2021年8月8日


「何一つ無駄にはならない」
創世記13章3〜4節

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1.「無駄ではない@−カナンを出て、カナンに戻る」

「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」3〜4節


A,「無駄か?」

 アブラムは、ネゲブから、以前、最初に出発した、ベテルとアイの間の、天幕を張り祭壇を築いたところへと戻ってきます。前回までのところでは、神が「子孫に与える」と具体的に約束されたカナンの地を離れたことに注目してきました。そこで確かに、人の目には、神が具体的に約束された場所であり、わざわざ祭壇を築いた場所を離れることは、何か不信仰にも見えることであり、むしろ頑張ってでも留まり続け、実現するためにアブラムも神の約束に協力する方が敬虔であるかのように見えるのです。その視点から見るならば、このように結局は戻ってきたアブラムを見て、「ほれ見たことか、頑張って努力して実現のために、止まってた方が良かったのではないか。この地を離れたからこそ、飢饉にも遭い、エジプトに行く羽目になり、結局、罪ゆえに、サライやエジプトの王を危険に晒し、そして、帰ってくることになったではないか。無駄ではないか。」人の目にはそう見えるかもしれません。無駄な時間と、労力を費やし、失敗もした、そして結局は元の場所にですから。具体的に示された場所と、人間の合理的な価値観や計算から見れば、そのように思えることです。しかし果たして無駄なことであったのでしょうか?


B,「パロは神を知り恐れた」

 決してそんなことはありません。確かに飢饉という災いには直面します。エジプトでもアブラム自身の偽りの証言もあり、エジプトの王パロにも災いをもたらすことになりましたが、しかしその失敗を通して、パロは天地創造の神を知ることになり神を恐れることを知ったでしょう。王であるパロは、アブラムの偽りの証言を知ったときに、アブラムにその報いを受けさせ、罰して法的に殺すこともできたことでしょう。しかし、パロがそうせず、むしろエジプトで与えた多くの財産とともに送り出したのは、神への恐れのゆえです。パロが、そのように天地創造の神の存在を知り、恐れを知ったことは、それは無駄なことではないでしょう。しかもアブラムが伝えたからでもありません。神の怒りとはいえ、神がアブラムの偽りさえも用いて働いていたがゆえです。アブラムの間違いや失敗であっても、神はそれを用いて、世にご自身のことを知らしめる。それは、決して無駄なことではない。むしろ神の、人の思いや計画をはるかに超えた一方的な働きではありませんか?


C,「悔い改めは、天の喜び」

 そして、当然ですが、アブラム始め私たち、天地創造の神への信仰を与えられた人には聖霊が働いています。信仰者は、そのように恵みのゆえに義人でありながらも、同時に、罪人ではあるのですが、信仰者は聖霊とみ言葉が常に働いているがゆえに、絶えず、自分の罪深さを教えられ、悔い改めるものなのです。その状況自体は、人の目から見るなら、まさに自分の罪、失敗や、つまずきなのですが、しかしその状況を通してこそ、自分の罪を知ること、悔い改めへ導かれることは、神の目にあって、遠回りですか?無駄ですか?むしろその逆であることこそを、これまでもずっと学んできたでしょう?逆に、どんなに世の中で、つまり人の前で、立派な行いや振る舞い、尊敬もされ、評価もされ、優れた人であっても、神の前に、自分は罪はない。罪を犯していない。そんなに悪くない。むしろ自分はこんなにも良い行いを行なっていて、何の欠点もないと、自分の罪を認めず、自分の罪を心配することも恐れることもなく、安心しきっている人こそが、神の前に高ぶりの重大な罪を犯しており、イエスもそのような人には、誰も成し得ないような崇高な律法を示して、その人が神の前にどこまでも罪人であることを示していたでしょう。そしてルカ15章のイエス様のメッセージを思い出すことができます。そう、一人の人が悔い改めることは、天の御使いに賛美と喜びが湧き上がると。人の前に、罪による苦しみ、絶望、失敗やつまずき、挫折などなどは、全くネガティブです。無駄であり、遠回りであり、何の益もないように思えたり、評価したりするものであり、私たちも誰かの失敗や欠点をそのように見て裁くことがあるかもしれません。まして、信仰の父であるアブラムがそんな失敗、そんな罪を犯すなんてとんでもない。あってはならない。全くもって無駄で、遠回り、周りへの躓きで、不利益こうむる、というかもしれません。人の前、人に完全さを求めれば、そこで躓きます。しかし、信仰の父アブラムは神ではありません。一人の罪人です。その信仰も彼の功績ではなく神の賜物です。そのような信仰者にとっては、神の前にあって、そしてその現実の信仰生活においても、悔い改めは、決して、無駄でも遠回りでもない。マイナスでもない。それは、神の前に、アブラムが改めて、自分の罪深さと神の偉大さと完全さを知る時となり、神が求められる、人が神の前に謙る時となり、天の御使いたちに、喜びの賛美が湧き上がる時なのです。


