2020年10月4日


「人がひとりでいるのは良くない」
創世記 2章18〜22節

1.「前回」
 前回は、神が東方のエデンというところの一部に設けた園に、ご自身が地のちりから形作りいのちの息を吹き込まれた人を置かれたところを見てきました。そこではまず園に流れ出る川を源流として流れる4つの川について見てきて、そして神がその園に全てを備えた上で、人をそこに「置かれた」という恵みを見てきました。さらにはその園の真ん中に立つ、いのちの木と善悪の知識の木にも注目してきました。神はその準備した園のどんな木から食べても良いが、善悪の知識の木からは食べてはいけないと言われました。つまり堕落する前は、いのちの木は食べることができたのですが、しかし3章で見ていくように、人は神への信頼と神からの言葉に促されてではなく、試みる者の偽りの言葉によって促され、その食べてはいけない善悪の知識の実を食べ、死ぬものとなり、善どころか悪を知るようになり、そしてそのいのちの木に自ら食する事もそこに至ることもできなくなった、それが今の私達人間の罪の現実であることを見てきたのでした。しかしそのような現実のためにこそ神は御子イエスを飼い葉桶の上に送り、イエスは罪人の友となり、十字架にかかって死んでくださった。それにより私達をその罪から救い、復活によって、失ったいのちを与えてくださった、回復してくださった、その恵みに立ち帰らされたのでした。

2.「ひとりでいるのは良くない」
「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」」18節

A,「ひとり」
 神はこれまで「良しとされた」「良かった」とその創造の完全さとそれが神の意志にかなっていることを表してきましたが、ここで神は初めて「良くない」とその意志を表しています。その「良くない」ことというのは「ひとりでいる」ことでした。「ひとり」を表す言葉は、孤独、孤立、分離などを意味しています。人は孤独、一人であったのでした。もちろん、実は一人ではありません。神との交わりはあり、神の言葉があり、神への信頼と礼拝があり、平安があったのですから。しかし人は神の似姿ではありましたが、創造主、神ではありません。被造物でした。そして天使でもなく人でした。その被造物であり人という存在としては、まさに孤独、孤立であり、その交わる相手、ともに話し、そしてこのあと「助け手」とある通りに、互いに助け合う相手がいなかったのでした。神はそれは「良くない」というのです。そこで神は人のために「ふさわしい助け手」を備えようとします。19節以下こう続いています。

B,「順序の問題」
「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。」19〜20節
 ここで矛盾を感じ誤解されるかもしれません。というのも1章では人より先に獣や動物が造られ、人はその後、最後の被造物でした。しかしここでは順序が逆になっているようにも読めるからです。人のために土からあらゆる野の獣と空の鳥を形造りとありますから。ですから翻訳によっては「再度、形造った」というニュアンスで訳す場合もあるようですが、しかしこのところLutheran Study Bibleの解説を見ますと、英語では「formed」とありますが「hadformed」とも訳されるようで、それは文法上は神が「すでに形造っていた」動物を意味します。そのようにこの所は1章と矛盾するのではなく、神が既に形造っていた獣や空の鳥が、神によって人のところに連れてこられたのでした。それはふさわしい助け手を見出すためでありますが、もう一つの目的は動物に名前をつけさせるためでもありました。

C,「名をつける」
 その「名をつける」ということも神が、人に被造物の祝福の継承のために仕させることによって、正しく治めさせるために、人に与えられた大切な働きでもありました。1章では、神は被造物の中で、大空を天と名付け、渇いた所を地と名ずけ、ひと所に集められた水を海と名付けました。その被造物に名を与えるという神の働きと同じ働きを人に託されるということに、まさに以前述べたように、神が被造物を治めたように、人も「治める」ということが託されていることが見えてきます。具体的には、神は被造物に名をつけ、良かったといい祝福されたように、そしてそのように神が被造物に愛を持って仕えてきたように、やはり人にもそのように被造物に仕えることを望んでいるということが、この「名をつけ」させているところに見ることができるでしょう。そしてその人の前に連れてこられた動物に人は名をつけ、その名前はことごとく、その名前になりました。そのように生き物が連れてこられた、一つの目的である、「名をつける」という目的はなされるのですが、肝心の「助け手」については、神から見て「ふさわしい」助け手は「見つからなかった」とあるのです。このように名をつけ、助け手を「見つけるため」に連れてこられているのですから、改めて形造ったというよりも、神がすでに形造っていた動物が連れてこられたという理解が正しいと言えるでしょう。

3.「神から見た「ふさわしい」「助け手」
 ではその神から見て「ふさわしい」と思える「助け手」が、どのような判断で見つからなかったのでしょう。それは「神から見て」のことなので、私たちには計り知れません。もちろん今の私達にとって動物がパートナーであるということは多くの場面ではあります。しかしそれは私達現代の人間の価値観によるものにすぎませんし、何よりこの聖書で言っているのは、神から見てのふさわしさです。その神が述べたことやなさったことからヒントがあるとするならですが、まず神は「種類に従って」植物や動物を創造し、それを祝福して産めよ増えよと命じてきていますから、「種類に従って」ということの大切さがあるでしょう。そして、人は神のかたち、神の似姿として創造され、しかもその鼻にいのちの息を吹き込まれ生き物となった存在であるのですから、獣や鳥や魚とは区別された異なる存在です。

