2021年1月17日


「カインの子孫」
創世記 4章16〜24節
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1.「前回」

 自分のささげたささげ物を、神に受け入れられなかったカインは神へ怒り、その怒りによってアベルを殺してしまったのですが、神はそのことなど全てご存知の上で、カインに罪の告白を導くために問いかけたのでした。カインは「知らない」と嘘をつき、そして「自分は弟の番人なのか」と答えました。それに対し神はカインにアベルの血を流し殺したことの罪の重さとその報いを告げました。大地はカインのためにもはや何も実を結ばない。そして、カインは追放されさ迷い歩くものになるのだと。そこでカインは、自分はその咎を追い切ることができないと叫ぶのです。しかしその叫びも、カインは神に「あなたがこうしたから」と責任転嫁をし、しかも誰かが自分を殺すかもしれないと、人を殺したものでありながら、自分が殺されることを恐れるという、自己中心な罪深い思いにあふれた叫びであったのでした。しかしそれでも神は、神に真剣に叫び助けを求めるものに対して、その叫びが、どんなに不完全で罪深い叫びであったとしても聞いてくださるという憐れみも学びました。神はカインが復讐され殺されないようにと守ることを約束したのでした。神の言葉の後、カインはそのところから去っていきます。


2.「エデンの東ーカインとその子孫」

「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」16節

 このカインの住み着いた「ノデ」という地は、聖書の他の箇所には出てきませんし、その他の中東地方の歴史の記録にも場所の名前としては記されていません。エデンもどこかわかりませんので、その東のノデもどの辺りなのかわかりません。14節の「さすらい人」は、ヘブル語で「ナデ」という言葉であり、そこにはある意味「言葉遊び」というか「ダジャレ」があるとも言われています。そのノデに移り住んだカインですが、そこでもアダムの別の家系なのか、それ以外なのか別の人間の存在がわかります。

「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」17節


A,「カインの家族」

 「カインはその妻を知った」とあります。それは明らかにアダムとエバの息子達、カインとアベル以外の子孫なのか、あるいは全く系図とは異なる人々の系図なのかはっきりとわかりませんが、詳しくわからない別の地域に居住する人々の記録です。14節で、カインが自分を見つける誰かが、自分を殺すのを恐れていましたが、そのようにアダムとエバ、カインとアベル以外の人間がすでにいたのでした。聖書の記録ですと、まだ人が何百年も生きる時代でしたので、確かに、25節でエバは「カインがアベルを殺したので」とその悲劇は知ってはいますが、そもそもカインとアベル自体が、この記録の時に、両親のアダムとエバと一緒に住んでいたかどうかさえわかりません。そのアダムとエバ、カインとアベル以外の人々のその存在の経緯は、繰り返しますように、聖書に書かれていないため、私たちの知識ではもはやわからないことではあり、聖書にはそのような箇所は沢山あるのですが、わからないことはわからないままにしておくが、人の理性中心の信仰ではなく、神を神とする信仰の基本ですから、わからないままにしておきましょう。そしてこれも前回述べましたように神が聖書を通して啓示するのはどこまでもイエス・キリストなのですから、その創世記3章15節にあった「約束の彼」への系図から外れるカインの系図は、この後実に短く述べられて終わることになります。カインは、そのアダムとエバ、カインとアベル以外の人々出身の女性と夫婦になり、エノクという子供を持ちました。もしアダムとエバの記録されていない子供や子孫ということであれば、近親結婚にはなりますが、のちにアブラハムの結婚も、腹違いの姉妹であるサラとの結婚でしたので、この時代は、普通に行われていたことでもあったと言えるのかもしれません。ただ主は、後にモーセの時代には、そのような近親結婚は禁じています(レビ記18章)。


B,「カインの子、子孫」

 そのカインの子、エノク。その名前の人は旧約聖書にはいくつか出てきますが、その最初です。カインはその時、「町を建てていた」とあります。ここには別の訳もありうるようで、カインではなく、息子エノクが町を建てていてその息子のイラデの名を町の名としてつけたという訳も可能であるともLutheran Study Bibleの注解にはあります。いずれにしましても、その町が、聖書で最初に記述されている町になります。その町は、カインの子孫によって建てられたわけですが、前回の神のカインへの言葉にあったように、土地はカインのために何も生み出す力がなくなったとあったことからわかるように、カインの一族は、土地を耕すことによって生計を立てることがもはやできなくなったため、この町を建てるということが、当然の流れであったのかもしれません。けれども「町」と言いましても、現在の私たちが思い浮かべるような大きな町ではなく、ただ数家族で住むような集団のようなものと考えた方が良いでしょう。そのエノクは、イラデを生み、イラデはメフヤテルを生み、メフヤテルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルには、レメクが生まれます。その間に、どれぐらいの年月があるのかはわかりません。


