2020年11月29日


「平安を与えるために「彼」はくる」
創世記 3章16〜19節
■音声はこちら


1.「前回」
 前回は、神が食べてはいけないと言われたその木の実を、偽りの言葉によって、男と女に食べるよう誘い食べさせた蛇と、蛇を利用した悪魔に対して神が語った言葉でした。特に15節の言葉から、神はその人と悪魔の間に置かれる敵意について、人は自らでは打ち勝つことができず常に敗北するであろうことを神は全てご存知でその人類を敵意から救い出すために、やがて女から生まれる「彼」によって悪魔を打ち砕くのだという約束を宣言します。そしてその「彼」こそ、悪魔の敵意の牙に噛みつかれ、罪の世の貧しさと痛みを負って生まれ、十字架にかかって死なれよみがえられることによって悪の頭を砕いて勝利し神の前の罪の赦しといのちを与えるイエス・キリストであると見てきたのでした。しかしそれは神が15節で「おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に」と言われているように未来の出来事です。しかもそれは人がいつとかどんな時とか全くわからない。神が定めたその神の時に、時至ってなされることとして神は約束しました。ですからその救いの約束の宣言では、その先、堕落の結果、罪からくる当然の報いを人類は受けなければならないことを神は続けて宣言していくるのです。


2.「苦しみが増す」
「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」16節
 ここで神は女に二つのことを言っています。その一つは、「あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」ということです。ここで間違ってはいけないのは、「子を宿すこと産むこと」が堕落の結果ではないということです。1、2章で見てきた通り、神が命あるものに語られた「産めよ増えよ」の言葉は神の祝福でした。その神が創造し命を与えた全ての種類の動物が、産んで増えて行くことによって神の祝福を取り次いで行くことは神のみ心でありましたし、そして三位一体の神の人格の関係がそうであったように、男と女が協力して仕えることによってそれらを治め流ようにも託されました。そして人間自身も、同じように子を産むことによって祝福を取り次いで行くためにこそ、神は「一人でいるのは良くない」と言って、パートナーである女を与えてくださいました。ですから子を産むことは、呪いでも、堕落の結果、罪の報いでも決してなく、それはどこまでも祝福なのです。ここで神が罪の結果として述べていることは、「あなたのうめきと苦しみを大いに増す」とあり「苦しんで」とある通り、その「苦しみ」のことです。

A.「単なる肉体の痛みではない」
 「苦しみ」については、ここではもちろん子を産む時の、女性の肉体的な苦しみのことも意味はしていることでしょう。しかし神が堕落以前の創造の計画において、女性が出産するときの「痛み」がないように創造していたのかどうかは誰もわかりません。もちろん「痛み」は「苦しみ」でもあるわけですから、痛みも全くそのようなことはなかったのかもしれません。黙示録にあるやがて来る新しい天と地の約束では、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」(21:4)ともありますが、堕落前の創造の天と地でも同様に「苦しみ」はなかったと言えるでしょう。しかしここには「痛み」とはなく「苦しみ」とあり「苦しみが大いに増す」ともあります。また神の創造の計画で仮に出産の時の肉体の「痛み」が想定されていたとしても、堕落の前は、常に共にいる神の助けがあるわけですから、その神のもとで、出産の「痛み」の緩和と、痛みに勝る「希望」と「喜び」「祝福」があれば、それはもはや「苦しみ」ではなく、たとえ「苦しみ」があっても、それは「大いにます」どころか、癒しと緩和が想定されていたのではとも考えることもできますし、そのような喜びの一端は、堕落後の母親にもあり得ることではあるでしょう。ですから苦しみが「大いにます」や「苦しんで子を産む」は、ただ単に出産の肉体的な痛み以上のことがあると言うことが思われるのです。

B.「痛み以上の苦しみ」
 どうでしょうか。堕落前の人間は、神からなんら隠れる必要も、隠す必要もなく、神ととともにありました。そして繰り返しますが、そこには常に平安な言葉があったでしょう。もちろん神は人に被造物を治めるよう託されました。しかしそれは見てきたように、人が支配者になるように神が命じたのではなく、三位一体の神の似姿としての人間が、神が被造物を治めていたのと同じように、つまり仕えるように治めるよう託したのであり、それは神から独立した支配ではなく、神との親しい信頼関係のもとでの「治める」でありました。そこではやはり神がどこまでも神であり、神の言葉に導かれ支えられての「治める」でした。ですから人間はどこまでも主権者でも支配者でもなく、神との関係では「神の子」であり、神の言葉が道しるべ、拠り所であり、平安でもあったでしょう。ですから17節では「一生、苦しんで食を得なければならない」とありますが、ご存知のように堕落の前から、人は神によって「まだ呪われていない」その地を耕すように導かれていました。そこではもちろん地を耕せば汗も流し肉体的には疲れもあり、肉体の疲れを睡眠をとって癒すことも日常としてあったことでしょう。しかしそうであっても神と神の言葉が共にあったので不安はなかった。生きることも労働もそして出産も、「苦しみ」ではなく平安であったのです。そのように17節「苦しんで食を得なければならない」でも言えるように、堕落による「苦しみ」は物理的な疲れとか痛み以上の意味があると思われます。

