2021年8月15日


「信仰から生じる愛」
創世記13章5〜12節

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1.「一族内部で起こる問題」

 今日のところは、アブラム一行の中での出来事になります。5節ですが、アブラムにとって、父を亡くした甥のロトは、ハランを出た時から自分とともにずっと一緒に旅をしてきた愛する家族です。しかしアブラム同様、ロトの所有物や財産、つまり羊の群れや牛の群れ、そしてしもべ達が増えてくることによって問題が生じてきます。

「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。」6〜7節

 これまでも触れてきた通りに、このカナンの地には既に住んでいた人々がいました。「カナン人とペリジ人が住んでいた。」(7節)とある通りです。また羊の群れや牛の群れを飼って放牧するためには、それなりに広い土地が必要になるのですが、その家畜が増えて「多すぎた」とあります。周りには定住者もいて、その領域を侵害するわけには行きませんから、アブラムもロトも互いに所有物が増えることによって同時に家畜を放牧するその場所も手狭になってくるのも当然です。その状況で、このアブラムとロトとが一緒に住むには十分な場所とは言えなくなってきたのでした。そしてそのような問題ゆえだと思いますが、アブラムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者との間に争いが起こったのでした。このように一族の内部で問題が起こるのですが、アブラムはここでどうするでしょう。


2.「信仰者アブラムの対応」


「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。」8節


A,「謙るアブラム」

 もちろんアブラムは、この甥のロトやその僕達を含めた一族の長でもあり祭司でもあります。そしてアブラムはロトの叔父であり、年齢も上です。当時の一族の長の権限が強い文化や社会の一般的な考えであれば、問題が起きた時に、一族の長であるアブラムがその自分の考えや権限優先で、ある意味、ロトを族長であるアブラムに従わせる形で解決するということが普通かもしれません。しかしこのところ、アブラムは決して上からの物言いではありません。ロトの立場まで謙り語りかけていることがわかります。そしてどこまでもその目的は、「争いがないように」であり、そして理由も、族長や一族の利益云々とか、神の約束云々でもない、まして自分が困るからあなたが何とかして欲しいでもなく、「親類同士なのだから」と、どこまでも愛する家族であり、互いに愛し合う存在であるからと、アブラムは語りかけていることがわかるのです。


B,「律法、伝統、慣習、そして約束を律法にすることによる解決ではなく」

 ここに教えられるのです。確かに、現代でも、どの国、どの社会でも、問題の解決には法律や慣習は大事であるし、それらを当てはめて用いるのです。この関係とこの問題の解決のためにも、人々は、色々な慣習とか、伝統とか秩序、あるいは律法とかを真っ先に考え、ゆえに、それに基づいて「こうあるべき」「こうでなければならない」と言って問題を解決させようとするかもしれません。あるいはアブラムは神の約束を受けているのだから、まずはアブラムの繁栄のために、アブラムに災いや問題がないため、約束の子が生まれるために、アブラムの利益になるように解決しなければならない、ロトは妥協するべきだ、そしてこの後の9節のどちらに行くかの問題についても、アブラムに決定権を与えるべきだ、先ずはアブラムに良い土地を選ばせるべきだと、人間的に考えれば、そのような判断や選択、問題の解決方法になっていくものです。問題に直面する時に、そのように「律法での解決」にどうしてもなりやすいものなのです。

 しかし、ここに教えられます。これまでの困難を通して、何度も悔い改めに導かれながら、神の恵みを教えられ、神を信じ、信頼することに、日々、成長させられているアブラムのその信仰において、この問題の解決のために用いるのは、律法ではなく、愛であるということなのです。


3.「神の、律法への真の目的も愛」


A,「律法の正しい解釈者イエスの教えから」

 事実、その律法でさえも、それは神から与えられる聖なる言葉ですが、その律法も、その与えた神の目的は愛です。確かに十戒を見ると、「でなければならない」「してはいけない」という言葉ばかりがあるので、愛という言葉が律法とは繋がらないかもしれません。しかしイエスは十戒を正しく解釈して説教しています。

「「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイによる福音書22章36〜40節

 イエスは「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているです」と言っているように、ここで言っている第一の戒めというのは、神と人との関係を示す、第1〜3の戒めのことであり、第二に戒めというのは、人と人との関係を表す第4〜10の戒めのことを指しています。イエスは、その十戒全体を指して、律法とは「神を愛し、隣人を愛しなさい」と、愛することだと説教していることがわかリマス。律法の目的は愛です。しかも、それはイエスが「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません(マルコ2:27)」と、言われたのと同じように、律法のために人がいるのではなく、神は人のために律法を与えてくださっています。つまり人が、神を愛し、隣人を愛して生きることが、何より人にとって幸福と祝福であるからこそ、与えてくださっているものです。

