2021年8月22日


「主はアブラムに仰せられた」
創世記13章10〜18節

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1.「一族内部で起こる問題」

「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼす以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」10節

A,「ロトが見たヨルダンの低地」
 ロトはアブラムから「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(9節)と言われたので、そこから見える全地を見渡します。そして、ヨルダンの低地全体の、水が流れ出る肥沃な土地に目が行くのです。水の豊富なその地は当然住むには良い土地として判断できます。ロトはもちろん「主の園」、つまり堕落する前の楽園のことは知りませんが、先祖を通じてどのようなものであったのか聞いたことはあったのかもしれませんし、あるいは、前回の終わりでも触れましたように、人は、その目に見える良さや繁栄や繁栄につながるようなことを、神の祝福や恵みに繋げてしまいやすいものです。ですからその水が潤った肥沃な土地が、堕落によってやがて滅ぼされることなど、ロトは知らないですし、そこに人々が集まり、栄えた町、ソドムとゴモラがあるわけです。そのような目に見える物質的な豊かさや繁栄に、信仰者であったとしても、人は神の祝福や御心があるように見てしまいやすいですから、ロトがそこが人の目が想像する、主の園のように見えたとしても十分にありうることなのでした。

B,「モーセが記す主の園」
 そして、もう一つのこのところの見方として、書いているモーセです。モーセは、聖霊の啓示によってアダムとエバ以外は、誰も見たことのない、創世記の創造の始めを記してきて、2章の主の園のことをも記した人物ですから、その知識を持って、まさにヨルダンの低地やエジプトに広がる水の潤う肥沃な土地が、主の園のようであったということを記したとも言えるのです。何れにしても矛盾しないのは、そのヨルダンの低地全体は、水が潤い、人が住み、地を耕すには良い、素晴らしい土地であったことは間違いないのです。しかし、モーセは同時に、「主がソドムとゴモラを滅ぼす以前であったので」とはっきりと書いています。つまり、モーセは、13節でも、ソドムの人々は、よこしまな者で、堕落した罪人であったことを述べており、この後、起こる、ソドムへの主の裁きと滅亡のことをよく知っており、この「主の園のような」素晴らしい土地が、死臭の漂う、滅ぶの地として、荒廃する事も当然知って、語っていることを見逃してはいけません。

C,「良いものを悪いものにする@神の与えた被造物」
 ここから教えられることは、確かに、その地は、主の園なのです。そう、全ては主のものであり、荒野の草木の生えないところも、肥沃な水の潤う、住むには良いところも、皆主のもの、主の園です。地上にある全ての自然の恵み、それは全て良いものであり、神の恵みであるのです。しかし、それを呪われたものとするのは、どこまでも人であるということは、それはアダムとエバの堕落の時から、一貫している人間の性質ではありませんか。堕落の時に、まさに主の良いものは、呪われたものとなりました。それは、主の良いものを、悪用し、乱用し、悪いものに変えてしまうのは、どこまでも人だからでした。ここでもそのことが現れているでしょう。水が潤う、肥沃な素晴らしい土地、人が住むには良い環境も、主の恵み。その土地自体は、本当に良いものです。しかし、ソドムとゴモラの人々のその罪、悔い改めのない心、高ぶりと悪の蔓延、しかもそれを悔い改めもせず止める事もないということは、まさに悪いことを良いこととしている、矛盾があるわけです。しかし悪いことを良いこととすることによって、その悪によって、その主の良いものである、肥沃な住むには良い土地を、呪われたものとしてしまう事実が見えてくるのです。これは現代にも通ずるものがあるでしょう。被造物は皆、主が良かったと言われた良いものです。自然も土地も、与えられるもの全て、富も財産も、全ては神からのものであり、恵みであり、良いものです。その自然自体、物自体は、悪でも罪でもないのです。それを間違って用い、乱用し、悪にしてしまうのは、どこまでも人間ではあり、その罪ではありませんか。自然も自然環境も、大気も川も海も、土地も、自然や富も、神が人に与えてくださり、まさにアダムとエバに、互いに助け合い、平和のうちに祝福を取り次いで行くようにとと、託してくださったものであることを、1、2章で見てきたでしょう。それは、支配し独占し、乱用し、壊すためのものではありませんでしたね。しかし、実際は、自然は破壊され、大気も海も汚染され、様々な疫病も生じています。富も独占があり、貧富の差は、歴然としているのに、誰もそれは悪だとは言わない。勝者が栄えるのは当然だというのです。まさに善を悪とし、悪を善だとしているのです。全ては主のもの。主が正しくおさめるように与えてくださっているもの、互いに助け合う、世の平和と祝福のために与えてくださった、ものであるのに、まさに、全ての神からの良い物は、人間の罪、エゴ、プライド、優先による満足などなどによって、悪いものとされるのです。

