2021年9月26日


「間を通り過ぎたのは誰?」
創世記15章1〜6節

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1.「前回


 前回は、恐れの中にあるアブラムに、主なる神の方から現れてくださり「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われたところを見て来ました。そこで教えられた幸いは、アブラムの恐れは、神は自分に多くの子孫が与えられると約束したのに、その約束の通りになっていない現実、その通りになる兆候さえないことの恐れ、心配、疑いでした。それゆえアブラムは神のその言葉の後に思いを口にし、そして勝手に神の約束を解釈し決めつけ、奴隷が跡取りになるのだと、さえ言うのですが、しかしそこにあった幸いは、神はそのようにアブラムが口で恐れや疑いを言う前から、アブラムがどんなことに恐れているか、心配しているか、疑っているかを、知っておられ、知っているからこそ、「恐れるな」と言ってくださると言う幸い。しかもその「恐れるな」は、律法としての「恐れるな」ではなく、神がそんな罪人であるアブラムを守り、神が全てを約束した通りに実現し、神が恵みとして、アブラムに豊かに報いてくださるからこその福音の「恐れるな」と言う語りかけであったのだと言う幸いでした。そのようにアブラムは恵みと霊にあって信仰者であり、同時に、肉にあって罪人であるのですが、そんな罪人で日々悔い改めのアブラムを、神は絶えず教え、その罪を赦し、そしてその弱さに働いて、信仰を神が成長させてくださっている、だからこそ、疑っていたアブラムは、「彼は主を信じた。」(6節)として、その恵みによる信仰こそを、「主はそれを彼の義と認められた。」と言うことに繋がっていたのでした。



2.「約束を繰り返し語ることが必要だった」


「また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」7節


A,「罪の性質:神の恵みを忘れる」

 アブラムは、ウルから自分を連れ出し、ハランから自分に言葉を与え「わたしが示す地へ」と導いたのも、それは、神、主であることを知っていましたし、それが神の一方的な恵みであり、また、神が約束の地を与えると言う素晴らしい約束があることもよく知っていました。その恵みを感謝するからこそ、彼は、行く地行く地で祭壇を築き、礼拝して来たことも見て来ました。しかし、神は、星の数ほどの子孫の約束もそうでしたが、この地を所有として与えることも、自分こそが連れ出し導いている主であることも、それらのこれまで伝えた約束を、ここでも繰り返しアブラムに伝え語りかけているのがこの7節の言葉です。それは、アブラムにその約束とそこにある恵みと、自分こそが全てをなし導く神であることを、何度でも繰り返し思い起こさせる必要があるからです。そう、これまでも見てきたように、私たち人間にある堕落した罪深い性質は、何より神を信じようとしないことであり、神よりも自分を信じ、自分を神のように思うことにあることは、創世記の3章のアダムとエバの堕落の時から、常に変わるのことのない人間の性質でした。人間はすぐに、神の恵みを忘れるのです。神の恵みよりも「自分が自分が」になるのです。事実、神によって何度でも教えられ、何度でも神に信頼することをの確かさを教えられ、そのように成長させられて来たアブラムでさえも、先週、見ました。恐れます。疑います。自分で勝手に約束の責任を負い、決めつけてしまっていたでしょう。そう、神が全てして来たこと、してくださったこと、これからもしてくださること、その恵みを、その福音こそを、人はすぐ忘れる。信仰者もすぐ忘れる。福音や恵みを信じるよりも、人や人の力、合理性や現実性を信じ、よりたのみ、決断して行こうになる。アブラムの恐れはそれを表していました。すぐに恵みを忘れるのです。それが私たちのどう仕様もない、どうすることもできない、罪の性質なのです。


