2021年2月21日


「人が地上にふえ始め」
創世記 6章1〜3節
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1.「神の子ら。人の娘たち」
 6章のはじめは、様々な解釈があるところでもありますが、私たちルーテル教会がどう理解するかに沿って行くためにも、Lutheran Study Bibileを参考にしながら見てきます。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」1〜2節
 ここで、これまでの「息子、娘達」という書き方ではなく「娘達」と特定されているのは、2節以降のこととの関わりの上でその様な書き方がされています。2節「神の子ら」とありますが、ある人々は、人間とは違う神由来の存在がいたのであり、ヨブ記38章7節の「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」という言葉に基づいて、それは天使を表しているのだと理解する人々もいるようです。しかしそれだとイエスの言葉と矛盾することになります。マタイ22章30節でイエスは天使についてこのように言っています。
「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
 イエスは、やがてくる死者の復活の時には、人は「めとることも、嫁ぐこともない」と言っています。つまりもはや結婚をしたり、誰かを夫としたり妻としたりすることはないということですが、それは「天の御使いたちのよう」だと言っているのです。つまり天の御使いは妻をめとったりしないのです。ですからこの6章の「神の子」が天の御使いであるとするなら全く矛盾することになります。ヨハネ1章からもわかるように、イエスは、創造のはじめからおられ、万物はこの方によって創造されたとある通りに、イエスが語られたのはもちろん新約の時代でありそれがこの創世記6章からははるか未来ではあっても、それは創造のはじめからおられたイエスが天の御使いはどのようなものかということをご存知の上で述べているのですから、やはりここでの「神の子ら」は天使ではあり得ないのです。さらにいえば、モーセは創世記2章18節以下で、神が人のために相応しいパートナーを探した時に、最初は違う種類の動物を連れてきましたが、ふさわしくなかったとして、同じ人間を改めて創造しアダムに与えたでしょう。神はその種類に従って生き物を創造しているように、種類ということは神にとっては大事なことでした。それはこの後、種類に従って、しかも種類によって増えて行くことを想定してオスとメスで、箱舟に動物たちが集められるところにも現れています。ですので神に仕え、神の言葉を伝えるメッセンジャーである御使いが違う種類の人と結婚するということはあり得ないのです。

2.「セツの家系とカインの家系」
 では、「神の子たち」は何を指しているのでしょうか?それは「神を信じる人々」、そして、それは、神が「エバの子孫の彼」が悪魔の頭を砕くと約束した、その彼につながる家系である、セツの家系のことを指しているとLutheran Study Bibleでは解説されています。ですので、そうであるなら、2節の「人の娘たち」は、不敬虔で神を信じない人々、実際的にはカインの子孫たちを表しているとも解説されています。事実、この時代には、カインの子孫も著しく増えて広がり、文明、技術的にも大いに発展もしていました。そしてその神のみ言葉や御旨に従わない生き方については、4章の終わりのところでも見たように、レメクのように重婚が普通に行われたり、一族内の私刑による殺人や、暴力による支配が行われていた時代でもありました。神よりも、人の都合や生きやすさが優先され、神のみ旨が忘れ去られているような人々もその時代には沢山いたのでした。モーセは、その神を信じ神の前に生きる人々と、神を信じない、人の前だけで、人が神になったように生きる人々区別するために、「神の子たち」「人の子、または、人の娘」と、このような書き方をしたと思われるのです。

A,「アダムの子孫である神の子たち」
 しかしその「神の子たち」、とはいっても、何度も見てきましたように、当然、神ではありません。アダムとエバの子孫です。つまり罪人の子孫であり、彼らも罪人です。ですからセツの子孫が、「神の子たち」だから、決して完全であるとか、聖人であるとか、いうことでもなかれば、セツの子孫が、全て神を信じる民であったかどうかといえば、そういうことでもなかったことでしょう。そして3節でもありますように、セツの子孫であってもカインの子孫であっても、どちらも皆「人は肉にすぎない」存在です。つまり罪人であったのです。ゆえにセツの子孫であってもいつでも信仰的霊的だったわけではなく、むしろ私たちと同じ肉の人間として、ただ肉の思いに任せて行動し判断してしまうことも当然あったということに他なりません。事実この後、神は人全体の堕落を嘆いた後に、ノアはその御心にかなっていたとある通りに、ノア以外のセツの子孫たち、神の子たちにも、神を信ぜずより頼まないということと悪い行いが顕著に見られたことを物語っています。

