2021年9月5日
創世記14章1〜16節
1.「シディムの谷での争い」
この14章では、11章のバベルの出来事、以後、散らされた人々が国のような社会を築き始めてから最初に記されている戦争のことから始まっています。国といってもまだ大きな王国のようなものではなく、族長社会が少し発展し都市を築き、そしてその族長や首長、あるいは、多くの場合は、戦いに長けたリーダーのような存在が、ここに記されている王というような存在であると言えます。その王たちですが、1節、2節にありますように、「シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル」が、「ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわちツォアルの王」と戦った、と始まっているのです。2節の5人の王については、3節には「シディムの谷、すなわち、今の塩の海」とありますが、まだ塩の海になる前、まさに13章にありました、アブラムの甥のロトが、選んで住み始めた、ヨルダンの低地、水の潤う肥沃な土地の王のことです。つまり、1節の4人の王たちは、おそらく、東方のメソポタミアからやってきて、この5人と戦ったのでした。その戦いに至る経緯が4節以下になるのですが、「彼ら」、つまり、2節のヨルダンの低地の5人の王は、「十二年間」、1節の4人の王の一人である「ケドルラオメルに仕えていた」、つまり服従していたのですが、「十三年目にそむいた」のでした。それに対して、翌年に、4人の王は連合した背いた彼らに攻めのぼり、次々と町々村々を征服し、そして、8節、「そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き」、先ほど3節にありました、後に塩の海となる、「シディムの谷で彼らと戦う備えをした。」のでした。結局、その5人の王は、攻めてきた4人の王に打ち負かされ、10節、ソドムとゴモラの王は、瀝青の穴に落ち、他の人々は、逃げてしまったのでした。この4人の王の軍勢の征服により、11節に続いていますように、ソドムとゴモラの全財産、食料全部が奪われてします。そして、その影響で、12節です。
「彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」12節
ソドムに住んでいたロトも攻めてきた4人の王の軍によって財産を奪われてしまった、それだけでなく、14節でも分かる通り、ロトとその家族やしもべ達なども捕虜とされてしまったのでした。
2.「人間の罪:神の良いものを悪いものとする」
これまでの所から何を教えられるでしょうか?まずこのところからも、13章でも見てきたように、本来は主の良いものであるものを、悪用してしまう人間の罪深さを見ることができます。
A,「神が与えた良いもの」
ロトが見渡し、選んでいった、ヨルダンの低地、水が潤う、肥沃な土地について、創世記を記録しているモーセは「主の園のような」と表しました。創世記1、2章で見てきたように、地に水が潤い、多くのものを生み出す、それは主なる神の創造による恵みであり、生き物が増え広がり、神の祝福を取り次いで行くために、神が人類に、ただ力で支配するのではない、正しく治めるようにと与えたものでした。そして、神は、「人は一人でいるのは良くない」と、互いに支配するのではなく、互いに助け合うためにと、社会、人間関係の、最も小さい、そして最も大事な単位である、男には女を、女には男を置きました。それが、その神が与えてくださった被造物や、その大地も、人が正しく治めて行き、神の祝福を子孫に取り次いで行くための基本となる関係であり、単位でした。そのように全てを、互いに助け合い、協力し合い、神の思いに従って、み言葉に従って、正しく治めて、祝福を取り次いて行く。それが、この大地のため、そして人間の互いの関係の、神の変わらない思いであることを1、2章で見てきたでしょう。
B,「人は悪用する:争いによる解決」
しかし、堕落の影響は、なんと深く、重く、圧倒的でしょうか。人類は大洪水、そしてバベルの出来事から、学び、悔い改めることなく、人はその神の良いものを、悪く用いることによって、悪いものとしてしまい、逆に、悪い行いである戦争、侵略、略奪を、そして、その神から正しく治めるように託されている良いものを自分が支配者のように間違って用いる行為さえも、あたかも正義であるかのように良いものとしてしまいます。多くの産物を生み出し、住むに良い地は、どの王やどの国にとっても、利益を生みだす魅力的な土地ですから、それを4人の王は、最初は、力で5人の王たちを支配し、服従させていたのでしょう。しかし、5人の王も、やはりその土地の利益を4人に吸い上げられるのが不満だったのでしょうか、あるいは、独占を願ったのでしょうか、何れにしても、その土地を巡っての、支配であり反発であり、戦争、侵略、略奪なのです。主の良いものを、愛し合い、協力し助け合って、という創造の時の、神の人と人との関係と正しく治めるためというその想いなど少しもありません。主の良いものを、奪い合って、得よう、用いようとする。それだけではなく、人と人の間の関係も、本来は神の良いものであり、神の思いと計画があるのに、それさえも悪用している、しかも、モーセは、「今の塩の海」と書いており、その主の園のようなそのヨルダンの低地は、そのあと、人間の罪ゆえに荒廃し、何も生み出さない地になったその事実を踏まえていることからも、そんな人間の罪深い現実こそが、そこには描き出されていることが教えられるのです。