B,「福音に何度でも立ち返らせるために」

 だからこそ、主なる神の説教、福音のメッセージは、同じ約束の繰り返し、恵みを何度でも思い起こさせる。原点に立ち返らせる、そのような説教、メッセージが多いと言うことなのです。ですから「自分は信仰のことも良くわかっている。知識において成熟している。いまの自分の信仰は大丈夫だ、もっともっと聞いたことのない新しいことを学びたい。次のステップを教えて欲しい」と言うような考えを持つ必要がない。そのようにして、自分自身の一つ一つのステップの達成感の階段を自分で登って行くことが、信仰生活のその成長でもなければ、聖書の説教というのもそのような次から次へと新しい教えを聞いていたかなければいけないということでもないということです。むしろ、聖書のメッセージ、神の律法と福音の解き明かしは、同じことの繰り返し、忘れてしまう、福音を、恵みを、何度でも思い起こさせるために、その主がしてくださったこと、主がしてくださる約束を繰り返し繰り返し教えてくださるものだということなのです。事実、ルターは、牧師でもあり、大学でも教える聖書の博士でありながら、自分は年老いても、いつまでも小教理問答書の生徒、学生であると言っています。小教理問答書は、親が子供に教える、まさに律法と福音の基本的な教えですが、ルターは、聖書が教えること、クリスチャンが学ぶことはそれが全てであるといい、そして自分も繰り返し繰り返しそこから学ぶ生徒だと言っているのです。彼の言う、小教理というのは、私たちがよく目にする何百問もあるような長い解説のことではなく、彼が書いた、問題数も極めて少ない。繰り返すなら、すぐにまた同じ問答の繰り返しになってしまうような薄い小教理のことです。それを、彼は年老いて天に帰るときまで、そのことこそを繰り返し学ぶ生徒だと言っていることは意味深いです。そのように福音は、単純で、恵みも子供が受け入れることができるように分かりやすい。大人は簡単なことの繰り返しは飽きたとしても、しかし、神はむしろクリスチャンに、何度でもその恵みを福音を、繰り返し語り続け、私たちに恵みによる救い、そう私たちにとっては十字架の言葉、イエス・キリストとその十字架こそを、毎週毎週、指し示し、思い起こさせてくださる、それが神の説教なんだということを、私たちは教えられるのです。



3.「福音を分からせるために」


 さて、そのように神が繰り返しその恵みと約束を語ってくださったのに対して、アブラムは言います。

「彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」8節


A,「信じきれないしるしを求めるアブラム?信仰と義認は恵み」

 アブラムは主に言うのです。その約束、神の言葉が本当であることを、どのようにして知ることができるのですか?と。つまり、何か目に見えるものや触れることができるもので確かめることができるのかと、アブラムは言いたいのです。6節には「信じた」とあり、それを主は義と認めたとありながらも、なおも、信じきれないアブラムがそこにいます。その通り、どこまでも不完全な罪人がそこにいるという現実です。しかしその現実があるからこそ、その6節の信仰も、そして神の義認も、アブラムのなんからの行いや功績があったからではないし、その信仰も、アブラムの力や努力によるものでもない、信仰も義認もどこまでも神の恵みであるのだということの一つの逆説としての証しにもなっていることが気づきます。


B,「主は目に見えるしるしを与える?洗礼の水、聖餐のパンとぶどう」

 そして、そのようなアブラムのお願いに対して、主なる神は、それを怒ったり、拒んだりしないで、この後、目に見えるしるしを見せてくれるのです。皆さん。ある意味、不信仰にさえ見えるようなお願いのようかもしれません。しかし、神は人間がそのように信じきれない、何かしるしを求めるものであることもよく知っています。そして、信仰を支えるのに必要な時に、神は目に見え、触れることができるしるしを与えてくださるのです。

 事実、その目に見えるしるしが私たちにも与えられているでしょう。それが、洗礼であり聖餐で用いられる水であり、パンとぶどうです。イエス・キリストは、そのご自身のからだと血といのちを十字架において死に明け渡し、その十字架と死と復活によって、私たちにもイエスのからだと血を与えることによって、罪の赦しと新しい命を与えてくださいます。日々、本来は聖餐は毎週行われるものですが、そこでそれらをみ言葉と聖霊によって与えるために、イエスは、パンとぶどうという、目に見えて、触れることができ、食することが出来る物質を通しても、その目に見えるものにみ言葉を結びつけることによって、み言葉による救いの恵みを私たちに与えてくださっているでしょう。洗礼も聖餐も、目に見えるものを用いた、福音の証しであり、それは私たちがますます確信を持って、差し出されたイエスの体と血を受ける事ができるにように、イエスが定めてくださったものなのです。私たちのために定めてくださり、水とパンとぶどうを用いて、なすのはみ言葉なので、それにみ言葉の力を結びつけることによって、象徴ではない、イエスのからだと血、罪の赦しと新しい命を与えてくださるイエスにぜひ感謝しましょう。



