2021年8月1日


「必要のために備えられている」
創世記13章1〜2節

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1.「前回」
 カナンからネゲブの砂漠地域に移動し、さらには飢饉のためにエジプトへ移動したアブラムを見てきました。そこではアブラムは、サライとの関係を偽ることによって、サライは王であるパロに召し入れられ、アブラムは表面上はサライの兄としてパロから多くのものをもらい良くしてもらったのでしたが、その偽りのゆえに、サライ、そしてパロを罪に晒すことになり、パロには神の怒りと災いが下ることになりました。パロはそこでアブラムの偽りに気付きますが、神を恐れているため、サライをアブラムに返し、アブラムたちに与えた家畜やしもべ達などと一緒にエジプトから去らせたのでした。

2.「神が備え与えるのでなければ」

「それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」1〜2節

A,「神が与えた」
 アブラムはエジプトを出た後、再びネゲブへと戻ります。この時、エジプトでパロから与えられた多くの所有物、家畜やしもべ達などの財産とともに、そして金銀なども与えられたのでしょう。そのような多くのものに富んだ状態で戻ってくるのです。これは幸いな事実を伝えてくれています。確かにそれらのものは人の目から見るならば、エジプトの王パロが与えたものであり、さらにいえばアブラムの偽りの証言も一つのきっかけでもあります。しかしそのアブラムの証言もパロの行いも罪深いものでありました。人は、その人の前、人の目、人間の行いから見ると、その財産は、何かをしたからこうなったと、すぐに、因果応報的というか、行いや、あるいは、その人の何かゆえ、原因のゆえの、所有物、あるいは報酬のように考えてしまいやすいでしょう。確かにそういう面もあります。しかしそのことを超えて、ここにあるアブラムの富は、確かに目に見えるところではパロからではあってもパロからではありませんね。そのアブラムの持てるもの、所有物は、神が備え与えてくれたものであります。なぜなら神の許しがなければ、神が与えるのでなければ、人は何も持つことはできないし、神が必要なものを備えてくださることを聖書は伝えているからです。新約聖書で、バプテスマのヨハネは、人が皆イエスの方へ行くのを嘆いた弟子達に言いました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」(ヨハネ3:27)と。もちろんそれは自分のところへ来る人々、救いや、召命や、賜物のことではあるのですが、それは、それらに限ったことではなく全てのことに言えることだと、この創世記の創造のところでも、また堕落後の人々を見てきてもそうでした。そしてそれは必要を覚えてくださる神として、イエスも山上の説教で、空の鳥さえも天の父は養い、野の百合はもちろん、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神は装ってくださると言い、天の父は私たちの必要の全てをご存知で、与えてくださる方であることを伝えていたでしょう(マタイ6:27〜32)。ですから、このアブラムの富は、王からのものでも無ければ、アブラムの何かの功績でもなく、そしてさらにいえば、そのアブラムの信仰が立派だから与えた報酬とかでもないということです。それは、イエスの言葉の通りで「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられ」るがゆえだということなのです。

B,「必要のために備えた」
 このアブラムのエジプトから持ってきた富は、神がアブラムの必要を覚え与えてくださったものだということなのです。事実、アブラムがエジプトから出たのは、飢饉が収まったかから、さあ戻ろう、というアブラムの計画によるものではなかったでしょう。パロに神からの怒りと災いが下り、アブラムの偽りがパロに知られてしまったことによって、図らずも出ていかなければならなかったわけです。ですから、まだ飢饉が続いていたことでしょう。エジプトへ来る前、飢饉を避け、少しでも穀物の手に入りやすいと、エジプトへと言ったわけですから、飢饉の中、そのエジプトを去らなければならないのは、アブラムの一行にとっては深刻なことでしょう。そんな中、穀物を購入したりするためにはその金銀は思わずの助けになったことでしょう。決して、金持ちが宝を飾ったり金庫にしまっておくためのものとしての金銀ではないのです。そして多くの家畜やしもべ達も、この後、ネゲブからベテルとアイの間の祭壇を築いたところまで戻りますが、祭壇での礼拝のために動物は必要になりますし、そして定住する異教の隣人達の間での少数派の生活に戻りますから、財産は生活のためには必要な助けになることでしょう。そのように神は、罪の結果として、突如としてエジプトを出て砂漠の道を戻ることになった罪深いアブラムではあるのですが、そのように神の前に恐れへりくだり悔い改めるアブラムを、神は罪深いからと路頭に迷わせるようなことはしない、決して悪いようにはしない、むしろ、この先々、様々なことに直面することを全てご存知の上で、神は必ず役に立つ必要になるものとして、多くの家畜や、しもべ達、そして金銀を与えてくださっているということなのです。神はそのように私たちにも必要を本当にご存知の上で、それが人の目に多かろうが少なかろうが、必要なものを備え与えてくださっているしこれからも与えてくださる、だからイエスの言われるとおり、明日のことを心配する必要はない、その恵みをここから教えられます。

