2021年6月27日


「福音から生まれる信仰による真の福音宣教」
創世記12章5節

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1.「前回」
 前回は、神が、アブラムに語った、「あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言った言葉にしたがって、アブラムが出て行ったところを見てきました。そこから「神の前」にあって本当の「従う」ということはどのようなことなのかを見てきました。アブラムはそれまで偶像崇拝の家で過ごしていましたが、そんなアブラムのところに神が、神の方から現れてくださり、ご自身を示し、ご自身が天地創造のまことの神であることをアブラムに教えてくださいました。それによってアブラムにまことの神に立ち返る悔い改めが与えられ信じる信仰が与えられたのですが、そんな彼に神は「あなたを大いなる国民とする、祝福する。地上の全ての民族は、あなたによって祝福HPppuされる」と約束したのが1〜3節までの神の約束であったのですが、アブラムはその声に応えて出て行った、つまり「従った」のです。その「服従」は、そのように、神の一方的な恵みによって、悔い改めと信仰が与えられ、神がまず神の方からその祝福を約束し与えってくださった、その福音への応答として、福音に促されて出て行った、服従したということでした。そのように、アブラムの信仰の子孫であるクリスチャンにとっての服従もそれと同じであり、それは人間が考えるような、まず私たちが自分たちの力で律法を行なうから、恵みや祝福や約束を受けるという、律法で派遣されるようなことではなく、どこまでも福音からこそ服従が始まるのであり、神の恵みの福音を喜び、そこに平安があって出て行くことができ、良い行いができるという、福音を動機として福音によって派遣されるのが、真の服従、従うということなんだと、学んだのでした。

2.「妻サライと甥のロトと」
 さて、そのようにハランの父の家を出るアブラムですが、アブラム一人ではありませんでした。
「アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」5節
 4節でも「ロトと一緒に」とありました。神からのアブラムへの約束は、確かに「あなたを」とアブラムに対するものでしたが、しかし、「あなたを祝福するものを祝福し」ともありましたし、「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」ともありました。そのように神がアブラムに「あなたを」と言われたのは、アブラムだけに限ったことを言っているのではなく、むしろアブラムを通して、家族が、子孫が、そして、すべての民族が神の祝福に与ることを約束した言葉であったのです。それが妻サライであり甥のロトでした。甥のロトは、父ハランをなくし、叔父であるアブラムを慕っていたかもしれませんが、ロトはアラブムと一緒に行くように命じられたわけではなかったことでしょう。もちろん、アブラムがロトのことを案じて誘ったということはあるのかもしれませんが、詳しくは書かれてはいません。しかしロトも一緒に行くことになりました。これは実に幸いな事実です。アブラムもハランという都市にある父テラの家で過ごし、このハランの町は月の神シンの礼拝の中心地であり、テラは偶像崇拝者でした。アブラムも天地創造の神の方から現れてくださるまでは、偶像崇拝者であったわけですが、ロトも当然そうだったのです。ですからロトがここで一緒に行くというのは、アブラムの妻サライ、そしてもう一人の改宗者がいたことを意味しています。ロトです。ロトは、この後のソドムの出来事でもわかるように、彼にも天地創造のまことの神を信じる信仰がありました。そのようにロトも、かつては偶像崇拝者であったのですが、アブラムが取り次ぎ、教えた真理、まことの神さまの教えを聞き、信じた一人であり、先週のアブラムと同じように、信仰にあって従った一人であるということなのです。このようにアブラムを通して、祝福は、アブラム以外のものに広がって行くということは真実なのです。ですから、ここに全ての財産とありますが、それは金銀財宝ということではなく、当時の財産は主に家畜や召使いや奴隷などを指していますので、大勢の人がアブラムに使える僕や奴隷として伴ったのですが、実に、彼らもアブラムのゆえにアブラムの取りつぐ祝福に与ることができる人々であったといえるでしょう。

3.「福音宣教の本質:アブラムを通して祝福が:クリスチャンを通して祝福が」
 ここから教えられるのです。パウロの言葉からも見てきて、何度も繰り返されてきたように、アブラムの信仰のゆえに祝福がその子孫や民族に及ぶと言うのは、信仰の人々こそ、アブラムの子孫であり、祝福の相続人であることを示していました。つまり私たちクリスチャンこそ、その子孫である相続人であり、その祝福に与っているという恵みを学んできました。そして今日のところ、その信仰の人を通して、祝福が取り次がれていくように、私たち一人一人もアブラムと同じように、恵みと祝福取り継ぐ信仰者であり、私たちを通しても、サライやロトと同じように、私たちの家族や、子供や子孫、すべての民族に祝福は取り次がれ、彼らもその祝福を受けることができると素晴らしさがあるのです。皆さん。それが言うまでもなく、宣教であり、証人であると言うことの意味であり、それは、このアブラムの時からも全く変わらないと言うことです。