D,「ますます信頼するようにさせる」

 そして、信仰者、クリスチャンは、そのように、日々、罪を悔い改め、日々、神の恵みの素晴らしさを知り、何度も毎日、試練や失敗のたび毎にそのことを繰り返すことによって、そのように悔い改めの日々を生きることによって、信仰が養われ、全て自分でなんとかしようではなく、神に全てのことを委ね切るように、そのように神に信頼することこそが成長させられていくのです。ですから、カナンを出たこともエジプトへ導かれたことも、決して無駄ではない。人の前に遠回り、無駄と思えるようなことを通してこそ、神は私たちに、恐れないで心配しないで、神に委ねること、信頼することを、ますます学ばせてくださり、真の意味での霊的成長があるのです。それは無駄や遠回りどころか、素晴らしい、私たちの思いや計画を超えた、神の取り扱いなのです。



2.「無駄ではないA−祭壇と宣教:主の御名によって祈った」


A,「道中での礼拝」

 そして信仰者の歩みは、その旅の道々でさえも、アブラムは、伴う一行と、ともに祈り、神の約束の言葉が証され、そこには悔い改めのみならず、日々、神の約束のうちに、励ます、日々、礼拝の旅でもあったことでしょう。そしてその道中、もちろん出会う定住の人々との出会いや接近があったことでしょう。そこで大多数からは、その礼拝や証しは、敵意や反感を買ったことでしょうけれども、しかし全てではないわけで、そのような中で、語り祈るアブラムは全く意図しなくても、そこから天地創造のまことの神を知る人はいたことでしょう。ルターは創世記講解でそのことを指摘しています。日々、祈り、日々、礼拝するその当たり前の生活が、誰へと意図したり計画しなくても、それは宣教となり証しとなっているのであり、アブラムの旅は、礼拝と祈りの旅であっても、それは同時に宣教の旅でもあったということを意味しているのです。そのことは、「ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た」時もそうなのです。4節にははっきりと


B,「戻った時、主の御名によって説教し祈った」

「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」4節

 と書いています。「主の御名によって祈った」という言葉、ルターは、そこに「祈った」という意味と同時に、むしろアブラムが、主の御名によって「説教した」と、訳して説明しています。「祈り」は当然あるわけですが、信仰者の祈りは、御言葉がなければ本当の主への祈りは生まれないものです。説教のあるところには祈りがあり、祈りがあるところには必ずみ言葉、約束があるのです。アブラムは、まさにこの地を離れ、ネゲブ、そして飢饉があり、エジプトへ、そしてエジプトでの様々な経験と、ついには、この地に戻ってきた時に、やはり自分の罪深さを改めて告白し、しかし神はそんな罪深い自分や家族を赦し憐れんでくださり、必要を満たし、そしてこの地に神が再び戻してくださった、その恵みを褒め称え賛美したことでしょう。それは、当然、彼一人での天幕の隅での自己満足な行為ではなく、この礼拝のための祭壇で、家族や一団とともに賛美したのです。そして、家族や一団が、ただ主人がしているから自分もとりあえずしようとかではない、強制されてでもない、神の前に本当に礼拝するためには、その恵みを教えられなければなりません。そう、アブラムは、その祭壇で、主の御名によって祈ったということは、そこで、これまでの歩みにあった、神と神の約束の真実さを、教え、解き明かし、説教したのです。ですからルターの「説教した」という訳もまた正解なのです。そのように神の約束であるみ言葉を解き明かし説教することによって、証しすることによって、サライも甥のロトも、そして僕たちも教えられ、天地創造の神を知り、神の恐ろしさと自分にもある罪の重大さを知るとともに、神とその約束、そしてその恵みの真実さを知った。知ったからこそ、賛美した。強制されたり義務でもない。心から賛美できたのです。


C,「祭壇と礼拝:神の証し」

 そして、この屋外の祭壇が礼拝の場であったということは重要なことです。周りの定住者の異教の習わしや敵意を気にし恐れるなら、天幕の隅で隠れてすることを人は選ぶものです。しかし、この祭壇は小高い丘の上に立てられるのが通常です。つまり屋根も囲いもない、公に見られるところに祭壇を築き、そこに集まり礼拝をしたのです。そこで、当然、多くの定住者たちがそれを目にし、その語っている内容、祈っている内容を聞くことになります。もちろん、多くの定住者、大多数のものは、天地創造のまことの神をバカにし、敵意を抱くことでしょう。しかし、そこでほんの僅かでも、その声から天地創造のまことの神を知るもの、恐れるもの、心に止めるものもいたであろうことを、ルターは示し注目して書いています。ただ周りの異教徒と敵対するだけではない、天幕のなかで隠れて、殻に閉じこもるのでもない。公の目立つ丘の上の祭壇で、アブラムは祭司として礼拝をし、説教をし、祈った。それは、どういう形であれ、またアブラムがそのように意図した計画したのでなくとも、世の証人として用いられた。そこに教会があり宣教があったのだということを、ルターは教えているのです。


