2021年9月12日


「神が満たすことを信じたアブラム」
創世記14章1〜16節

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1.「前回

 前回、モーセが「主の園のような」と表した、水の潤う肥沃なヨルダンの低地を巡っての、王たちの略奪と戦争の記録を見てきました。そこから、神の良いものを悪用し、悪いものしてしまう人間の罪深さを教えられたのでした。そのような争いの最中、侵略された地であるヨルダンの低地に住んでいた、アブラムの甥であるロトも財産を奪われただけでなく、ロトも捕虜とされてしまったのでした。今日はそこから見ていきたいと思います。


2.「ロトを助けるために」

 ロトに起こった出来事についてアブラムは初め知らなかったようです。

「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。」13節

 13章の最後にありましたように、アブラムは、カナンの「エモリ人マムレの樫の木のところに住んで」いましたが、そこに、前回のメソポタミアから攻めてきた4人の王たちに囚われていたところから逃亡した一人の人がロトが囚われている事をアブラムに告げて、彼は初めて知ったのでした。エモリ人マムレは、アブラムに良くしてくれた人であり、その兄弟エシュコルとアネルと共にアブラムを盟友としての約束を結んでいたのでした。ここでに、その肥沃な土地と自分中心な利益のための愚かな戦争に、アブラムとマムレの兄弟たちは参加していなかったことがわかります。しかし、14節以下です。

「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。」14?16節

 アブラムは、ここでロトを捕らえていった4人の王の軍に夜に奇襲を仕掛けるのです。そして17節にある通りに、4人の王の軍勢を打ち破るのですが、しかしこの奇襲と戦いは、4人の王たちとそれを迎え撃った5人の王たちとの間の、領土と自分勝手な利益のための戦い、つまり主の良いものを悪用するための罪深い争いとは異なります。アブラムと盟友達は、もともとこの戦争には参加していませんでした。しかしここでの行動は、明らかに争いにも加わっておらず、ただソドムが略奪された影響で捕虜になってしまったロトを助け出すためのものでした。事実、アブラムは何か利益を求めて行動したのではないことが、この後、21節以下の彼の行動や言葉からわかるのです。ロトとともに助け出されたソドムの王ですが、アブラムへの報酬としてでしょうか。こう言います。


3.「主が満たす」

「ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」21節

 ソドムの王は、アブラムに財産は受け取って欲しいと言うのですが、アブラムは言います。

「しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」22?23節


A,「『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないめ」

 アブラムはそのソドム王からの提案、提示を受け取りませんでした。「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。」と。アブラムは何か利益を求めて行動したのではないことがわかります。あくまでもロトを助け出す、それだけであったのです。そして、彼は富について大事な事を言っています。人がアブラムを富ませるのではないと言う事です。ソドムの王の財産、褒美や報酬などを受け取れば現実的に富むことはできたことでしょう。人から受ける、与えられる、人から人への所有物の移動、得る、与える、献げさせる、要求する、そのようにして富を期待したり、得たり、潤ったり、それが世の常であり世の期待でもあるでしょう。しかしアブラムは、人の何かによって、人の功績や報酬やささげものによって、富んだ、栄えた、潤った、と言われるのを良しとしていません。むしろ避けて拒んでいるでしょう。信仰者にとって、富むことや持つことは、確かに、表向きや人の前では、エジプトの王からの金銀の時のように、人と人との授受、労働の対価などではあったとしても、その背後、むしろ神の前にあっては、誰がどうしたから、誰が与えたから、誰がささげたからと言う理由以上のことがあって、実際は、人が富ませるのではない。ゆえに「アブラムを富ませたのは私だ」と、誰にも言わせない。いやむしろ、富ませてくれるのは、与えてくれるのはどこまでも、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う」と言う、その主である、と言っているように、どこまでも主の恵みによってこそ必要なものは必ず備えられるのだと言うアブラムの信仰を見ることができます。事実、彼の富は見てきました。12章で、彼がエジプトへ下った時は、富を得るため、金銀を得るためにエジプトへ言ったわけではありません。飢饉から逃れるためでした。しかし、そこでも自分の罪深さのゆえに、サライやエジプトの王様に罪を犯させるかもしれなかったと言う、まさに罪深く失敗したアブラムであり、悔い改めを持ってエジプトを去り、再び、いきなり旅へいかなければならない貧しいアブラムとその一族のために、飢饉の中で必要を満たすために、異国の異教のエジプトの王を通じて財産と金銀を与えてくださったのは主なる神でありました。彼はその時に、悔い改めの中で、神の赦しを知るとともに、そのような罪深いもののために、必要を備えてくださるのは、神であると言う事を悟り、その神を信頼すると言う信仰がますます強められて成長させられてきた事を見てきました。富は、人による何かではない、神がその時その時、必要なものを備えてくださる。アブラムはその事を何より知り信じていたし、だからこそ「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う」と言っていることがわかるのです。この恵みとこのように信じる信仰は平安です。

