2020年12月27日


「あなたが正しく行ったのであれば」
創世記 4章1〜7節
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1.「前回まで」
 3章まで見てきたように、神によって創造されいのちを与えられ生き物となった人間にとって、神と神の言葉は信頼と平安なあゆみの拠り所であったのですが、地上の獣で最も賢い蛇の姿と言葉を借りた悪魔の巧妙な偽りの言葉に誘われ、最初の人、アダムとエバは、神が食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまいました。そこでは、神は自分たちに嘘をつき隠しているという「疑い」と、「神のようになれる」という思いが生まれ、自己中心な自意識が芽生えました。そのように彼らには神に背く罪が入り、悪を知り、悪を行うようになりました。神は、神の恵みである永遠のいのちを、人が神のようになりたい自己中心な悪の動機で得ようとすることから守るために、園の入り口には剣を持つケルビムに守らせ二人を楽園から追放したのでした。しかしそれは永遠のいのちを人が悪を持って得るのでななく、やがて神が約束した「彼」によって実現し与える日のための長い備えでもあったのでした。4章からは、そのように楽園を追われた人間、アダムとエバの歩みが記されていきます。

2.「わたしは主によってひとりの男子を得た」
「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。」1節
 エバはアダムとの間に長子を産みます。エバの言った言葉、「私は、主によってひとりの男子を得た」とある「主によって」という言葉は、英語訳では、直訳すると「主の助けとともに」とあります。文法的には一般的ではない言葉使いのようですが、ルターを含めて幾人かの解釈者は、このエバの言葉のヘブル語から、エバはその初めて生んだ赤子、それは神が言われた通りに苦しんで産んだその子であったでしょう、その赤子であるカインに3章15節の子孫の約束の成就として人間の姿をして現れた救い主を考えたことを意味しているのだと解釈しています。まずその出産も目の前にいる赤ちゃんも彼女にとっては初めての体験でした。そこには初めて経験した大いなる痛みと苦しみがありました。しかしそれは神の言った通りであったことでしょう。ですから彼女はカインの出産を通して神の言葉の真実さを改めて知ったはずです。そして夫婦にとっては唯一の福音であり希望であった彼女の子孫の「彼」の約束も決して忘れることはなかったことでしょう。その言葉のまさに成就であるかのように、彼女は全ての母として、人類初めての赤子を目にします。しかも神の言う通り自分から生まれてきた。なんという神秘的な出来事でしょう。子供が生まれる科学的な仕組みや知識も全く知りません。まさに自分が子を宿し、時満ちて生まれたその子の理由は、神の言葉にしか見ることしかできなかったはずなのです。苦しんで子を産むことも、母になることも。そしてそうであるなら、まさに神が言われた女の子孫のこともこの子に成就しているように見えたことでしょう。もちろん、その子は約束の救い主「彼」ではないのですが、神の言葉はプロセスとしては実現しているわけですが、彼女にはその後のことは全く知らないので、その時には、神のことばの通りに「彼」が生まれたと思えたことでしょう。それが、この子は主によって、主の助けとともに、主の約束の実現として、自分はこの子を得たと、エバの思いを、読み取ることができるのです。

3.「二人の兄弟のささげ物」
 さて、その後、さらにその最初の子に続き、エバは、弟のアベルを産みます。2節
「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」2節
 神は父アダムへは堕落の前から地を耕させ、堕落した後もアダムはアザミの生える地を耕しました。カインはそのお父さんが神から与えられた仕事を担うようになりました。弟アベルは羊を飼うものとなりました。創造の初めから動物は野の獣と家畜との間の区別が示唆されていますが、そのように耕させる勤めの他にもう一つの家畜として動物を飼い育てそこから日々の糧を得るという働きをアベルが担ったのでした。それはどちらが優れているとか劣っているとかではない、神に与えられた召命であったのでした。その兄弟ですが、3節こう続いています。
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。」3〜4節
 「ある時期になって」とあります。字義的には「日々の終わりに」になりますが、それは、作物が育ち収穫の季節の終わりを示しています。カインは「地の作物から主へのささげ物を持ってきた」とあります。それは収穫のための感謝の献げ物であることが意図されています。もちろんこのところでは、まだ神がささげ物についての何か命じているような記録はありませんから、その感謝のささげ物の行為は、記録されていない神の命令からなのか、神の命令ではなく、父からの言葉なのか、あるいは、自発的なものなのか、など様々推論はできます。同じようにアベルも「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と続いています。二人とも収穫の季節の終わりにそれぞれの神へ感謝のささげ物を持ってきたのでした。しかし主なる神は、弟アベルの持ってきたそのささげ物に目を留めました。それは主なる神は二人のうちのどちらかを選ばなければいけなかったという二者択一の選択ということではありません。神はどちらのささげ物を受け入れることができるのです。しかし神は、弟アベルのささげ物の方だけを受け入れたのでした。