B,「問題はどこに?:その中から好きなものを選んで」
 そのことを踏まえてですが、セツの子孫たちは、カインの娘たちと出会う機会、話す機会、交わる機会があったことでしょう。そこで「人の娘たち」つまり「カインの子孫である娘たち」が、「いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」のでした。人には男女に関わらず、異性への好みがあって当然ですし、美しい異性に引かれるということはあることでしょう。しかし結婚というのは、創造の秩序では、二人が互いが一つとなって、ともに愛し合い、協力し、神の祝福を子孫に取り次いで行くために神が結び合わせるものです。ですのでここでは「いかにも美しいのを見て」という言葉も、確かに肉の思いではありますが、問題はそこではなく、むしろ「その中から好きな者を選んで」という事が問題になります。その言葉は、人が、美しく見える人がいても、一歩立ち止まり、神に御心を祈り、求め、神の御旨となさることに委ねるといういうこと、つまり、神の恵みの中での結婚、ということではないことが、「その中から好きな者を選んで」には現れていると言えるでしょう。それは肉の思い、自分の思い、好み、衝動、欲望、がどこまでも中心で、それが判断や行動の基準になっています。それはかつて彼らの始祖であるアダムとエバが、自分の衝動で食べるのによい目に慕わしい木の実を、神は食べてはいけないと行ったのに、その神の言葉を退けてまで、食べた、心の動機と同じになります。この神の子達、セツの子孫が、人の娘たち、カインの子孫達と結婚することが本質的な問題ではない、人を見て美しいと思うことも本質的な問題でもない、自分の肉の思いのみ、あるいはそれを主として、選んだこと、行動したこと、神聖な結婚を勝手にしてしまったこと、その動機、心、信仰が、何よりの問題であったのでした。

C,「神のみ旨に聞くことができるように」
 みなさん、私たちも変わらぬ人間ですから、肉の思いで確かに日々、生きています。それは誰でも例外はありませんし当然のことです。しかし同時に、肉は堕落のとき以来、どこまでも自己保身や自己実現など自己中心性から全く自由ではなく、むしろ神のようになりたいの思いで堕落したわけですから、神も神の言葉もないものとして、自分が神であるかのように自分基準で考えるのが罪の性質そのものでもあります。それは感情もそうです。もちろん理性もあります。しかし理性でさえもそれは霊ではなく肉の作用であり、その自分中心の基準から自由ではない、不完全で、かつ堕落した理性でもあります。そんな私たちに人間として失われている本当に必要なのは、神の言葉であり神の御旨であるということはこの創世記6章の時代から全く変わらないのですから、ここから教えられるのです。肉の営み、そこにある欲求、感情、理性の不完全な営みにおいて、私たちは、罪ゆえに「その中から好きな者を選んで」という行動になるのが普通なのですが、しかし、そんな罪深い者が、今や、ただイエス・キリストのゆえに「神の子供」とされている恵みの存在であり、それは、神のみ言葉を聞くようになり、神の霊である聖霊とともに歩むものになったのですから、何をするにも言うにも、ただ肉の思いで「その中から好きな者を選んで」と進む前に、一歩立ち止まり、神の言葉を聞くことがいかに大事かを教えられます。もちろんそこで、私たち自身には、一歩立ち止まることさえもわからなかったり、気づかなかったり、できなかったりするほどに、肉体は神の前には何もできないものですし、一歩立ち止まって、神の言葉が示されてもそれに自らの力でしたがって行くにも極めて弱いものです。私たちの肉の思いはそれほどに強いものですし、常に「その中から好きな者を選んで」の思いに縛られ、そちらに進んでいこうとするものです。しかしイエスはそんな私たちの堕落の深刻さや、罪や肉の思いへの弱さを知っているからこそ、今や、イエス・キリストによって神の子とされた私たちには、助け主なる聖霊を与えてくださっていますし、そんな私たちだからこそ、イエスは諦めることも見捨てることもなく、忍耐を持って繰り返し繰り返しみ言葉を語ってくださっているでしょう。そしてそんな私たちに、求めるように、求めることはその通りになると信じていい、その信仰こそ神の喜びであると、先週、見てきました。弱く、無力な私たちだからこそ、求めることをやめてはいけないし、何度倒れても、イエスにすがっていい、求めてもいい、助けてと言っていい、そのために、イエスは来られ、十字架にかかって死なれ、よみがえられ、そして、聖霊を与えてくださっているのですから。ぜひどんな時でも、時がよくても悪くても、み言葉に聴き続け、イエス様に祈り求めて行きたいのです。

