2021年3月28日


「主は、そのなだめのかおりをかがれ」
創世記 8章20〜22節
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1.「前回まで」

 神が言われた通りに世界的な大洪水が起こってから150日後、水は減り始めました。雨も既に止み、次第に天窓から山々の頂が見えたりもしました。そして放った鳩がオリーブの若葉をくわえて帰って来て、もう明らかに乾いた地の草木が芽を出し初めていて、それは地上が再生し始めていることを示す明確な目に見える証拠であったのですが、しかしノアはその天窓からさえも外に出ようとはしませんでした。それから七日後にもう一度、鳩を放った時には鳩は戻って来ませんでした。鳩にとって生きるに適切な環境が地上に見つかったからでありオリーブの若葉以上に明確な証拠でした。一年以上も天窓しかない箱舟の中に閉じ込められ、そして目の前に地は乾き新しい命が芽吹いている証拠まであって、人間的な判断、決断、好みのままに選択して行動していこうとするなら(6:2)、真っ先に箱舟から飛び出し新しい空気を吸い、新しい生活に一歩踏み出そうとなるところですが、しかしそれでもノアは箱舟から出ませんでした。それはノアが臆病であったとか、状況をよく判断していて慎重であったということではありませんでした。ノアは神の声、言葉、指示を待っていたのでした。「箱舟を出なさい」というその言葉こそを、ノアはじっと待っていたのでした。そして鳩が帰らなかった日から、さらに1ヶ月以上立ってからです。神はノアに語りかけられました。「箱舟から出なさい」と。そこでノアは箱舟から出たのでした。ノアについては、新約聖書ヘブル人への手紙11章7節から引用し、ノアの正しさは、その神を恐れ畏むその信仰のゆえであったと見て来ました。ノアは神でも聖人でもなく、アダムとエバの子孫であり一人の罪人でした。しかし神の言葉を決して捨てず、神と神の言葉に求めたからこそ、聖霊が離れることなく彼を支え助けて来たのです。そのように彼が、自分の好みとか価値観とか願望とか期待とか、力や才能により頼み基準として行動するのではなく、罪深い一人であってもどこまでも神と神の言葉に求め、聞く、より頼んだ、そこに神を恐れ畏むということがあるのだということを教えられたのでした。


2.「ノアは祭壇を築き」

「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」20節


A,「父祖から受け継がれてきた礼拝」

 ノアは、まず祭壇を築き、そして全焼のいけにえをささげて礼拝をしたのでした。その礼拝は、ノアが自ら思い立って始めたことではありませんでした。見てきましたように彼の父祖であるアダムが、セツが生まれた頃、主の御名において祈ることを始めたとありました(4:26)。もちろんその前にもカインとアベルが神への捧げ物をする記述があり、堕落後のアダムとエバは神への捧げ物をしていたことはあったでしょうが、堕落後に、主の御名によって祈ることは、セツが生まれてからでした。それはアダムとエバが、カインの出来事に、自分達の罪の大きな影響が子にも及んでいることを悟らされ、自分の罪深さを改めて深く悔い改めさせらることから生まれたものであり、それは創造の始めにあった、神に全てを明け渡し、神に求める神様との関係の一つの回復でもありました。ですからノアの礼拝は、決して洪水の後、新しく生まれた行為ではなく、父祖アダムが息子セツと主の御名によって祈ることを始めた時から、その子にと代々、父祖たちからその子へと受け継がれて来た悔い改めと信仰の行為であり、そしてアダムが自分の罪の重大さと悔い改めざるを得ない存在であるにもかかわらずに、神は3章15節の約束を決して忘れず憐れんでくださっているからこそ、カインとアベルを失い絶望しているアダムとエバにセツを与えてくださった、その恵みへの応答のゆえでもありました。アダムはそのように「神のようになれる」の高ぶりと自己中心の思いで自ら神に背を向けて行き、自らでは真の礼拝者には回復されなかったのですが、神の与えた痛みと憐れみ、律法と福音によって、再び礼拝へと回復されたのでした。ですからこのノアの礼拝、代々受け継がれて来た神への礼拝は、罪深い人間が思い立ち、創作し、編み出した、自ら神への償い行為、貢献ではなく、神が、それさえできない、忘れているような人間に与えた恵みであり本来の関係の回復なのです。ノアはそのように父や父祖たちから受け継いだように、家長が神へと取り次ぐ祭司として全焼のいけにえの礼拝を捧げたのでした。