4.「神は何に目を留めるのか」
「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」5節
主はカインのささげ物に目も留めなかったのでした。それに対してカインは、
「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」5節

A,「神は目に見える物や行いの価値をはかり好み目を留めるのか?」
 なぜ主なる神は、アベルのささげ物のみを受け入れ、カインのささげ物には目を留めなかったのでしょうか。このところだけを見ると、それは主はカインの作物よりもアベルの用意した最上の羊の初子の方を気に入ったからなのでしょうか?そのような物の好み、あるいは、その物が最上であるとか、高価であるとか、そういうところを見ての判断だったということなのでしょうか?そうではありません。まず神は作物や穀物よりも、動物の肉、しかも最上の肉だけを好んで受け入れるということはなく、作物や穀物のささげ物を受け入れている場面は沢山あります。そしてその物質としての「ささげ物」そのものを見て、良し悪しを判断したのかというと、そういうことでもありません。「主はカインのささげ物に目を留めなかった」とあるでしょう。目も留めなかったのです。神が見ていたのは、ささげ物そのものではないということが見えてきます。では何に主は目を留めて、見て、そして判断したのでしょうか。怒り顔を伏せたカインに、主は語りかけます。

B,「神は罪深いカインに語りかける」
「そこで主はカインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」6節
 まず、神の言葉は、怒り顔を伏せたカインに語りかけられています。神に怒りを向け、神から顔を背けるものから、神は決して顔を背けないと言うことです。むしろそれが厳しくとも優しくとも、罪深いものへこそ語り続けられると言うことは、隠れたアダムとエバに語りかけられた時から変わりません。そして神はそのカインのささげ物には目も留めませんでしたが、カイン自身から神はずっと目を背けていない。ずっと見ている。目を留めているのです。そしてそこで語られる言葉には、神が何に目を留めていたのか、なぜカインのささげ物には目を留めず、アベルのささげ物に目を留めたのかが見えてくるのです。

C,「あなたは正しく行ったのであれば」
「あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」7節
 主なる神は言います。「あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる」と。「正しく行ったなら」ー「正しい行い」とあります。しかしここで言う「正しい行い」というのは、目に見える所作、行動のことを言っているのではありません。その目に見える行いだけを見るならどちらも良いことをしているのです。どちらも一年の収穫の終わりに、神への感謝のささげ物を持ってきて献げたのです。何かカインが目に余る悪を行ったわけではありません。どちらもささげたのでした。ではここで主が言う「正しい行い」とは何なのでしょうか。その鍵は新約聖書に見ることができます。

D. 「信仰によって」
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル人への手紙11章4節
 「信仰によって」とあります。アベルは信仰によってそのささげ物をささげたのでした。ですからこの言葉を通して、その信仰があってこそ、神は、ささげ物よりも先に、その信仰こそを見られて、そのささげ物を真のいけにえとされ、良いさささげ物だとしてくださり、その信仰こそを見られて、その人の義を認めてくださるのだと、ヘブル記者は聖霊によって私達に答えを与えてくれています。そう神は何を見られるのか?いけにえそのものの、物質、物体、その価値や高価さ、優れているか劣っているか、を見るのではない。目に見える表側だけの行いの良し悪しでもない。神はその心を見られ、その信仰を見られるのだということです。ですから神はカインのささげ物には目を留めませんでしたが、カインのその心にはしっかりと目を留めていた、見ていた。その心の中にある信仰を求めていた。しかしカインの心を見たがそこに信仰はなかった。もちろんただ神を知り、神の存在を信じるという信仰はあったことでしょう。だからこそささげたのですから。しかし神が求めるのはそのような信仰のことではありません。まさに父と母が楽園を追われ、人間が苦しんで子を産み、糧を得るようになったその原因。その彼の心に湧き上がる怒りの原因。神に対して顔を付し、顔を隠し、顔を背け、自分の思い通りになるならないにどこまでもこだわる、自己中心な自意識の原因である、その罪の事実の自覚と、悔い改め、神の前にへりくだった砕かれた思い、それは自分で自分を救済するのでもなければ、自分で自分の義を立てるのでもない。その砕かられた思いで、神へ祈る思いがあったかどうか、それが真の信仰です。その信仰があるかどうかこそを神は見られたと言えるでしょう。それがアベルにはあった。しかしカインの心には見ることができなかったのでした。ですからカインのささげ物がどんなに良いささげ物であっても、そこにその信仰がないゆえに目を留めるに値しなかったのでした。