D,「良いものを悪いものとするA霊的側面でも:恵みのみでは不十分」
 その性質は深刻で、霊的なことにさえ見られるものです。ルターは、そのように、目に見える物や繁栄に、自分の願望や期待や「こうあるべき」を当てはめて、そこに神の栄光があるように見ようとするクリスチャンは、神の良いものを悪いものとし、悪いものとを良いものとしてしまうことを示唆しています。どういうことでしょう。つまり、神は聖書を通して、救いも信仰も、信仰から溢れ出る愛も、それは全て神からの恵みであり、神が与える福音とその福音によって与えられる信仰と聖霊による、神のわざであることを、どこまでも教えているのに、人の側で、それだけではダメなんだ。良い行いが、私たちの行いと意思による協力や貢献が必要なんだとしてしまう。まさに「恵みのみ」という「良いもの」を「悪いもの」としてしまい、そして律法や人の行いが、神の国に入り実現するために必要だという、神の前に罪でしかないものを、良いものとしてしまう、ということです。そのような考えは、宗教改革以前には溢れていましたし、そのことから聖書の恵みのみに回帰しようとした、宗教改革の後でも、まさに宗教改革側で、ルターのいう恵みのみでは足りない、だめなんだ。として、改革以前の間違った教えに戻ってしまい、そのような神と人との協力の教理は、プロテスタント内で、最もな素晴らしい教えであるかのように絶えず出てきています。まさに律法があたかも福音であるかのように、あるいは、福音を律法に巧妙に変えて、伝えられ、福音ではなく、律法が最後の言葉として、人々が礼拝から派遣されることが、教会でもなされてしまっているのです。良いものを悪いものとしてしまう。悪いものを良いものとしてしまう。人間の深刻な罪の性質であることを教えられます。肥沃な土地、主の園に栄えるソドムの悪は、そのことを私たちに示唆しているのです。
 ロトは、もちろん、信仰者ではありましたが、先のことはわかりませんし、ソドムのことはよく知らなかったのかもしれません。悪いことを予想してあえてそちらに行く人はほとんどいませんから、その肥沃な水の潤う地に未来の「期待」を抱いたことでしょう。11節にある通りに、ヨルダンの低地を選び、そちらに向かって行ったのでした、アブラムとロトはそこで別れることになります。12節にあるように、ロトの家族は、町々に住むようにあり、ソドムの街の近くに、天幕を張ったのでした。


2.「主の言葉に従ったアブラム 」

A,「カナンに留まる」
 一方で12節には、アブラムについても書かれています。
「アブラムはカナンの地に住んだが」12節
 とあります。ここで不思議に思います。アブラムは、ロトと逆に行くと行ったのに、カナンの地に住んだのかと。ここだけ見るなら、カナンの地に留まったかのようにも見えるし、そうなると、アブラムは、問題を解決するために、うまくロトを騙して、追い出すことに成功したのかのようにも見えるかもしれません。これまでと、そこだけを見るなら、そういう推測が出てくるかもしれません。しかし、おそらく、18節の同じカナンの地の別のところ「ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ」とあるように、そこに天幕を移して住むのですが、ロトと別れた後に、なぜそこに住んだのかの理由は14節以下にあるのです。
「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」14〜18節
 とあるのです。つまり、ここにはっきりと書いてあるように、ロトと別れた後に、この主の言葉があったのでした。ですから、本当に、アブラムはロトと逆の方向に行こうとしていたのかもしれません。しかし本当に行こうとしていたからこそ、神はこの言葉を与え、この地の「ヘブロンにあるマムレの樫の木のそば」までの移動に止め、この地に止まるように導かれた、だから、アブラムは、その言葉に従い、このカナンの地に止まったと言えるでしょう。どこまでも主の言葉に導かれてだとわかるのです。