3.「富と律法の問題:律法と福音の混同」

A.「金銀に富むは問題か?財産を売って貧しい人と言う新しい律法」
 それゆえにこのところから教えられることがもう一つあります。それは金銀に富むということはどうなのかという問題に対するものです。なぜならキリスト教の歴史には、禁欲思想が何度も登場し、アッシジのフランシスコなどは、イエスの「財産を全て売って貧しい人に与えなさい」の言葉を実践して、財産を売り貧しい人へ与え、あえて貧困の生活をし施しを求めて、その受けた施しは貧しい人へ与えたりしていました。その生活に賛同してフランシスコについて行く者も沢山いました。そのことはもちろん福音から促されて喜んで平安のうちにするなら大変素晴らしいものです。しかしフランシスコの支持者も、多くの禁欲主義も、多くは、それを新しい律法にしてしまいます。ルターは創世記講解でそのことに触れて説明しており、フランシスコは決して悪い人間ではなかったけれども、聖職者として、自分に従うものは、その「福音」に従って生きるべきであるという、律法、あるいはルールを築いてしまい、その彼のいう「福音」というのは、全ての財産を売り貧しい人へ与えることが、福音の最も完全なルールであるとして、それに従わなければならない、と主張してしまったのでした。それはまさしく律法と福音の混同であり、福音が見事に律法に化けてしまって、律法があたかも福音であるかのように教えられてしまっているのです。もちろんです。イエスは確かに「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」ということを言ってはいます。しかし聖書の言葉を理解する時に、その一節だけのつまみ食いは正しく理解できないし、人間に都合のいい間違った解釈や利用になって間違ったメッセージにもなってしまいます。事実、フランシスのみならず、この一文だけ捉え、これを福音の核心として新しい律法に何度でもなってきているのは残念な事実でもあります。

B,「財産を全て売って貧しい人へ」の文脈でイエスが伝えること」ルカ18:18〜27
 イエスは、この言葉をどのような文脈で語っているかというと、あるユダヤ人役人が、イエスを尊い先生と呼んで、「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカ18章18節)と尋ねたところから始まっています。イエス様は彼の心を見抜いていました。イエス様は、そんな彼に福音ではなく律法を伝えます。あなたは十戒をよく知っているでしょうと。彼はそれに対して、十戒は皆、小さい時からずっと守ってきていると言うのです。そんな彼に対して言っているのが「持ち物を全部売って」という言葉をいうのですが、その一文だけではありません。イエス様はこう言っています。
「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」(ルカ18:22〜23)
 このイエスの言葉と文脈が意味することは大事です。その役人は、自分はなんでも守ってきたので、永遠の命を自分のものとして受けることができる確信が欲しくて、イエスに「大丈夫だよ」と言って欲しかったのでしょう。彼の救いの根拠や拠り所は、どこまでも行いであり、行いをしっかり行っていることに確信を持とうともしていますが、行いによって救いの確信や平安が得られないこともこの役人には現れています。彼はキリストに「大丈夫だ」と言って欲しいのです。しかしイエスは、彼がそのように自分の行いによって救いを確かにしようとし、自分は十戒を守っているし大丈夫だという、その心、それは人の前では立派だったかもしれませんが、神の前ではどうでしょう。自分の行いのよさに隠れて、自分の罪深さを忘れてしまって、行いで、キリストの承認をもらおうとする高ぶりがあることを、イエスは見抜いていたからこそのこの言葉なのです。彼が罪に打ちひしがれていたなら、イエスは彼に福音を語りましたが、そんな彼なので律法を示します。まず十戒のことをイエスは言いますが、それに対して役人が全て守っていますということも知っていて、そしてこの言葉をいうのです。
「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」22節
「欠けたところがあります」と、完全ではないことを示します。そして完全というのが、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」そのことであることをイエスは伝えているのです。そう、イエスは、彼が神の前には、自分の行いを掲げても決して完全ではない、欠けたところが必ずあり、罪深い一人であることを示し、そのことを忘れていることを示そうとする、その目的でこの言葉を語っているのがわかるのです。マルコの福音書の並行箇所ではイエスは「慈しんで」言ったとも書かれています。