E,「神はささげられる必要も、仕えられる必要もない」
 旧約聖書では、確かにささげ物やいけにえがささげられます。神が命じた通りにと定められてもいます。しかし神は本来はそんな物質を一切必要としません。何かものをささげられなければ生きていけないとかではありませんし、何より神は仕えられる必要がない方です。むしろ神こそ創造の初めから仕えてくださるお方であったでしょう。神が求めてられるのは、物でも目に見える行いでもないのです。初めから、神が見られ、神が求めておられるのは、その心、何より、神の前にどこまでも罪深い自分を認め、砕かれ、悔いた心です。聖書はそのことをずっと言っています。まず神は心、信仰を見られる主であることはこうあります。外側や容姿だけを見て、サウルの次の王を探すサムエルに対して、主は言われました。
「しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」サムエル記第一16章7節
 そして主は動物の生贄より砕かれた心を見られ、受け入れられることについてはこうあります。あのバテシェバの罪を犯したときに、ダビデが預言者ナタンを通して神からの悔い改めを示された時の詩篇です。
「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51篇16〜17節

5.「神の前にあって、神が目を留めるもの」
 神が何を見られ何を求めておられるのか教えられます。ささげ物そのものの高価さや立派さや良さではありません。目に見える行いの立派さや完全さでもありません。どうでしょう。世の中では、立派な良い行いを行える人はクリスチャンでなくても山ほどいます。企業や社長も、困った人や災害時、大金を寄付したり、社会貢献と称して良いことをしたり、ものをあげたり、施設を建てたりします。それはそれで素晴らしいことで、そのことで助かっている人も沢山いて、それで社会の利益は回っているのです。私たちクリスチャンも人の前では社会や市民の一員として、それらのことをどのような動機であろうとして社会には貢献し協力することは大事なことです。しかしそのことは神の前のこととは全く別問題です。企業や富豪や、そのほかの人がどんなに大金を献金し、立派な施設を立てても、それはなんらかの自分や会社の利益がなければやらないことです。評判にせよ、宣伝にせよ、良いイメージにせよです。自分の利益、自分の名声、自分への見返りの計算があるからこそ成り立つのが世の中の善であったり社会貢献であったりします。ですから貢献者は最終的にはそこに自分の銅像を立てたがったり記念の名前をつけたがったりするでしょう。人の前、罪の世の中はそれでもいいのです。しかし神の前では全くそれは通用しません。なぜなら神はその心、その信仰を見られるから。そして神はその堕落した時の人間の事実と、その時の約束を決して忘れないからです。神は神の前にはどこまでも罪深い罪人のその砕かれた心、悔いた心こそを見られ、それこそを信仰とし、その信仰こそを見て、ささげ物が良いささげ物かどうかを見るのです。信仰によってこそ、その人を義と認めるのです。ルカ18章13節以下で、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず自分の胸をたたいて言いました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』と。イエス様は言ったではありませんか。「あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」と。同じでしょう?神の前に本当に良い行い。良いささげ物。良い奉仕。それは私自身が悔い改めさせられます。罪を悔いた砕かれた心と霊の信仰無しには神の前には全く無意味。たとえ表向きどんなに良い行いで敬虔でも、どんな良い捧げ物であってもです。信仰がなければルターは罪でさえあると言います。真の信仰は砕かれた心、そしてそこにある罪赦された、イエスだけが与えることのできる平安です。それは世は与えることは決してできません。私達はこの2020年の終わりに、神の前にどこまでも罪深い自分であることを教えられ心を刺し通されつつ、しかし今日もそこに来られたイエスの十字架を見上げ、十字架と復活の言葉を通して罪の赦しと新しいいのちを今日も福音の言葉を通していただきましょう。そして平安のうちに遣わされて行きましょう。




<創世記 4章1〜7節>
1人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの
 男子を得た」と言った。
2彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す
 者となった。
3ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
4アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささ
 げ物とに目を留められた。
5だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を
 伏せた。
6そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せてい
 るのか。
7あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないの
 なら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべ
 きである。」