそのような望まざる困難の中にこそ、主はおられ、主の祝福と恵みがあるのだという証しがここに書かれていることなのです。


B,「罪の性質が神を探すところ」

 私たちの罪の性質は、神の前よりも人の前であり、基準や土台は私達の主観にたって、目に見える業や成功や繁栄、人の側の思い描いた願いや期待の通りになったところにこそ、神様の働きや祝福があると判断してしまう傾向があります。ですから、そのように期待通りになったところ、問題がないところに、うまく言っているところに、神がいるとかいないとか、働いたか働いていないとか、祝福されているとかされていないとか、正しい悪いとか、決めつけてしまうし、あるいは、そのような事を追い求めてしまうのです。私達自身、知らず知らずしてしまう、それが肉の罪深い性質なのです。けれども聖書が伝える、神の業、神の御心、神の祝福や恵みというのは、むしろその逆でしょう。


C,「しかし、救い主はどこへ来られ、おられる?」

 聖書が伝えるのは、むしろ、人の目にあっては「なぜ?」「どうして?』と思うようなことがら、苦しみ、試練、問題、逆境。それは私達が罪人であるなら死のときまで当然、起こることですし、信仰者であればあるほど、世にあっては艱難があるともイエスも言われた通りなのですが、しかし、イエス・キリストが私たちに伝え与えている信仰というのは、その罪と言う現実との戦いと、そのような艱難のなかにこそ、救い主はおられる、十字架は立つ、キリストは語りかけられる、その祝福と恵みのことではありませんか?ですから、聖書が伝えるのは、私達が望まない期待しない、苦しみ、試練、逆境のような所にこそ、主の導きと御心、祝福と、主の与える平安があるということです。そこにこそ主は確かにともにおられるということです。それがこのマリヤの出来事や人生に現れていることです。そして、それは何より、私達の核心である十字架を見上げればそれがわかるでしょう。十字架は人の目にとっては、成功ですか?繁栄ですか?その逆でしょう?人々は自分が思い描いた期待したような救い主ではないと、イエスに背を向けたでしょう。エリヤの時代も、主の民は、偶像礼拝に陥るさなか、同じように、民には都合の悪い聞きたくない主のことばをまっすぐ語っていた預言者達を、都合が悪い、聞きたくないと首をはねましたが、人々は、変わることなく、イエスの言葉を拒み、イエスを十字架につけろと叫ぶでしょう。そして唾をかけ、罵り、むち打ち、偽りの証言で、彼らの正義と都合で、かつて祖先が預言者を殺したように、イエスを殺すのです。しかし神はその通りにさせ、そこに神の御心があったでしょう。まさに、人間の罪深い現実と、その苦難にこそイエスは来られた、黙って全てを受け、その十字架にこそ、その神の御子イエスの死にこそ、主の計画、御心があった、そして、その十字架にこそ、私達への救い、罪の赦し、そしてアブラハムの時から変わることのなかった天につながる永遠の祝福の約束の成就があったではありませんか?マリヤの告白も、彼女を取り囲む理不尽な現実の中での、主への告白にほかなりません。周りは試練の大波の嵐です。しかしそこには主のことば、主の約束の真実さ、確かさ、そして苦難の中での本当の神が与える平安が表されているのです。


D,「マグニフィカト:マリヤの賛美」

 1章の46節以下「マグニフィカト」と呼ばれるマリヤの讃歌が書かれていますが、まさにその真理を伝えている証しです。主への賛美、喜びは、48節で、「主がこの卑しいはしために目を留めてくださったから」とあるでしょう。自分を誇るのではない、自分の神の前での卑しさ、罪深さを何よりも知っていたマリヤです。しかしそのようなものに目を留めてくださった、主と主の約束の真実さにこそ彼女は賛美を始めるのです。その賛美はマリヤが何をした、何ができるではなく、49節では「力ある方が、私に大きなことをしてくださった。」とあり、そして50?51節でも、主の憐れみと聖さが、主の御腕と力が、主を恐れるもにして下さった恵みであると、彼女は賛美します。主こそ全てであるという主への信頼の賛美でしょう。そして52節以下では、主は低い所におられる、貧しい所におられるともいいます。私達が富む時に、そこに主の見えない事柄を計るのでは決してないことがマリヤの賛美は伝えているでしょう。私達が低いとき、貧しいときにこそ、主はそこにおられ、主はいつでも憐れみを忘れずに、事を行なってくださるのが、聖書の伝えるイエスでしょう。罪人と食事をされ、「医者を必要とするのは病人であり、私は罪人を悔い改めさせるために来た」とイエス様はいいました。まさに低い所、思い煩いの中、心が貧しいときのこそ幸いなのです。そこに神はおられるのです。十字架はその完全な実現の証しです。十字架にこそ救い主イエスはこられた。そこにこそイエスはおられ、そこにこそ、主の救いと祝福は豊かに溢れ流れています。みことばの通りにです。マリヤは結びます。

「私達の父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りです。」55節


6.「終わりに」

 試練と苦しみの中を生きたマリヤ。決して華やかなクリスマスでもなければ、誰かや自分の功績や成功の賛美の時でもありませんでした。試練の歩みでした。しかしそこに、主の真実、みことばの確かさ、主への信頼ゆえにこそ、確かに喜びと賛美、平安があったのです。このクリスマス。私達の確信、賛美、信頼、平安は何ですか?成功、繁栄、自分たちの思いの実現、功績や行いにそれを求めますか?それは空しさしか残りませんし、神の前に何の意味もありません。私達は今、たとえ、苦しみや試練のなかにあっても、そこに主がおられないのではない。むしろそこにこそ主がおられる。低い心の貧しい所にいる私達にこそ、主が眠る飼い葉桶があり、そこに主の十字架は立って、私達のために血は流れているのです。それを信じることに平安があり幸いがあるのです。イエスは今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。そのことばは伝え約束し実現してくださっているのです。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。




<ルカによる福音書1章26〜38節、46〜55節>


26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレと

  いう町のひとりの処女のところに来た。

27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと

  ともにおられます。」

29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと

  考え込んだ。

30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたの

  です。

31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその

  父ダビデの王位をお与えになります。

33  彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私は

  まだ男の人を知りませんのに。」

35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおい

  ます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。

  不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことば

  どおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、

  どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、

50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、

53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。