4.「間を通過するのは誰?」


 そして、そのアブラムへのしるしと神が答え与えるのは、9節以下です。

「すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」


A,「二つに裂かれた動物、間を通りぎる者、契約を破る者」

 神はアブラムに動物を持ってくるように言います。それをアブラムは、鳥を除いて全て真っ二つに切り裂いて向かい合わせにしました。これは旧約の時代、神と人との間の契約が立てられる時、行われていたことでした。契約に携わるものは、そのように動物を半分にし、そして、誓いとしてその間を歩くのですが、その半分の動物は、その契約を破ったものにそのような運命が下ることを示したものであったのです。エレミヤ34章18節にはこのような言葉が書かれています

「また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。」エレミヤ34章18節

「間を通った者」というのは、19節「ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆」とあり、20節で神は彼らを敵に手に渡し、その彼らの屍は鳥や獣の餌食となると伝えますが、アブラムが追い払った切り裂かれた動物に降りる猛禽のようです。そのように切り裂かれた動物と、その間を歩く者と違反する者というつながりにはそのような意味があるのですが、これが大事な点になります。その契約において、神はアブラムに、まだ宿ってもいないない子供とその子孫にまで起こることを、とても詳しく具体的に伝えるのです。それは、私たちはよく分かっていますが、ヤコブの子ヨセフを通じて一族がエジプトへと移住し、そこで子孫HPしく増えて、それを脅威としたエジプトの王に苦しめられること、しかも400年と具体的です。しかし神がエジプトから民を救い出す。出エジプトです。そしてエジプトに裁きが下ること。アブラム自身には、平安のうちに長寿を全うすること。そして子孫はこの地に戻ってくることを約束したのでした。そこでです。とても大事なしるしが神から与えられます。


B,「間を通過するのは誰?」

「さて、日は沈み、暗闇になったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」17節

 「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は主の臨在を現していますが、それが切り裂かれた動物の間を通り過ぎたと書かれているでしょう。皆さん。先ほど言いました。契約に携わるものは、動物を半分にしたその間を、誓いとして歩くが、その半分の動物は、その契約を破ったものにそのような運命が下るのだと。エレミヤも預言の言葉を与えています。しかし皆さん、この契約で切り裂かれた動物の間を通り過ぎたのは、アブラムではありませんでした。主なる神ご自身が通り過ぎたのです。もし契約が破られたならその切り裂かれた動物の運命を追うことになる、その通り過ぎた人は、アブラムではない、神ご自身であったのでした。ここにも、神の契約は、神からのものであり、神がなし、神が間を通り、神がその責任の運命も背負う、そのようなものであることがわかります。そう、そして、これは、神の御子キリストとその十字架を示していることがわかるでしょう。主イエス・キリストは、神の律法を守ることができない、破ってしまう、そう堕落した全ての人々、全ての罪人のその違反を、罪を、負われた方でしょう。その違反、罪ゆえに、引き裂かれた動物のようになってしまうのは、堕落した罪人である私たちであったのですが、神の御子イエス・キリストが、その切り裂かれた動物の間を通って下さった、その違反、罪の責任を、通ったキリストが背負って下さった、引き裂かれて下さった、私たち一人一人のために。ですから今日のところ、この時、神はただアブラムの近い未来、近い子孫だけの約束としてだけ、しるしを与えているのではないということです。全人類のため、未来永劫に渡る、神からの、神が果たす、御子キリストとその死と復活による真の祝福の約束を、ここで更新されているということが私たちに教えられているのです。



5.「堕落の日から変わることのない救いの約束とその成就:福音に生かされる」


 神の約束は、堕落が起こったその日、「女の子孫が悪魔の頭を砕く」(3章15節)と約束されたその時から、一切、変わることなく、放棄されることも、忘れ去られることもなく、その通りに、私たちのために実現し、与えられています。私たちが何かをしたからでも、何か立派だからでもない。どこまでも罪深い私たちのためにこそ、その罪を贖うために、救い出し、日々新しいいのちを与えるために、そして、律法ではなく福音から生まれる新しいいのちの平安のうちに良い行いを行わせるために、主イエスが、実現して、私たちに与えて下さっているのです。感謝しましょう。今日もイエスは「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言って下さっています。安心して行きましょう。








<創世記 15章6〜21節>

 6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、

  カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」

 8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることが

  できましょうか。」

 9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の

  雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」

10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい

  合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。

11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が

  彼を襲った。

13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの

  子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、

  苦しめられよう。

14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、

  そこから出て来るようになる。

15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。

16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに

  満ちることはないからである。」

17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつ

  が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を

  与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。

19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、

20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、

21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」