B,「主のなさることへの信頼」
 このところ、主は必要なときに必要な言葉を与えていることがわかりますし、そして、アブラムが、そのいつとかどんな時とかわからないその神の言葉、神のなさることを、信じて、信頼して待つ、その姿がここにあり、教えられるのではないでしょうか。
 アブラムは、この時、主がこのように語ってくださるだろとわかっていませんし、予想もできていません。本当に、彼は、ロトに先に選ばせ、そのロトの選んだのとは逆の方へ行こうと決めていたことでしょう。しかし、それは前回は述べた通りに、いつとかどんな時とかわからなくても、そして、その行く地が、荒れ野のひどい土地であったとしても、主なる神は、これまでも罪を気付かせ、悔い改めを起こさせ、その罪を赦してくださり、それだけでなく、全てに働いて益としてくださり、全て必要を備えてくださった、決して悪いようにはなされなかった、そのことを信じる信仰が与えられ、ますます信頼するように成長させられ、それゆえにいつとかどんな時からわからない、神のなさることに信頼し期待しての、その逆をいく決断であったでしょう。
 神はその主のいつとかどんな時からわからないことへ、信頼し委ねる、その信仰に、答えを与えてくださっています。ロトと逆を行こうとし、カナンを離れようとしていたのかもしれないそんなアブラムに御心を示し、み言葉を語り与えられたのでした。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」14〜17節
 と。ここで、これまでどこに行くのかわからないで、「わたしが示す地へ」であったその旅、そして、これまでは「あなたへ」が含まれず、「あなたの子孫へ」までであったその約束に、一つの答えが与えられます。ここでは「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」と言っており、今度ははっきりと「あなたとあなたの子孫へ」と、アブラム本人を指して、神は約束の言葉を与えているのです。アブラムは自分は含まれていない、自分は見ることがないと言われていて、「どこだかわからない」「わたしが示す地へ」の旅が続いていたのですが、ここにさらなる具体性が神に与えられたのでした。「あなたとあなたの子孫へ与えよう」と。「神が示していた地、それは子孫だけでなく、自分にも、それは、この、見渡している地、そして、自分が縦と横に歩き回ったその地を、神は約束の地として与えてくださるのだ」、そのことがわかったのでした。アブラムはもちろん嬉しかったことでしょう。神の約束は真実であり、決して偽らない。神は与えると約束したものを、必ず与えてくださる。彼は知ったのでした。

C,「父がご自分の権威を持って」
 しかし、それは、約束を与えられた時、すぐにではなかったし、アブラムが、いつとかわかっていて、予測し計算できた約束ではありませんでした。まさに、出発する時はただ神が「わたしが示す地へ」だけでした。何度も引用するように、ヘブル書には「どこへ行くのかわからず」出発しました。神の約束は、神の約束である以上、それは神が定め、神が成すものです。イエス様の弟子たちが、イエスの復活の後に、神が約束した神の国の到来を、自分たちの知識や価値観で勝手に期待、推測し、そして自分たちが今こそ貢献しようとばかりに、「今こそ」と問いかけたのに対して、イエス様は言いました。
「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」使徒の働き1章6〜7節。
 神の約束は、神の約束であるがゆえに、神がその権威を持って定め、神が神の時に神が成すものです。私たちはいつとかどんな時とか、わからないのです。しかしそれに、自分たちが神の計画に協力するとばかりに、こちらの期待や願望や都合、「この時、こうでなければならない」をあてはめることによって、その神の権威に介入することは、人の側では熱心で、敬虔には見えるかもしれませんが、それは、まさに約束、福音を、律法に変えてしまうことであり、良いことを悪いこととしてしまい、悪いことを良いことににしてしまうことに他なりません。アブラムは、いつとかどんな時とかわからなくても、主のなさる事に信頼することへと成長させられました。私たちも同じ恵みの中で、成長させられています。神の約束はどこまでも真実であり、必ずその通りになります。しかし、それはいつとかどんな時とか、神がその権威を持って定めているのです。そのことを待てないからと、待つのは消極的で現実的でなく、合理的でもなく、私たちの思いと力でとなって行くと人はなりやすいですが、そこに、何より平安はありません。むしろ、アブラムの信仰のように神の圧倒的な計画と力、権威によって、約束は必ずなされると信頼するからこそ、平安と希望は尽きることはないのです。それが、イエス様が与えると言われた、世が与える事の出来ない、真の平安であり、私たちはその信仰の新しいいのちに入れられているのではないでしょうか。今日は、主イエスは「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい。」と言ってくださいます。主は私たちにも常に御言葉を語り、必要な時に必要な御言葉を与え、行くべき道を示してくださいます。そのことを信じ待ち望む、受け止め、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。



<創世記 13章10〜18節>
10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前
  であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地
  のように、どこもよく潤っていた。
11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。
  こうして彼らは互いに別れた。
12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を
  張った。
13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたが
  いる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよ
  う。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることが
  できれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだか
  ら。」
18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。
  そして、そこに主のための祭壇を築いた。