C,「アブラムとの対照:神の恵のゆえの信仰による愛」
そして、これは13章のアブラムと対照的に描き出されています。アブラムは、アブラムのしもべ達とロトのしもべ達の間に、争いが起こった時に、その問題をさらなる争いで解決しようとしたでしょうか。そうではありません。アブラムは、最小の単位の神の恵みに立ち返り、ロトに「家族ではないか」と、そこでの愛の関係にまず立ちました。そして、相手を愛するからこそ、争いや問題に、さらなる争いや力で解決したり、族長だからと、権力と律法で上から解決しようとしたりはせずに、彼は自分をロトの下に置いて謙り、互いに別れて行く際に、ロトにまず最初に行く方向を選ばせ、自分はその逆を行こうと言ったでしょう。そのようにアブラムは争いや問題に、決して、争いで解決しようとしませんでした。彼は、愛と謙遜で対応したのです。しかもその愛と謙遜による問題への対応さえも、アブラム自身の性格や彼にある何かによるものではなく、彼の信仰から出たものであると見てきたでしょう。その信仰も、彼自身の何かではなく、神からの賜物としての信仰であり、み言葉と聖霊によるものでした。ハランの地から導き出したのは主のみ言葉であり、そこでどこだかわからない地へと歩みをさせたのも、その神のみ言葉と聖霊によって与えられた信仰のゆえでした。そして、その旅も、行く地行く地で、彼は不安も問題もないバラ色の生活であったのではなく、試練と苦しみの連続でした。しかし主は、その試練を通して、アブラムに繰り返し、日々、悔い改めに導き、主の恵みと約束に立ち帰らせることによって、彼が、どんな状況でも、ますます神に信頼し、神がなしてくださる、神が約束を成就してくださると、ますます信じるようにさせられていき、そのように彼は信仰こそを養われ、成長させられて行った。その信仰のゆえの、問題への対応であり、ロトへの謙りであったでしょう。アブラムは争う王たちと逆であったのです。
このように、人は、その罪ゆえに、良いものを悪と言い、悪いものを良いと言います。しかし、神によって、恵みのゆえに信仰によって新しく生かされるものには、神は、絶えずみ言葉と聖霊の働きによって、その人にその御心を行わせてくださることが教えられるのです。
この後、アブラムはロトを取り返しに行きます。確かにそこに争いは用いているように見えますが、それは王たちのように土地の奪い合い、神の良いものの奪い合いとしての争いとは違います。あくまでも親類であり愛するロトを助け、悪から救い出すためであり、しかも、それは神がアブラムと僅か318人だけのしもべ達を用いて、ロトを助けだしてくださったのですから、アブラムのわざというより、神の許しと助けの元での行動であったのでした。このところは次回また見て行きます。
3.「王たちの争いとロトの救出が私たちに示すこと」
A,「王たちの争い:良いものを悪いものとする私たちの罪の現実」
今日のところから教えられることは何でしょうか?私たちは、事実、堕落の圧倒的な影響によりどこまでも罪深いものであることをまず教えられます。私たちが受けているものは、すべて神からのものであり、神の良いものです。命も、自然も、日々の肉の糧も、そして信仰も救いも新しいいのちも、さらには、仕事や家族も教会や、そのそれぞれに必ずある召命もそうであり、そして何よりみ言葉も聖霊もです。しかし、私自身そうであると教えられるのですが、私になおもある罪は、今日の箇所で登場した王たちと同じように、その神の良いものを、神のもの、神の恵みとして感謝して日々受けるのではなく、あたかも神も恵みもないかのように、全ては自分自身で獲得したかのように、自分のもののように、あるいは、自分が神であるかのように、扱ったり、用いたりしてしまいやすいものです。人との関係はどうでしょうか。神から、助け合うように、協力し合うように、愛し合うようにと、与えられている、人との関係において、その創造の時の神の思いを忘れてしまい、自己中心になってしまう。人に厳しく自分には甘くなり、すぐに裁いたり批判したりしてしまう。それもまた、神の良いものを悪く用いてしまっていることに気付かされます。そして、神が与えてくださった最高の賜物である信仰においてはどうでしょう。