C.「平安を失った不安による苦悩」
「あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」
 どうでしょう。堕落は、それまであった神の言葉に支えられた神との正しい関係の喪失であり、それは平安の喪失です。それは彼らが神と神の言葉、そこに溢れている全き恵みを捨てて、疑い、そして神の言葉の通りではなく、それを越えようと、自分の熱心な敬虔で義を立てようとし、神のようになれるの声に従って、神が自分たちに隠していることを知ろうとして、神と同等、いや神になろうとした行為でした。それを実行し、彼らは善悪の知識の木の実を食べ自己中心な自意識に目覚めました。自分を互いからだけでなく、神からも隠し、隠れ、そして自分は悪くないと責任転嫁をすることによって、欲望のままの自己実現と自己義認が根付いた出来事でした。彼らは人間が平安に生きていくために絶対に必要な神への信頼を捨て独立したのです。各々が、自分で義を立てる。自分が正義。自分が自分の目的を達成する。それは今の神なき社会の現実であり常識でもあり、美コとさえされて、そのような方法で成功した人や、指導者は、そのカリスマ性を尊敬されたりもします。人間はそのように神から自立したのです。あのルカ15章の放蕩息子のように、父からの恵みである財産だけ受け取りながらも、あたかも自分一人で好き勝手できるかのように、父の元から旅立っていったのです。しかしその結果は失ってしまった「平安」の逆です。限りない「不安」であり、たえず不安です。どんなに富を得ても、どんなに自己実現をしても人間には平安はありません。死ぬまで不安。いや死の先さえも不安です。そして、女性は子を宿しときから不安の連続です。無事生まれるのだろうか。子は健康だろうか。母としての自分もこの子もどんな苦しみがあるのだろうか。いつでも十分な必要があるだろうか。災いがないだろうか。そのことに加え、家族のこと、経済のこと、健康のこと、治安のこと、などなど、罪と不安の世にあって不安はつきません。そして生まれて、もちろんそこに喜びがあっても子を育てていくことも不安がいっぱいではありませんか。そう子供や自分の健康、安全、経済的なこと、将来のこと、そこには希望ももちろんありますが、不安はいつでもあり絶えることがありません。そして現実としてはその人間の自分で抱く希望でさえも人間の自己中心や欲から自由ではないのですから希望にさえ罪深さが伴っています。つまり希望でさえ不安の裏返しでもあるでしょう。それこそ、
「あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」
 ではないのでしょうか。罪から来る、堕落の結果の子を生むことの苦しみの姿です。そしてそれは17節のアダムに語られた労働も同じです。18節にあるように確かに楽園から追われ罪ゆえに大地は荒廃しいばらとアザミが生えていくのでしょう。耕すことも作物を作ることももちろん大変になり、苦しみは「増します」が、しかし人間の罪の世での労働です。他人の罪のみならず自分の罪もあります。罪の世の中で食を得るということ、地を耕すこと。働く事。それは様々な罪のしがらみの中でなされていくでしょう。地を耕して作物を得てもやがて奪い合いが起こるようになります。そこには当然、不安が生まれます。争いによって失う犠牲もあまりにも大きい、そこには悲しみ、怒り、憎悪も生まれます。そして苦しみがあまりにも多いいでしょう。そして19節にあるとおり、顔に汗を流して糧を得ることは堕落の前からあった素晴らしい事であっても、そこには神との喜びや平安は皆無。それどころかどんなに働いてても遂には次のようになります。

D.「その苦悩は罪ゆえの必然」
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」19節
 どんなに労働しても、どんなに人の力で労し頑張って行いの義を立てて、それが人の前ではどんなに美しく賞賛されてもです。ついには誰もが罪の報酬として死を迎えなければならない。その神の「非常に良かった」の肉体は、今や自らの放蕩の結果、あの放蕩息子が豚のいる泥に付したように泥に付さなければならない。土に帰りちりに帰らなければならないのです。神から離れ、神の言葉を捨て、神の平安を捨て、神から独立した人間。自ら神のようになり、自立して自分で自分の義を立てようとする人間。彼らはそのように常に終わるのことのない不安と死の恐怖の下にあって、終わることなく次から次へと溢れて来る、「大いに増して来る」苦しみの中で、子供を産み、食を得るようになったのです。ですからもちろん罪に対する神の怒りや裁きはあり、その報酬である死や滅びはあるのです。しかしこのところの「苦しみ」は、神が罰として苦しみを与えたということではない。むしろ神は苦しみを与えないし、それは直前の15節で、救済の約束である最初の福音を与えてくださっていることからもわかるはずです。むしろこのところは神が与えた罰ではなく、神が食べてはいけないといったその木の実を自らの意思で、神になろうして食べた、その避けられない結果、罪、背き、叛逆、神の言葉を失った、必然なのです。そこで16節に戻り神が女に言われたもう一つのことになるのです。