 ですから、もちろんこの堕落して罪深い社会にあっては、律法の働きとして、悪を抑え、悪を罰し、平等な裁きとして用いられますし、クリスチャンにあっても、神が日々、私達の罪深さを示すために語りかけるものでもあり、そのように神が用いる律法が私たちの罪を断罪し、刺し通すのも事実です。しかしそうであっても、何度も繰り返しているように、神が律法を持って罪を断罪し、刺し通し、悔い改めさせるのは、十字架の罪の赦しと復活の新生へと導くための準備であって、忘れてしまう神の愛に気づかせ平安を与えるためです。やはりそこにさえも神の愛の目的としての律法はありますし、そして律法の究極の目的はどこまでも、イエスがいうように、私たちが神を愛し隣人を愛することに、私たちや世界の平和と祝福があるということにあるのです。


B,「そのイエスの教えに従っている小教理問答の答え」

 ですから、私たちのルターの小教理問答書では、ルターは十戒のところの回答では、必ず「私たちは神を恐れ、愛すべきです」という言葉で初め、そして、例えば「殺してはならない」のところでも、ただ「こうしてはいけない」というだけでなく、こうあります。

「私たちは神を畏れ、愛すべきです。それで、隣人を傷付たり、困難に合わせたりすることなく、むしろ、彼らを助け、全ての必要において友人となるべきです。」

 と。ただ「殺すな」というだけではなく、隣人を傷つけたり、困難に合わせることも、殺人に等しい罪であると示していますし、さらにそれだけでなく、最後は、彼らを助け、必要を与えていく友となるようにと「愛すること」を教える戒めだと教えています。それはイエスの教えと一致しています。また「偽証してはならない」にはこう教えています。

「私たちは神を畏れ、愛すべきです。それで、私たちの隣人を、偽って伝えたり、裏切ったり、嘘をついたり、中傷したりせず、むしろ隣人をかばい、建てあげ、また、彼らがすることについて最善を話すべきです。」

 と。ここでもただ偽証だけではなく、隣人について、真実ではない噂や偏見を流したり、中傷したりすることさえも偽証に等しい罪であると示すと同時に、やはり最後は、隣人をかばうように、建て上げるように、最善のことを話すようにと、「愛すること」を教えている戒めであることを示しているのです。律法の究極はこのように、愛すること、愛と平和が目的であることをイエスは示しているし、ルターはそのイエス・キリスト中心で十戒を捉え、イエスの教えを正しく汲み取っているのです。


4.「その愛は、信仰から」

 このところで問題に直面したアブラムのこのロトへの語りかけにはそのことを学ぶことができるのです。問題の解決のために、族長として上から「こうでなければいけない」「ああでなければならない」「ロトよあなたはこうすべきだ、こうしなければならない」というように律法による解決を図りません。どこまでも、家族としての平和、互いの徳を求めた対応、いやそれ以上の謙りと愛と信仰がここにはあります。


A,「ロトの後に:約束(福音)を律法としない」

「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」9節

 アブラムは、もしあなたが左に行けば、私は右へ行こうという言い方をしているでしょう。つまり、アブラムは対等どころか、自分が後になり、まずロトに選択させたのでした。「自分は神の約束を受けたものであり、自分の子孫は約束を見るものになるのだから、自分こそが重要であり、自分こそ神にも認めれたまず優先して選ぶ権利があり、少しでも良い場所、環境を、その子孫のために、神の約束の成就に貢献するために選びたい、あなたは私が選んだのと逆を行きなさい」とは言わなかったのです。つまり、「神への約束のために」とか、「神の約束に協力したい」などと掲げることによって、神の約束を誰かに強制したり従わせたりするために、まさに福音を律法と混同したり、新たな律法にしなかったのです。どこまでもまずロトに選ばせた。そしてその後に、自分はロトと逆を行こう、そう語ったのでした。