 逆に、人の何かや功績や行いが、富ませるのだと言うなら、その信仰は、まさに、肥沃な水の潤う、主の園のような、ヨルダンの低地を巡って、争う王達と同じ動機であり、同じ信仰でしかありません。たとえ彼らに信仰があったとしても、神がしてくださること、神がなさる事、神が満たし、神が益としてくださると言う、その神の時や神の計り知れないわざを待てずに、自分で自分の期待し思い描く益を得よう、富もうとすることで、神を二番、三番にしてしまっていることになります。それは実は、一番は、自分や自分の行い、自分の願いや期待とその実現になってしまっています。それは、もはや、神への信仰、神の恵みに信頼し、期待する信仰ではありません。アブラムは、自分の持てるものは、自分や人の功績によるものではないし、そう呼ばれることも拒みました。主が与え、主が満たし、主が富ませ、そして、主に誉が返されるべきと、どこまでも見ていたのでした。それが信仰者アブラムに信仰から神が湧き上がらせる良い心であり、神がアブラムにそのみ心を行わせるのです。


B,「福音と信仰から出るものは誰も強いない」

 そして、信仰から湧き上がる心であるからこそ、大事な点ですが、その思いを、彼は、盟友には強いたりしないでしょう。

「ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」24節

 アブラムは、これは信仰のゆえだ、と、あるいは、これは神の前に絶対的な考えだからと、だから、周りの君たちもその同じ考えを持て、従え、とは、彼は言いません。盟友ではあっても同じ心ではないのです。まして信仰から出る心であるなら、信仰者ではないものには、そのような良い心や動機は生まれません。「ただ盟友だから、友だから、あるいは、何か利益があるだろうから、あるいは、利益がなければ戦えない。」そのような打算があるのが罪深い人間の普通です。アブラムはそこで、そのような自分は信仰のゆえに、そのような主にあっての動機が与えられているからと、ほかの盟友もそのようでなければならない、とはしないのです。信仰者ではない友の動機は、その人のものとして尊重し、ソドムの王には、彼らには報いて欲しいと言うのでした。これは大事なことです。信仰は福音からしか生まれませんし、ですから信仰の行いは、福音の賜物であり恵みであり、主のわざでもあるのですから、信仰から湧き上がる良い行いというのは、決して律法ではないし、律法にもなり得ないし、律法にしてもいけないのです。つまり信仰から湧き上がる良い行いや応答は、誰にも強制しない、無理やり従わせないし、誰も裁いたりしないと言うことです。このことによって、行動や動機が、福音から出たものか、律法から出たものかを判断することができるのです。良いことや神のため誰かのためにと敬虔な事をしているようであっても、そこに、自分や主以外の誰かの誉れや名誉、裁きや批判や中傷があり、平安や希望ではなく、ただの不安や悲観が勝っているなら、それは、福音を動機にした信仰による行いではなく、どこまでも律法を動機としたものであり、それは人の前でどんなに賞賛されたり支持されても、神の前には決して喜ばれるものではありません。ルターは信仰から出ていない行いは、どんなに立派でもそれは罪であると言っています。そうではない。福音から生まれる信仰の自由な平安な行いは、誰に強制もしない、誰も裁かない。誹謗中傷しない。責任転嫁しない。むしろ、主への希望、主からの平安があり、その隣り人のための心であり判断である。それが24節の盟友の心を尊重するアブラムに学ぶことができるのです。


C,「318人によるロトの奪還」

 そして、富ませるのが神であるように、全てのことが、神のなさることであることは、盟友とこの318人による勝利にも現れているでしょう。方や、他の王たちを服従させたり、制服するような、4人の王たちの強靭な軍です。318人より圧倒的な数であったことでしょうし強かったことでしょう。それに比べれば、わずか318人です。人間の計算的な予測では、絶対に勝てるような相手ではありません。数は圧倒的な不足です。しかし、17節、アブラムは、ケドルラオメル王をはじめとする4人の王を打ち破ったのでした。それは、まさに人による勝利ではなく、神がアブラムとその318人に勝利させた。神の勝利であったのです。まさに神は人間には不可能、人間には不足があるような状況でも、勝利を備えてくださる。その恵みを経験し覚えるからこそ、アブラムのこの告白「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う」がその口から出てきているのだと、いうことなのです。