3.「人は肉にすぎない」
「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。」
 この所からまずわかるのは、堕落後も、聖霊は人に働いており、特に神の子たちと呼ばれるセツの家系には、聖霊は彼らにとどまり支えてきたことがわかります。しかしそのような神の霊の存在にもかかわらずに、人々のそのような肉の思いや行動はどこまでも彼らの弱さと罪深さを継続的に明らかにしてきたのでした。ここに主は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらない」と言い、「人の齢は、120年にしよう」と言います。これは、主の霊はこれまでともにあり、そしてその先祖の高齢と主の霊の何らかの関わりがあったのかもしれません。しかしその生きる年月も、主の霊に支えられてはきたでしょうけれども、ここでは「人は肉にすぎないからだ」という主の思いと理由が書かれています。そこには、永遠の存在である霊と、堕落し罪ゆえに死ぬものとなった肉と、その対照が表れています。つまり「人は肉にすぎない」と言われているのは、この後の4節以下でもわかる通りに、やはり人はどこまでも、それがセツの子孫であっても、罪深いという事実のゆえであるということです。神の霊はいつもあり永遠にあるのに、人はその肉のままに神に背を向けていこうとする。カインの子孫だけでなく、セツの子孫も、つまりこの後見ていくように、ノアを除いては、全ての人類が、神を、神の霊を、無視し、ないものとしていこうとする。アダムとエバが、神のようになりたいという思うで、その食べるのに良い目に慕わしい、しかし神が食べてはいけないと言った木の実を食べ、神の言葉を退けたようにです。そして人は自分中心で、肉の思いのまま、罪を重ね、悔い改めず、そのままにしておくと、人は、ますます、神の前から避けようと隠れようとし、言い訳しようとし、ますます神を退けるものです。アダムとエバと同じようにです。そのようにして、人の側が、その肉のゆえに神の霊を退け「自分の好みのままに選んで」と肉に従って生きようとするがゆえに、神の霊はとどまり得ない、もはや働きようがありません。つまり神がではなく、人の側が神を退けたのです。そしてその神の霊を退けて、肉だけで行きていくことが、齢が短くなり120年以上生きられなくなったことと、何らかの関わりがあると言えるでしょう。事実、確かに日本は平均寿命が上がっているのでしょうか。しかし、世界的にも120年を超える人生は極めて稀です。そして平均寿命が高いのは先進国だけでの話でもあります。そして環境が悪ければ、寿命も生存率も下がりますし、生きることに関わってきます。そして「好みのままに選んで」と言う、自分勝手な、あるいは自国ファーストの肉の思いは、環境の悪化にも影響していますし、そのような自国ファーストの肉の思いによる戦争は、事実、人の命を多く奪うでしょう。「人が肉にすぎない」という言葉に込められている神不在の世界は、どんなに科学と医療による人間の英知があっても、120年は越えないし、「自分の好みのまま選んで」と言う言葉の通りの、人間の肉に任せた思いや行動や決定は、120年どころか、人間の作為で、子供の命さえ奪ってしまう。そのことような人間の姿を物語っていると教えられます。何れにしても、私たちは狭い世界の限られた知識で、多くのことを知っているかのように錯覚し、判断もしますが、しかし、このように神の前にある人間に目を向ける時、その人間の性質、そこで神がこの言葉を通して伝えることと、そして、この何千年にもわたる人間の姿と今の現実は、決して、無関係のことでもなければ、進化とか進歩とか発展とかも、狭い世界の限られた価値観でのことで、実は、神の前に罪深い人間の姿と、その現実は、全く変わらない。私たちは、ノアの時代の人間となんら変わらない、私たちは同じ現実に生きていることを、この3節の言葉は、教えられます。

4.「終わりに」

 来週、続きを見て行きますが、私たちは罪ゆえに神を捨て、神から断絶されているがゆえに、絶望のうちに滅びゆく存在でした。しかしそのような世のそのような罪深い私たちのためにこそ、神は御子イエスを飼い葉桶の上に送ってくださった、そして私たちの受ける罪の報いである、絶望と滅びの十字架を、イエスが受けて死んでくださった。そしてその死から蘇り、イエスは今日も、み言葉を通して私たちに語ってくださっているのです。「わたしがあなたのために全てをした。この十字架で。だからあなたの罪は、わたしのこの十字架のゆえに、もうすでに赦されています。罪の赦しをそのまま受け取りなさい。あなたはわたしのもの。わたしがあなたを守る。だから、ここから安心して行きなさい。」と。ぜひ、今日も、罪の悔い改めに導かれ、イエスからの十字架の罪の赦しの福音をそのまま受け取り、安心してここから出て行きましょう。そして、喜びと感謝と平安を持って、主に求めて行きましょう。隣人を赦し、愛するため、仕えるために、力をください、用いてください、と。



<創世記 6章1〜3節>
1さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分
 たちの妻とした。
3そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉
 にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。