A,「律法ではなく福音から福音宣教は生じる」
 皆さん。ここに福音の宣教の本質ということが見えてきます。それは前回の服従と同じです。アブラムもまさにその神の恵みと祝福の約束の幸いをロトや妻サライに伝えたからこそ、その福音とそこに働く聖霊が、信仰を彼らに生み、この曖昧ではっきりしない不安な指し示す地への旅路を、希望に溢れるものとして、妻サライもロトも立ち上がらせ出発させたことでしょう。そう、立たせ、従わせることも福音から生まれるものであるなら、その福音の証しも伝えることも、取り継ぐことも、当然ですが、律法やその動機からではなく、福音から生まれるものでしょう。律法から決してそのような祝福の取り次ぎも、神の恵みを証しすることも生まれません。そうでしょう。これもわかりやすいことではないでしょうか。「福音」宣教と言いながら、「律法」が動機ということがありうるのでしょうか?「福音の」宣教ですよね?そうであるなら、福音の素晴らしさを知り経験しそこに立って生きてなくてどうして福音を伝えられるのですか?福音の素晴らしとその喜びに満たされ促されるから口から出てくるものが、真実な言葉です。律法を動機としていながら、その口から出てくる福音に真実があるでしょうか?そのように、動機が違っていれば、それが口から出てくる言葉や情報としては同じであっても、真実な言葉ではないでしょう。そう、律法の宣教であるというなら、律法が動機でも構いませんが、福音の宣教というのなら、福音が動機でなければ矛盾するでしょう。福音の素晴らしさ。自分が本当に日々罪深いものであるのに、そんな自分のために、イエスが十字架にかかって死んでくださったことにより、私の罪は今日も赦される。そしてイエスはよみがえり、その新しいいのちを、今日も与えてくださるかこそ、今日も新しい、今日も平安のうちに出て行くことができる。この福音の素晴らしさ、福音のいのち、福音の力を、福音から経験させられ、本当に生かされている、本当にいつも安心で、喜びと自由があると本当に言えるからこそ、それは真実な宣教のことば、キリストの証人になるでしょう。福音の素晴らしさを知りそこに生かされていなければ、実は福音の宣教も証人も成り立たず偽りになるのです。今既に、祝福されているということを実感していなければ、祝福も取り次ぐことは決してできないですし、つまり、これから頑張ったら祝福を受けるという信仰であるなら、実は、福音の祝福は伝えることができず、それは福音ではなくどこまでも律法を伝えることになっているのです。

B,「福音の証しは、イエスの与える水(福音)を飲むからこそ」
 ですから福音宣教は服従と同様、極めて大事なことですが、しかし、福音宣教も「私たちが神のためにしなければいけない」「律法」と「神がしてくださり、これからもしてくださる」「福音」の区別でいうなら、決して律法、「私たちが神のためにしなければいけないこと」ではないということです。むしろ、それは、福音の素晴らしさの証しが福音宣教なのですから、それは福音であり、福音の力そのものの現れであるということなのです。ですから、教会でも家庭でも教団などのどんな組織でもです、いくら福音宣教や伝道の旗印を掲げていても、律法が動機で「宣教のため」だからと、ただ裁き合いや、責任転嫁や、犯人探し、悪口や中傷が溢れているのは、実は、神の前では福音宣教ではないし、そもそも矛盾するということです。だからこそ神の前で、宣教や証人になることを本当に大事なことにしたい、そのように祈るのであるなら、それは、いつでも、私たち一人一人が、誰か人ではなく、あの人がこの人がではなく、自分自身が「神の前」にあることを知り、そこに自分の罪深さを知らされ、日々、悔い改めに導かれること、そして、日々、そこに輝く、イエス様の十字架と復活の福音、十字架の言葉に聞き、その招き、その差し出されている恵みをそのまま受け取ることから始まる、と言うのはそのことです。福音の素晴らしさに生き経験し知ることなくして、その口から溢れて出きて、全ての人にいのちをもたらす泉になることは決してありません。宣教にとって大事なことは、福音の素晴らしさに生き経験し知ることに尽きるのです。知るからこそ、福音がその人から溢れでるのです。そうでしょう。イエスは言っているではありませんか。
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13〜14節
 「わたしが与える水を飲むものは誰でも」とあるでしょう。イエスは「わたしが与える水を」と言っているのです。つまりそれはイエスからしかきません。そのイエスだけが与えることができる水を飲んで、乾くことのない経験をするから、泉は枯れることなく湧き出て、永遠のいのちへと湧き出るのではありませんか。心が常に律法で重荷を負わされ、確信も平安もなく、飢え渇き、矛先が誰かに向いていて、どうして、その乾くことがない水が湧き出るのでしょうか?あり得ないのです。