D,「福音から生まれる宣教」

 幸いなことです。礼拝は、もちろん、神が備え、神がみ言葉を持って仕えてくださるものであることは、これまでも創世記を通して教えられてきた事ですが、私たちがその恵みやみ言葉のもとに集い、賛美し、応答することも、また、礼拝の本質であります。それは当たり前のように見え、毎週、代わり映えのしないことのように思うかもしれない。そして、今は縮小やコロナを気にしながらの不十分に思える礼拝かもしれないし、自宅で自分でこのみ言葉やメッセージをきき礼拝している人います。しかし、それがどのような形であれ、どんなに不足さを感じたとしても、み言葉があるところに、神はおられ、神の祭壇があり、神は私たちを集めている。そして、信仰者がその神のみ言葉の約束と恵みのうちに集められ、集うところに、礼拝はあり、そして、それは、私たちが思い描いたり、計画したりするのを超えた、神の宣教があり、行われているということが、この祭壇が意味することから教えられています。礼拝そのもの、あるいは、私たちがみ言葉に集い、聞くこと、祈ることそのものが、人から見れば、そんなの宣教ではないというかもしれませんが、間違いなく、この皆から見えるように立てられた祭壇と礼拝は、アブラム一団のみならず、このカナンの人々への証し、メッセージ、宣教となっている。そして、そこでその神を知る人が、ほんの一握り、いや、たとえ一人であっても、それは、神の宣教であるし、そこで、悔い改めが、アブラム一団の人々や僕たちはもちろん、そしてそのもしかしたらたった一人であるかもしれない、定住者のものにでも証となり悔い改めが起きたなら、それは、天の御使たちの間で、賛美が湧き上がっているのです。今、何か縮小させられ、自粛させられ、そして先行きが見えないこの礼拝の状況だからと、神の恵みを見失ってはいけない。宣教が思い通り、計画通りに、理想通りではないからと、神の見えない、しかし大きな恵みがあることを忘れてはいけません。礼拝は神の祭壇、神の礼拝。神が私たちにみ言葉を語り仕えてくださり、教え、悔い改めを起こさせ、神の救いの素晴らしさを確信させ、喜びと平安を溢れさせ、応答させてくださる、そのように派遣されていく、この礼拝そのものに、神の宣教が確実にあるのです。私たちはその恵みの中にいることをぜひ感謝し、賛美しようではありませんか?


E,「そこに教会がある」

 そして、ここに教会もあるのです。確かにヨーロッパの教会は、荘厳で美しく、目を見張るものがあります。しかしルターは、真の教会は、そのような石や、ブロックの積み上げられた壮大さ、荘厳さ、建築の精密さ、ステンドグラスの美しさや、立派さ、大きさにあるのではないことを教えています。アブラムの祭壇は、丘の上の小さな場所です。壁や天井さえありません。そしてその祭壇そのものがある場所や石に何か聖さがあるわけでもないことは見てきました。実に、その神のみ言葉があり、信じるものが集まる。そこに、祭壇があり、礼拝があります。ルターはそのように、み言葉が正しく説教され聖礼典が正しく執行されるところ、そしてそのみことばを聞く、信仰者が集められるところが、教会の定義であり、そこにこそ真の教会があると、非常にシンプルに教会を定義しています。このシンプルな何もないところに教会はあったことを、祭壇は示しているのでした。もちろん、ダビデの時代の、荘厳な神殿とは比べ物にならないぐらいに、粗末で質素なものです。素晴らしい道具が揃っているわけではない。不十分さもあります。しかし、荘厳な何でも整い完成された王国のエルサレム神殿に本当の礼拝や教会があり、この初代のシンプルな質素な祭壇と礼拝に、礼拝や教会はないとは、言わないのです。逆に、その荘厳な神殿が、偶像礼拝に用いられたときに、そこに神の怒りがあり、その黄金の神殿は、もはや祭壇でも礼拝でも、教会でもなくなったのです。



3.「終わりに」

 大事なのは、私たちの神である御子キリストと聖霊が、キリストのその十字架のみ言葉に私たちを集めてくださり、語ってくださる、そこに私たちがいる。聞いている。悔い改め恵みを覚え賛美している。そして平安のうちに遣わされる。そこに教会があり、宣教もあるということであり、私たちはその恵みこそ、聖書を通じて、いつでも教えられているのです。今日もイエスがみ言葉を語ってくださることを感謝しましょう。そして今日もイエスは、その十字架と復活のゆえに、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と言ってくださっています。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。





<創世記 13章3〜4節>

3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を

  張った所まで来た。

4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。