3.「要求と支配の関係」
「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
 ここでは、妻は夫を「恋い慕う」と書かれていますが、英語では「desire」(欲望、欲求、願望、要望、要求)です。多くを望み要求しても、夫が支配するようになるというのです。もちろん神は創造の秩序として、夫が一家の長、責任者として創造したでしょう。しかし同じ創造の秩序として、夫も妻も三位一体の神の似姿として、そして一体として、互いが互いを愛し、尊重し、神から与えれた役割を重んじ、助け合い協力し合うことによって、神から与えられた家族の祝福を子孫に取次ぎ、自然の生物の産めよ増えよを助け祝福を取り次いでいくという一つの役割を果たしていく関係でした。ですから一方が「要求し」一方が「支配する」という構図は神の秩序の崩壊であり堕落の結果と必然なのです。その両方向の愛ではなく、自己中心的な「要求」と「支配」の関係は、どこから生まれたでしょう。それは自己中心な自意識、自ら神になったかのような錯覚の意識から生まれました。そしてその全ての人間に根付いている、自分が神になったかのような自己中心な、自意識、価値観、正義、要求、「Desire」は互いにぶつかり合うのです。そして結局、男が物理的には肉体において腕力などは強いように作られていますが、それを神の与えた役割のための恵みとしてではなく、支配のために悪用するので、結局はどんなに誰かが要求しても、肉体的に力の強い男が、あるいは同じように物理的経済的暴力的に強い社会が、組織が、国が弱い方を支配するという構図が生まれ、それはそこに目先の合理性と相互依存関係とそれゆえの利益があるわけですから、人はその自己中心から抜け出せず、協力し、譲り合い、助け合い、自分を犠牲にすることを知らないので、その力の支配の構図は罪の世が続く限り終わることがありません。ですからこれは女が自己中心に要求することも、男が自己中心に支配すること、またその逆であっても、神が定めた秩序では決してない。神を捨て、神の言葉を捨て、神のようになろうとした、罪深い人間、堕落の必然を述べているのであり、そしてそれは女と男の関係だけでなく、多くの人間の罪深い関係に共通する罪の結果でもあるのです。むしろ神が与えようとしたのは、15節にあるとおりどこまでも福音です。苦しみでも敵意でもなく、むしろその罪の結果である、滅びと罪からの救済と、神との正しい関係の回復なのです。


4.「アドベント:「彼は」約束の通りに」
 みなさん、アドベントを迎えました。神が与えた3章15節の約束の「彼が」「悪魔の頭を砕く」その約束は成就したのです。神の約束の通り、女エバの子孫であるマリヤは、罪の世にあって、驚きと不安と痛み、苦しみの中で神の約束を受けます。そして彼女は苦しみの増す中、ベツレヘムの家畜小屋で約束の「彼を」産み、貧しい飼い葉桶の上に「彼は」寝かされるでしょう。その出産の彼女の苦しみは大いに増すばかりでした。しかし彼女を支え、強め、平安と喜びに導いたのは、世が決して与えることのできない。いや世はまさに失っていた、神のみことばの福音の約束と信仰であったでしょう。苦しみが大いに増したのは罪の結果です。私たちは決してそれを避けることはできませんが。しかしその大いにます苦しみにはるかに勝る、世が与えることのできない天からの希望と平安こそをこのアドベントに私たちに思い起こさせます。それはこの最初の福音に約束された「彼」、救いの神、イエス・キリストは、その神の約束の通りにこの世に、私たちの間に、私たちのために来てくださった。そしてその約束の通りに、その「彼」であるイエス・キリストは、悪魔の頭をこの十字架と復活で砕いてくださった。その勝利の恵み、そこに回復され溢れている、世が与えることの出来ない、主のみが与えることのできる平安を、私たちは、いつでも福音の言葉を通して、そして洗礼と聖餐を通して日々与えられます。「あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい」と。感謝なことではありませんか。ぜひ、今日も、神の前に罪が赦され、新しくされているいのちの恵みを覚えて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。




<創世記3章16〜19節>
16女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
17また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
18土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
19あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」"