B,「洪水はノアに改めて罪を悟らせた」

 しかしここで大事なのは、神への恐れに他なりません。こうあります

「主は、そのなだめのかおりをかがれ」21節

 と。ノアは確かに洪水から救われました。しかしその洪水の出来事は、神がノアに洪水前から伝えていたように、自然の成り行きではなく、人類が神の言葉を捨て自分勝手に生きるようになり、信仰が最後のノアの家族が残される程に人々には無くなってしまい、悪が蔓延することになった、そのことへの神の怒りのゆえでした。そして神が告げた通りに洪水が起こり、ノアとその家族、そして一つがいのあらゆる種の動物以外は、その通りに滅んでしまいました。ここに「なだめのかおり」とあるとおり、その出来事は、ノアに、人間の神に対する罪、アダムとエバからずっと根付いている罪、自分にもある罪がどれだけ神の前に恐ろしいものであるかを何よりも悟らせたことでしょう。いやそれはただ人ごとではない、船から降りて真っ先にそのなだめのための生贄をささげたのは、他に人類は彼ら以外にはいないわけですから、自分と家族のためにささげているということです。つまりこの洪水の出来事、神がなさったこの裁きのゆえに、彼は自分の罪深さや家族の罪深さをまざまざと知らされ気づかざるを得ず、そしてノアはこの洪水の最中、神への恐れを抱かずにはいられなかったことを表しているのです。ですから彼は、箱舟に入る前も入ってからも、人間がとかく敬虔だと思い描き賞賛するような完全な聖人として何の疑いも葛藤も心配も罪深い思いもなく罪も侵さず完璧な信仰であったということではなかったことでしょう。自分の行いのみならず、何よりその心を見るなら、神の前に恐れざるを得ない。裁きが降ってもおかしくない。そのような箱舟の日々でもあったのです。だからこそ船から降りて、なだめのための生贄をささげずにはいられなかったのです。


3.「主は、そのなだめのかおりをかがれ」

 しかし、神は、そのような罪深いものの、悔いた心を、神は決して蔑んだりは決してなされないことが、この21節の言葉です。


A,「「人の心の思い計ることは初めから悪である」と知っていても」

 まず前述のように「主は、そのなだめのかおりをかがれ」とありました。主は、そのなだめのかおりをかがれました。それは、神は受け入れてくださったということです。かおりそのもの、生贄そのものではありません。そのノアの神を恐れ、自分の罪深さを神の前に認め、悔いた砕かれた心こそを神は受け入れられたのでした。そして主は「主は心の中でこう仰せられた」とあるとおり、ノアに直接にではなく心の中で自らにいうのです。

「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」

 と。これは、人の思い計ることは常に悪だと言って、洪水を起こした神と何か矛盾するように見えるかもしれません。そしてその時、神は人類を創造をしたことを悔やみ、残念に思い、後悔し、思いを変えたかのようなことがありましたが、ここでも再び、自分の洪水を後悔しているかのようであり、思いを変えているかのように人の目には映ることでしょう。神は矛盾していると。しかしこれはノアのなだめのささげ物のかおりをかがれた直後であり、彼の悔いた砕かれた心のささげ物があったからこそ言っていることであることに注意すべきです。そしてこの言葉は、神がその心で述べていることであり、ノアはその神の言葉を知らず、全ての人類について述べている思い、メッセージとして、モーセが聖霊によって知らされ書いているということです。そしてそこにはやはり神の変わらない人間の現実についての見方が現れています。

「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」

と。神は、その人間の罪深さ、この洪水があっても、洪水のさなかでも、その思い計ることはどこまでも罪深い、はじめからどこまでも悪である、そのことを知っています。しかもその時にはノアとその家族しかいませんから、彼らを指して神は言っていますし、そしてこの後に、ノアの家族や子孫が行いにおいてもその心においても、どのような罪を犯すかまで全て知っていることを示しているでしょう。しかし同時に罪人であるそのノアが、この洪水の出来事から神への恐れを改めて悟り、自らの罪を悔い、砕かれた思いで、家族とともに「なだめの」生贄を捧げている。そう、神はその人間の罪深さ、思い計ることがどこまでも悪であることを知っていながらも、どんなに罪深くとも、そのように神のなさったことから学び、神を恐れ、罪を悔い、砕かれるものに対しては、決して蔑んだりはしない、見捨てたりしない、滅びしたりしない、神は裁きの後に、裁きでは決して終わらない、どこまでも神の憐れみは尽きない。神を恐れる者を神は憐れんでくださるのです。


B,「人の罪ゆえに地を呪うことを、神はしない」

 そして、実際的にこのことは事実となります。そのような目に見える洪水とか天変地異とかでこの地、生き物の命を絶つような神の裁きの啓示はもはやないというのです。ここでは「この地」とあり「全ての生き物」とあり、22節は、「22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」ともあり、この目に見える地上の自然の営みのことを指していることがわかります。人はどこまでも罪深く、思い計ることは初めから悪であるという現実は、このノアの家族にあっても変わらず、その歴史はこの後、繰り返されて行きます。しかしその人間の変わらない罪を理由に、神の介入で地上の自然や動植物が損なわれることはないと神は約束します。しかし皮肉なことに神はしなくても、人間はその罪ゆえに、この地上を汚染させ、自然や動植物に悪い影響を与え、種まきと刈り入れは、人が正しく被造物を治めていればいつでも季節ごとに止むことがないのですが、それが人間の自然へのエゴによって、そのようになっていないといことが絶え間なく起こっています。それは神がしたことではなく、人間がしていることであり、人間の正義で「神はしない」と言ったことをしているのですから、神の21節の人間の思い計ることについての言葉はまさに核心をついていますし、人類の先までも見通していた神の大きな皮肉もあると思われます。