C,「「聞くこと」に始まる:どうしても必要な一つのこと。」
 そしてその福音の素晴らしさを知るのは、どこまでもまずイエスの言葉を聞くことにあります。イエス様は言っています。ルカの福音書10章、未信者ではなく、すでに信仰の持ってイエスのことを慕って付いてきているマルタとマリヤへ言っている言葉です。姉のマルタはイエスのためにと、イエスをもてなすことに精一杯でした。しかし何もしないでただイエスの言葉を聞いているマリヤにマルタは腹をたてるだけではなく、それに何も言わないイエス様にまで文句を言います。裁きと責任転嫁と非難です。しかしイエスは、そんなマルタにこう言っているでしょう。未信者ではない、クリスチャンであるマルタに言った言葉です。ルカ10章39節から読みますが、
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」ルカ10章39〜42節
 イエスが言っていることがわかるでしょう。未信者ではありません。すでに信じているクリスチャンであるマルタに言っているのです。どうしても必要なことはわずかではない、一つだけだと。それはマリヤが選んだこと。イエスのみ言葉を聞いていたことだと。ですから、信じてクリスチャンになるまでは、マリヤのようにみ言葉に聞いているだけでいい。しかしクリスチャンになったら、マルタのように忙しくなくイエスに仕えもてなすことが敬虔だ、大事な必要なことだ。とはイエスは言っていません。むしろイエスは、別のところでは、神は人に仕えられる必要はなく、むしろイエスが仕えるために来たとも言っています。そしてここでも、すでに信じているマリヤもマルタも、大事な必要なことは一つだけだと言います。それは、イエスのみ言葉に聞くことだと。

D,「福音の力は、物足りないのか?」
 皆さん、それは、弱々しいですか。不十分ですか?物足りないですか?マリヤはずるいですか?じゃあ、良い行いや奉仕はどうなるんだ?そう言いますか?いや、全然、弱々しくないでしょう。なぜなら、イエスのみ言葉こそ力だからでしょう。アブラムが出会ったときから、いや天地創造の始めから全く変わらない、神の言葉こそ先にある力であることが、聖書が伝えることであり、私たちが信ずることでしょう。そして、先週の「服従」でも学びました。そのイエスの言葉を聞き、そのイエスの福音に泉を溢れさせる力があるのですから、イエスの言葉に聞くからこそ、そこからの良い行いも服従も、そして宣教も隣人愛も、福音からこそ真実なイエスのものが、イエスの力が溢れでて行く本物と言えるでしょう。それを信じるのがクリスチャンではないのでしょうか?マリヤのように、イエスのみ言葉に聞くことが必要な一つのことだは、決して弱々しくも不十分でもあり得ないのです。イエスの言葉に力があり、イエスの言葉、律法によって悔い改めさせられ、そこに十字架と復活の福音に罪の赦しと新しいいのちが与えらるからこそ、良い行いへ、隣人愛へ、宣教へ、イエスが与える水の泉が溢れ出るでしょう。それこそ、確かに人の前には弱々しく、愚かで、躓きであっても、神の前にある私たちにとっては、何より力強いではありませんか。ですから、ルターが「信仰には行いが伴う」というのもまさにこのことです。それは、そのように福音を信じる信仰が与えられ、福音を聞くものには、良い行い、隣人愛、証しが、溢れ出ずにはいられないということだからです。決して律法で私たちがしなければいけないこととしての行いを、聖書は意味していないです。それはイエスが与える水を飲むときに、泉のように私たちから湧き出るとある通りなのです。

4.「終わりに」
 宣教は感謝な恵みです。その恵みに与っている私たち。私たちは主イエス様の希望、宣教のための証人なのですが、そのための大事な大事な必要な一つこと。それは、アブラムも聞いた、そして妻サライも、甥のロトもアブラムから聞いた、天地創造の神のみ言葉、イエスのみ言葉に聞くことなのです。聞くことで、イエス様が永遠の命を与える泉を湧き上がらせ、隣人へ、全ての民族へ流れさせるのです。幸いな恵みです。今日もイエスは十字架の言葉を私たちに語ってくださり、福音の言葉で私たちを遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ安心して、ここから遣わされていきましょう。




<創世記 12章5節>
5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた
 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。