まさに、様々な、問題や心配に直面した時、恵みの主が約束を果たしてくださる、主がよくしてくださる、主が全てのことに働いて益としてくださるという、その主の言葉、主のしてくださったことと、主の約束を、日常においてすぐに忘れてしまい、神が働くよりも自分が、恵みよりも自分が、と、ただ自分の罪深い感情や欲求のままに行動したり、対処してしまったりしてしまうことがあるのです。そのように見ていくときに、今日の、この肥沃な水の潤う、「主の園のような」ヨルダンの低地、を巡って争う王たちの姿は、まさに人の現実、自分自身を示している。そのように自分が、神の前にも、人の前にも、どこまでも、罪深いものである、その現実を教えられ、悔い改めさせられるのです。
B,「罪から救い出し、福音の恵みを溢れさせ遣わす私たちの救い主」
しかし、それが私たちを遣わす言葉ではありません。そう、私たちの救い主イエスは、今日も私たちをその罪の絶望の淵に決して捨て置いたりはしません。まさに悪に囚われていた甥のロトのために、神は、アブラムと318人のしもべを遣わして助け出してくださったように、イエスは、「わたしこそあなたをその罪から助け出しにきたではありませんか」と、私たちに言ってくださっているお方です。主イエスはそのために今日も、私たちに、み言葉を持って語りかけ、そこに聖霊様が豊かに働いてくださることによって、「わたしの十字架と復活はあなたのため、あなたのその罪の赦しのためだ」と、そのように罪の悔い改めに導かれている私たちを絶望におくためではなく、絶望から光へと導くため、心配から平安を与えるため、その平安のうちに使わすためと、ただ受けるように福音を差し出してくださっているでしょう。それを受けるからこそ、イエスが与えると言われた、世が与えることのできない、イエスの平安が私たちのところに来るのです。そして、そのイエスが福音によって与える平安と喜びが私たちに泉のように溢れ出て信仰に進ませるからこそ、神の前に本当の良い行い、本当の隣人への愛を世でさせるのです。それは人の功績ではなく神のわざ、福音の力であり、福音こそまさに信じる私たちにとっては神の力なのです。
4.「結び:福音によって平安のうちに遣わされ」
今日もこのようにイエスは、み言葉の約束と宣言によって、そして目に見えるパンとブドウを用いて、「これはわたしのからだです」「罪を赦すためのわたしの血です」と言い、そのイエスのからだと血を私たちに受けよと与えてくださることは、なんと感謝なことでしょうか。イエスは、最後の言葉を、律法によって重荷を負わせ、平安なく私たちを遣わすのではなく、その福音によって、罪を赦し、重荷をおろし、平安のうちに使わしてくださいます。このご自身の十字架と復活のゆえに、そのイエスのいのちと義のゆえに、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。ぜひ、今日も、受けて、平安のうちに、ここから遣わされていきましょう。
<創世記 14章1〜16節>
1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、
ゴイムの王ティデアルの時代に、
2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、
ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・
カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての
村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわち
ツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、
エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は
逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んで
いた。
13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムは
エモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、
彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども
三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北に
あるホバまで彼らを追跡した。
16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、
女たちや人々をも取り戻した。