C,「神は、人の罪のために、再び洪水ではなく、約束の彼を」

 そして何より、この人の罪に対して、神はこのような洪水でも箱舟でもなく、変わることのない約束を実現されます。それは「エバの子孫の彼」、イエス・キリストを世に与えるということ、そしてその「人間の罪のゆえに」、「再び」洪水でも箱舟でもなく、イエス・キリストをその罪の贖いとして、十字架にかけて殺させ、生贄とし、よみがえらせます。その十字架に、真の永遠の「なだめのかおり」は神によってかがれ、その悔いた心、砕かれた心が完全に赦されるのです。罪深い者が、そのイエスの十字架のゆえに罪赦されるというこの良い知らせ。皆さん。誰でも神の前に罪深いものです。認めると認めざるとに関わらず、神の前には全ては知られています。「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と。隠し通すことも無視することも決してきません。しかしどんなに罪深くとも、誰でも、神の前に自分の罪深さを認め悔いる心には、神はそのイエスの十字架という「なだめのかおり」をかがれるからこそ、その十字架のゆえに「あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい」と言って遣わしてくださるのです。


4.「神が律法と福音の言葉で、何度でも仕え遣わしてくださる:礼拝」

 その恵みを受ける場として、この礼拝は今日もあるのです。今日のメッセージには礼拝の原点があります。礼拝は、神がその律法と福音の言葉で、私たちに仕えてくださり、罪の赦しと平安のうちに遣わしてくださるところだと何度も伝えてきましたが、それが今日の箇所にあります。


A,「律法によって「神の前」の現実を気づかせる」

 礼拝には律法による、裁きが必要です。神は私達に、私達がどこまで「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」という、人の前だけでなく、神の前にもどこまでも罪深いという現実をまず明らかにします。アダムの礼拝にもノアの礼拝にもそれが必ずあるでしょう。罪を刺し通されそこに痛みがあるのです。ですから「罪はないんだ。罪なんてそんなに語るものではない、あまり罪を語ると、人が敬遠するから語るな」というのは、どんなに崇高な目的やバラ色のビジョンがあっても、聖書からも神の礼拝の御旨からも外れていますし、み言葉に対して忠実とは言えません。律法は語らなければいけませんし、私達は日々、自分が神の前に罪深いものであることを示され、刺し通され、悔い改めなければいけません。神は私達を責めるのですが、しかし礼拝の目的はそこで終わりではありません。


B,「福音は、何度でも、罪に悔いた心にこそ真の平安をもたらす」

 そのように神の前の罪深い滅びゆく自分の現実がわかるからこそ、神は滅びゆく罪人に、洪水ではなくイエスを遣わされ、イエス・キリストによる、私達の罪のための死、贖い、十字架の死と復活が、私達のためであり、罪を赦すためであり、そして安心して行きなさいと、言って平安のうちに遣わすためであることが、はっきりとわかり確信できるのです。罪の悔い改めなくしてその神の真の恵みも愛も決してわかりません。礼拝はそのためなのです。そこに律法と福音を用いての、神の本当の私たちへのサービス、奉仕、仕えてくださり、派遣してくださるということがあるのです。それでも私達は何度でも罪を犯してしまうものです。しかし神は今から遣わすノアとその家族がどれだけ罪深いかを知っているでしょう。もちろんイエスが言うように、私達は「もう、罪を犯してはいけません」し、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神と隣人を愛さな」ければいけません。しかしその律法を果たせないのが私達の罪深さであり、私達は繰り返してしまうし、愛することができない現実もあります。しかしだからこそ、神は毎週礼拝とみ言葉と聖餐を準備しているし、私達は、毎週いつでも、この礼拝に招かれているのです。律法によって何度でも罪を悔い改め、福音によって何度でも罪赦され、イエスだけが与えることができ、世が与えることのできない平安を受け、安心して遣わされて行くようにです。何度でも。その神からの「福音と平安こそ動機とし」、そこに働く「聖霊の力によって」日々、何度でも立たせられ養われつつ罪を犯さないようにし隣人を愛して行くことができるようにと。だからこそ何度でも受けること、何度でも求めること、そしてまた受けることが必要なのです。それが礼拝の意味であり、そのことは何より今日のところから教えられることなのです。人は誰でもこの礼拝に招かれています。誰でも悔い改めへ、そして、福音へ、信仰へ招かれています。悔い改め、そして、イエスが与えてくださるものをぜひ受けて、安心して、ここから出て行きましょう。






<創世記 8章20〜22節>

20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから

  幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して

  再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪で

  あるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼす

  ことはすまい。

22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはな

  い。」