B,「ロトの後に:約束(福音)を信じるからこそ」

 それは、人間が自分の知識や価値観、綿密に先を計算して、少しでも自分を利する方向を選択するような理性の働きによるのではない、どこまでも、どちらに行くにせよ、神の完全な恵みと約束が導くのであり、約束は神がなすのであり、その約束を信じることができる、だからどんな険しい荒野の道でも安心して行くことができる。その信仰です。事実、アブラムは、そのようにハランから遣わされました。「わたしが示す地へ行きなさい」と、具体的な地名のない旅でした。ヘブル書では「どこだかわからないで」とも書かれてあるでしょう。そしてカナンの地でも「子孫に与える」と言う約束と、そして定住者と様々な困難の伴う旅の連続であったでしょう。アブラムにとっては、どこだかわからない神が指し示す地への旅はまだ続いているのです。しかしその旅を通して、どんな困難な状況でも、神は守ってくださり、備えてくださり、自分の罪深ささえも赦し、用いて、全てのことに働いて益としてくださる神の真実さこそを知った。ますます信頼し委ねることの素晴らしさを知った、そんな旅であったでしょう。そのようにして信仰こそが養われ、育てられている、そのアブラムの信仰の証し、現れの一つがこのロトへの言葉、ロトへの謙りであり、アブラムの問題の解決の手段であったのでした。つまり信仰と、その信仰から溢れ出る愛なのです。アブラムは、ロトがどちらを選んでも、その逆こそ、どんなに酷い地や状況でも、神が導かれるところ、神が「わたしが示す地」であることを信じていたことでしょう。その信仰は、アブラムにもともと備わっている資質とか人格の素晴らしさででもなければ、アブラムの努力による行いでもなく、神がアブラムに与えてくださり、約束と試練を通して、聖霊の働きによって与え、養い、育ててくださっている信仰の、その結実なのです。


C,「信仰は律法ではない」

 私たちもここから、決して律法的に、このアブラムのような信仰に自分でならなければならないとしては行けません。神は信仰を私たちに確実に与えてくださっていて、み言葉の約束と福音が語られているところに、聖霊は確実に働いてくださっています。そうであるのですから、私たちもアブラムのように、神によって育てられ成長させられています。確かに、イエスに全て委ねること、信頼することは難しいことです。いやそれは私たち自身のわざでは決してなく、私たち自身の力では、それが理性や意思の力でも不可能です。できると言うなら、もはや十字架も聖霊も必要ありません。私たちにはできないのです。しかしだからこそ、イエスは十字架にかかかって死んでよみがえられたのであり、絶えず律法と福音の言葉を語ってくださり、そして聖霊を与え助けてくださっているのです。


D,「福音と信仰は、できないことをさせる力」

 そしてだからこそ、そのできないと思えるようなこと、イエスに委ねること、信頼すること、さらには、そのアブラムのしたような謙遜や、イエスが教えた律法の求める本来の目的である愛、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人を愛せよ』をも、自分たちの力ではなく、福音から溢れ出てせずにはいられなくさせるような、神の力、信仰の力で、私たちからも溢れ出させてくださるのです。それが私たちの思いを超えた福音の力であり、今日も十字架と復活のイエスの名で「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と福音の宣言がなされ、聖餐が与えられているところでは、私たちにも与えられているのです。ですから自分たちがしなければ行けない律法とせず、「主よ、させてください、用いてください」と、祈って行こうではありませんか。


5.「主の園のように:自分のイメージを主の御心とあてはめるロトの愚かさ」

 ここまでにしたいと思いますが、10節、ロトは、仕方がないことではありますが、人間的な計算の目で肥沃なヨルダンの低地全体、「主の園のように」「どこもよく潤っていた。」と言うその地を選びます。ロトは主の園を見たことはありません。ですから、人間的に見て、栄え住みやすそうな潤っていて肥沃な土地に、自分のイメージや願望として「主の園」をあてはめたにすぎませんでした。そのように人間の願望や期待に主の御心や栄光や祝福を当てはめて見ようとすることは、ロトの時代、いやそれ以前から変わらない人間の罪の性質ですが、今の時代も変わらずあることです。しかしロトは、そのようなところにこそ、神を信じない堕落した罪人も集まり、罪人の罪深い繁栄があることをその時は見ることがでできませんでした。後に気づかされることになりますが、それはロトにとって試練と損失を伴いますが良い信仰の学びにもなるのです。それは後に見て行くことになります。



<創世記 13章5〜12節>

5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。

6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、

 彼らがいっしょに住むことができなかったのである。

7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。

 またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。

8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなた

 の牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、

 私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前

 であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地の

 ように、どこもよく潤っていた。

11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。

 こうして彼らは互いに別れた。

12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を

 張った。