4.「いと高き神の祭司、義の王、メルキゼデク」

 さて、18節以下には、メルキゼデクのことが書かれています。

「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された。いと高き神に、誉れあれ。」18?19節

 メルキゼデクという名前は、「義の王」(ヘブル7:2)、あるいは「私の王は義である」という意味があります。彼は、19節の祝福の言葉からも、このノアの洪水以後の偶像が溢れる世界で、天地創造の神のことを知って信じるものが多くない中にあって、メルキゼデクは、その天地創造の神を知り信じるものであり、モーセは「いと高き神の祭司であった」とも記している人物です。彼がいるシャレム、またはサレムは「平和」という意味があり、以前も触れましたが、神から「わたしが示す地へ行きなさい」とどこだから分からずハランから出発したアブラムは、まずこのカナンの地のサレムへ行こうとしたのではないかと言いました。それは、アブラムが、天地創造の神の言葉を受けた時、この天地創造の神のことを知っている、いと高き神の祭司である、このメルキゼデクに会って、彼から神の言葉の説教と祝福を受けるためであったのではとも言いました。というのも、初代教会の教父たちやルターも信じていたように、このメルキゼデクはノアの息子であるセムのことを指しているからでした。ノアとその子たちはまだ何百年も生きる時代でしたので、計算上は、アブラムが死んだ後でもセムは生きていることになります。ペテロは、箱舟に乗ったノアとその家族について、こう記しています。

「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」ペテロ第二2章5節

 その一人であるセムは、洪水後も堕落したままであり偶像礼拝の溢れるその世界で、義の宣言者メルキゼデクとして生きていたと繋がってくるのです。まさに、ただ血肉の先祖というだけでなく、神によって立てられた、いと高き神の祭司、義の宣言者であるメルキゼデクにアブラムはようやく会ったのでした。モーセが「いと高き神の祭司」と呼び、そして、「パンとぶどうを持って祝福した」と記すのは、モーセにとっても、やがて来たる救い主を見、またさらに後の新約の時代ヘブル書でも詳細に証しするように、このメルキゼデクは、永遠の普遍的な大祭司であるイエス・キリストの予型、型でもあります。まさに、義の宣言者としてイエスが来るように、神によって召された大祭司メルキゼデクも、パンとぶどう、そして天地創造の神のみ言葉で、アブラムに義を宣言し、そして祝福を祈ったということなのです。その義の宣言は、どこまでも、アブラムの信仰のゆえ、どんな困難や貧しさや不足を覚えるような状況でも、主は約束を果たし、主は満たしてくださる、主は富ましてくださる。主は勝利を与えてくださる。主は全てのことに働いて益としてくださると信じた。信頼した。どこまでもその信仰、信頼のゆえに、メルキゼデクはアブラムに義を宣言し、祝福したのでした。


5.「私たちの大祭司イエス」

 私たちの大祭司であるイエスも同じです。私たちの何かではない。何をするからではない。どんな困難な不可能な状況でも、主は必ず良くしてくださる。益として下さると信じる、信仰のゆえに、信頼するからこそ、それゆえに、今日もイエスは義を宣言してくださる。いつでもパンとぶどう、そしてみ言葉を持って、あなたの罪は赦されている安心して行きなさいと、言って下さるのです。そこにこそ、私たちの平安と安心して行ける新しいいのちの歩みがあり、そこにこそ、律法を動機にしてではない、福音と信仰から湧き上がる真の良い行い、服従、隣人への愛があるでしょう。アブラムが、メルキゼデクに十分の一をささげたのも、律法の動機や思いや、誰かに強いられてですか?まさにここにあるでしょう。恵みが先にあり、まず義が宣言され、祝福されたかこそ、その恵みへの応答として、信仰として、つまり福音を受けることから湧き上がる喜びと感謝と平安から献げています。決してその逆ではありません。大祭司であるイエスは今日も、私たちに福音のみ言葉の宣言で「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。ぜひ受けましょう。そして平安の溢れるままに、示されるところに従い、律法ではなく、福音を動機にして、私たちも主の恵みに応答し、主を愛し、隣人を愛して行きましょう。





<創世記 14章1〜16節>

12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んで

  いた。

13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムは

  エモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、

  彼らはアブラムと盟約を結んでいた。

14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども

  三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。

15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北に

  あるホバまで彼らを追跡した。

16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、

  女たちや人々をも取り戻した。

17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って

  後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。

18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司

  であった。

19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと

  高き神より。

20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物

  の十分の一を彼に与えた。

21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」

22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に

  誓う。

23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなた

  が、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネル

  とエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」