C,「レメク」

「レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。」19節

 レメクは二人の妻をめとりました。聖書では最初の一夫多妻の記録になりますし、アダムの家系での最初の一夫多妻の例にもなりますが、それはもちろんその時代の結婚の基準から逸脱したことだと言えるでしょう。なぜなら、もちろん、神は特に明確に禁じていたわけではありませんが、しかし、私たちが見てきた創造と結婚の秩序で、神の三位一体の神の似姿のように、神は二人が互いに一つになり、助け合って行くようにと、パートナーを与えてくださったいることからもわかるでしょう。このように、神と神の言葉に背き、人間が神になったように、神中心ではなく、自分中心の視点で歩み始める罪の生き方の当然の結果として、神の創造の秩序、つまり、神が人間に望んでいた御心からどんどん離れて行き、その人間中心の正義や価値観で、どんどん人間に都合のいい、道徳や生活が生まれて行くことが、現われていると言えるでしょう。そのレメクの妻は、一人はアダ、もう一人はツィラでした。20節、アダはヤバルを産みました。そしてその「ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった」とあります。家畜を飼うのですから、家畜に適した季節に応じて移動することになり、そのような季節に応じて、場所から場所へ移動するような農業ライフスタイルには、町に定住するようなライフスタイルより、天幕を建てての生活が適していたと言えるでしょう。そのヤブルの弟はユバルです。彼は、21節「彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。」と続いています。そしてレメクのもう一人の妻、ツィラですが、22節 、トバル・カインを産みます。「彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。」とあります。考古学では、そのような青銅や鉄などの金属加工のはじめは、古代中東では、紀元前4000年頃から始まったと言われているようですが、これは創世記の年代記にもあっていると言われています。このトバル・カインがそのような金属加工をはじめ発展させたと思われます。そのカインの子孫、レメクの一族ですが、レメクのこの言葉から何がわかるでしょうか。


3.「レメクには七十七倍」

「さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」23〜24節

 まずレメクは、自分が誰かから受けた打ち傷があったようで、それに対する復讐として一人の若者を殺すということがあったことがわかります。妻たちに警告的に語っていることから、家族の誰か若者から傷を受け、その報復として殺したと思われます。


A,「罪の連鎖」

 ここから教えられることはいくつかあります。まず第一に、カインの殺人の心の根底にある自己中心的な正義による罪の根はこのように連鎖して行き、暴力は暴力を生むことがわかります。そしてこのレメクの子孫の罪が結局は、6章の洪水へと導くことにもなり、洪水で滅び断たれることになります。このことは、アダムとエバによって受け継がれている罪の性質は全ての人にあり、その罪を悔い改めないなら、人はますます罪に飲まれ、神の言葉から遠ざかり、そこで人間中心の一時の繁栄と不完全な平和を得たとしても、結局は、神が定めた救いの手段である開かれていた方舟の救いの門に神の言葉を信じて入ろうとせず、裁きと滅びを免れなかったことを意味しています。しかし、そのことは、悔い改めて神の与えた救いの恵みの手段によって門を通る時に誰でも救われることを意味しています。カインは滅びゆく罪人である人類を示していると同時に、しかしこれから見て行く、6章の箱舟は、やがて神がイエス・キリストの十字架と復活で実現される救いの恵みを与える手段を暗示していると言うことです。キリストは、まさにカインと変わらない滅びゆく罪人のために世にこられました。しかしキリストは誰でも信じるものは救われると、全ての人に福音を伝えて、その救いの門を通るように招かれているでしょう。カインもレメクもまさに人間の罪の性質をあらわしています。そのままでは決して神の前に立つことはできません。しかし罪を悔い、ただキリストのところにいき、そこに開かれた福音の招きに答え、そこの門を通るだけで、私たちは必ず誰でも神の与える救いの平安に与ることができるのです。