C,「最後にイエスが言わんとした核心」
 そして、このエピソードはさらに続いてオチがあります。役人は大変な金持ちだったので、悲しんで帰って言った。と、ありますが、金持ちには財産をすべて売るなどできないことでありますし、それは金持ちに限らず、誰でも自分の財産を全て売って施すなどなかなかできないことです。しかしその後こう続いています。
「イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」」ルカ18章24〜27節
 この出来事で、イエスが言いたいことは27節にはっきりとしています。ここで言いたいことは、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」ということだけではない。その自分の罪深さを忘れていた役人に罪深さを示すことだけでもない。あるいは、金持ちは救われるのは難しい、と言うことでもない。まさにラクダが針の穴を通る方が優しいというぐらい、全く不可能な、金持ちの救い、いや金持ちだけではない、まさに「それでは、一体誰が救われることができるでしょう」という、人がその行いでは、誰でも決して完全であれないし、決して達成できない、獲得できない、誰も救われ得ないことを、「神にはできる」と伝えることが、この出来事、この言葉の最大の目的、核心部分です。神の前に完全であることも、救いも、神の前に人は何もできない。ラクダが針の穴を通る、そんなことをあり得ないのですが、それの方がまだ簡単だというほどに不可能であるとイエスは断言しているのですが、イエスは、自分がそれをするために、神は、自分を遣わした、自分はそれをできる、そのためにきた、と言いたいのです。まさにここにも、イエスはしっかりと十字架を見てて、ご自身がなしご自身が与えることを、福音として伝えていることがわかってくるのです。ですから、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」も非常に大事なことで、まさに欠けたところというぐらい崇高な律法ではあるでしょう。しかしそれは十戒を全て守っていると自負する人さえできないことです。アッシジのフランシスコが確かに実践したのは素晴らしいことであり、それが福音から信仰から出たことであれば神の前にも素晴らしいことでしょう。しかし彼ではなくてもクリスチャンでなくても、同じような禁欲主義は哲学や倫理学としてあり、多くの人が律法として唱え、律法として実践もしてきています。ですからフランシスコの行いや運動がただ律法から出ており、そして律法と福音を混同し、それを福音の核心であるかのように律法を教えるのであれば、「人の前」では立派で益することは間違いないのですが、それは「神の前」に喜ばれるものではなく、ルターのいうとおり、一つの優れた哲学者を超えるものではないのです。 
 私たちにとって救いの核心は、どこまでも、私たちにはできないことを神がしてくださった。イエス・キリストがこの十字架と復活で、どんなに罪深い者でも赦してくださる。ラクダが針の穴を通るよりも難しいことをイエスは私にもして下さった。その福音は、イエスがご自身の持てるもの、そのいのちをもって支払い、私たちを買い戻して下さった。全財産を売って貧しいものに施して下さったは、イエスこそが私たちにもして下さったことだ、さらにはその福音には、私たちにもできないことをさせる力もある。そのようにどこまでも核心は、私たちの行いや功績や、何をしたか、何をもっているかではなく、イエス・キリストとその十字架と復活にこそあるのです。

D,「神が与え備えてくださったものを感謝し喜ぼう」
 だからこそですが、財産に富むことも、それは善悪ではない。神が許して、その人に与えたものであるのですから、感謝して喜べばいいのです。金銀や財産に罪はありません。罪があるのは、人であり、それをどう捉え、それゆえにどう用いるかの人によります。ですから財産や金銀を人の功績にしてしまう時、その人は神を見えなくなります。自分が頑張ったから、何かをしたら富んでいる、それゆえの金銀だと思えば、神への感謝もそれが今後の誰かの必要のためにあるのだと思わなくなります。そうではありません。アブラムに与えれた財産、金銀は、神が必要をご存知の上で与えて下さったものです。私たちも同じです。与えられているものは、すべて神からのものであり、神からの私たちのための必要です。与えられていない、足りない、少ないと思える状況でも、それは頑張らなかったとか、何か落ち度があるからとかではない、人の目にはいくらでも不足を感じ覚えるものです。しかし日々の必要は、神の許しで与えられ、今あるものは、多かろうが少なかろうが、神が日ごとに十分に与えて下さっているものであり、それはこれからも同じなのです。人の行いと持てるものを結びつけるときに、神を見失い、人の功績しか見なくなりますが、神を見る時、神の恵みと真実さを見る時、その日毎、恵みは十分に気づかされます。その時に絶えず平安であり、絶えず感謝、喜び、賛美が、福音と信仰から湧き上がってくるのです。今日もイエスは、その核心である、福音の宣言をして下さっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。今日も十分な日毎の恵みと新しい救いの道に感謝して、平安のうちに、ここから遣わされて行きましょう。





<創世記 13章1〜2節>
1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての
   所有物と、ロトもいっしょであった。
2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。