B,「み言葉をつまみ食い:都合のいい解釈」

 もう一つ教えられることがあります。レメクは、ここで「カインに7倍の復讐」という言葉を口にしていることから、先祖のカインが神から受けた言葉を知っていたのかもしれません。しかしその神の言葉を、謙虚に神の前に先祖や自分の罪深さの悔い改めに結びつけるのはなく、むしろ自分自身のために神の言葉を拡大解釈して用いています。「レメクには七十七倍」と。見てきました4章15節では、カインを殺すものは、7倍の復讐を受けると神は言われました。その神の言葉を文字通りであれば、カインのみ被る殺人をさしており、復讐するのは殺されたカインや他の誰かが主導的にする復讐ではなく、神がなさる7倍の復讐のことです。ですから、レメクは明らかに神がカインに語った言葉を自分に都合よく利用していることになります。しかもみ言葉を間違って利用して、自分の報復のための正義、殺人のための正義とし、しかも、妻やその家族を恐怖で制御するために利用していることもわかるのです。ここに教えられます。それは、たとえ神の言葉であっても、その言葉の文脈や神の目的や意味を軽んじて、つまみ食い的に都合の良い言葉だけを拾って、人間中心の目的のためや、律法として人を動かすために用いることの恐ろしさが現れていると言えるでしょう。カインに語られたその時は、確かに、カインへの神の言葉であり、カインへの神の約束や憐れみの言葉であっても、同じ言葉が、人間に都合よく利用されるときに、再び人の命を奪い、人を恐怖と脅威で支配する、人間が人間を刺し通すための愚かな言葉にもなりうることを私たちは学ぶことは大事です。み言葉は、神の言葉であり、人は、神が語り与えているその言葉の文脈をしっかりと理解するともに、律法と福音とをきちんと正しく区別して、そしてキリスト中心の神のみ心から外れることなく語ること聞くことが、私たちを本当に生かし、逆にそう出ないときに殺すことにもなりうる。そのことを教えられていると言えます。むしろキリスト中心の神のみ心でみるなら、私たちは、わかります。イエスは「わたしのしたようにあなた方も互いに愛し合いなさい」と教えられ、そこには復讐ではなく、むしろ罪を赦すことをイエスは求めていました。なぜなら、イエスが私たちに十字架の死を通して与えてくださったのは、復讐やさばきや剣ではなく、罪の赦しであったでしょう。神のみ言葉は、都合よくつまみ食いして、人間が人間を刺し通し人間の目的を実現する、剣の言葉ではありません。律法は神だけがそのみ旨と私たちの罪を示すために日々用いる聖なる言葉です。私たちはその神の戒めにただ悔い改め、そしてキリストの福音の言葉に平安のうちに生かされ遣わされて行くものなのです。


4.「律法と福音の区別」

 今日のカインの系図は、罪深い人間が示され、刺し通される言葉でした。しかし今や神はただ裁き、滅ぼすために、私たちの罪を示しているのではありません。前回述べたように、まさに今日のレメクのように、自分が神の前に、どこまでも罪深いことを知らないことこそ深刻な罪の影響であり、それを子供や子孫に伝えていかない、それが洪水での滅びに繋がっています。そんな人間一人一人に、イエス様は今日も律法と福音の言葉で語りかけてくださっています。律法が私たちの罪を指し示すのは、私たちが神の前での本当の状態を教え気づかせるためです。刺し通されて痛いのは、罪が私たちにまさに存在し、罪が戸口で待ち伏せして、恋い慕っている現実をイエス様は教えてくださったその痛みです。しかしそれは滅ぼすためではないのです。痛みや異常がわかるからこそ、病気の治療法はわかります。痛みのない状態でガンが進行してしまうと取り返しがつかなくなります。その痛みがあるからこそ、失敗があるからこそ、挫折があり、罪があり、罪に苦しみ悔いるからこそ、自分の問題点である罪がわかります。そして罪がわかるからこそ、その罪を赦すためにこられたイエス様の素晴らしさ、十字架と復活の恵みが、本当にわたしのためであると告白へ導かれる、恵みそのものなのです。その時の平安は本当に感謝です。罪に刺し通されることがないなら、自分の罪の現実に気づかないなら、福音も神の愛もわかりません。罪に刺し通される自分を軽視していながら、神の愛をわかっていると思っているなら、それは神も神の愛も、福音も間違って理解しています。今日、自分が罪深い一人である、私はアダムとエバ、カイン、レメクそのもの、洪水で滅びゆく存在であった罪人であると示されたなら、感謝です。イエス様が今日もそんな私たちに働いています。そして指し示している。この十字架を。復活を。そして福音の言葉を通して今日も招いているのです。「わたしのところに来なさい。福音を受けなさい。わたしのからだと血をそのまま受けなさい。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。








<創世記 4章16〜24節>

16それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

17カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたの

  で、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

18エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャ

  エルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。

19レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

20アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

21その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。

22ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。

  トバル・カインの妹は、ナアマであった。

23さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たち

  よ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち

  傷のためには、ひとりの若者を殺した。

24カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」"