A,「神の似姿としての人間」
 皆さん、人は社会的な存在であると言われるように、人が二人いればそこに社会はあるわけですが、人は人ととの交わりや関わりによって生きていく存在です。もちろんそこには神の祝福から始まった産めよ増えよにも関わっていて、人は一人で、それが男性だけでも、逆に女性だけでも、一人では子を残していくこともできません。もちろん堕落する前の死がない状態ではずっと一人もありうることでしょうけれども、それだと神の命令の「産めよ増えよ」は成り立って生きません。そして何より、堕落して死が入った後では尚更、パートナーがおらず人間が一人であれば、もうその代で人は絶滅してしまいます。そのように「種類に従って」や「産めよ増えよ」の計画から言っても人は一人では良くないのです。しかしやはりもう一つの大事な鍵である、人は神のかたち、神の似姿であるということに意味があります。神のかたちは、物質の形のことではないと見てきました。それは三位一体の、父子聖霊の互いに仕えるその交わりの関係に現れていて、その一致した目的とわざについては、聖書の創造の初めから新約の終わりに至るまでも随所に現れています。そのように神のかたち、神の似姿はそのような、動物にはない、霊的な交わりにもあるでしょう。もちろん前述のように一人でありません。神との交わりはあり、神の言葉があり、信頼と礼拝があり、平安があったのですから。しかし明らかに動物と区別された、また神の似姿ではあっても神ではない、しかし霊的存在の人としては一人であり、そのように被造物同士で霊的に交わり、ともに話し、そしてこの後「助け手」とある通りに互いに助け合う人としての相手、そして産めよ増えよの祝福のための愛する相手としても動物はふさわしくはなかったのでしょう。現代の人の目から見てもそう思えるのですが神の目から見てもそうだったのでしょう。そういう意味で人は孤独だったのでした。そのことを神は「良くない」とわかっていたし、だからこそ神が計画する本当のふさわしさも神には見えているでしょう。そう神はわかっていたのです。だからこそ「ふさわしさ」を判断できたのでした。ですからそれまで「良かった」と繰り返していた神がいきなり、ここで「よくない」と言い出したのも神の矛盾では決してない。あるいは、創造してみてから欠陥に気づいた、神は失敗した、不完全だった、ということでもないということです。鼻に神の息を吹き込んで生き物となったその人間の創造は「神の良かった」なのです。しかしその人間の人との関係と秩序に関する限りにおいて創造は完成しておらず、まだ神のなすべきことが残っていたことをここは意味しているのです。それがふさわしいい「助け手」、女性の創造に繋がって生きます。

B,「神の恵みである、ふさわしい助け手」
「神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」21〜22
 このように女性の誕生の全ても神の主導と力の元に進みます。深い眠りは普通の眠り以上の眠りであり、神が人に下された特別な眠りです。神はその男の体の中からあばら骨を一本取って肉を塞ぎます。具体的です。そしてそのあばら骨から、もちろん、その骨は地の赤茶色の土から形作られたのですから、同じ被造物の物質から形取られ、いのちの息を吹き込まれ、生ける人間でありながら、男とは異なる異性の女性として「神が連れてきた」のでした。つまり人が連れてきたのでも、人が見てこれだと選んだのでもなく、これこそ「神が備えた」ふさわしい助け手に他なりません。ここに男女の存在とその関係の起源を見ることができます。まずそれはどちらが選んだのでも、どちらが主導権であるとか、優っているとか劣っているとかでもない、どちらも神の被造物であり、どちらも土の器であり、どちらも神が備えた一人であり、男のためにふさわしいと神が認め神が備えた「助け手」としての女性でありながら、それは同時に、女性は同じ人間として、つまり同じ神によって、神の似姿として、そして神のいのちの息を吹きかけられ、つまり、同じように一人でいるのは良くない人間として創造され、連れてこられているのですから、女性にとっても、男性がふさわしい助け手として、神が女性の前に男性を現れさせたと言えるでしょう。それは、お互いが神による初めての出会いです。どちらの目から見ても初めての出会いでした。しかしそこで出会わせたのは外でもない神です。それは互いが互いにとってふさわしい関係として、ふさわしい「助け手」として出会わせたでしょう。互いが互いにとって、互いのためにです。ですから、18節と20節の「助け手」という言葉のヘブル語「エーゼル」。これは詩篇70篇5節にも使われている言葉です。こうあります。
「私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。」詩篇70篇5節
 詩篇記者が叫ぶ、私の助け「エーゼル」、それは「神よ」「主よ」です。「助け手」とある言葉、それはなんら劣る存在を示していない、いやそれどころか、まさに神の備える助け、神に対する呼び方としても用いられていることがわかります。

4.「男女ー互いが尊敬し仕え合うための最高の「助け手」」
 多くの人々は、この18節以下から聖書を誤解します。特にここは女性を劣ったものとして聖書は書いていて、女性は男性より劣っていて奴隷のように男性に仕えることを聖書は奨励しているんだと、女性の尊厳を訴える人々は聖書やキリスト教を批判します。しかしそのような批判されるような事実は何もありません。もちろん文化的には、人類の歴史やキリスト教の歴史でも、何かそのように誤解したような女性の尊厳を損なうような扱いは沢山あったことでしょう。それは間違いであると反省することは大事なことです。しかし罪深い人間のなすことはそうであっても、神の聖書は決してそんなことを奨励していないし、その神の言う助け手は決して男よる劣る存在としても働きとしても全く想定されていません。もちろん初めからいつの時代も神が定めた男性の役割と女性の役割の区別と秩序はあり、特に礼拝については常にその神の定めた役割と秩序があることは守るべきものです。しかしその役割の区別ではないところでどちらが劣っていると言うことは神様は全く意味していません。そんな優劣の議論は人間が自分の価値観や時代の正義でそう判断することにすぎない人の前の議論です。しかし「神の前」において互いが互いによって、決してどちらが優っているとか、どちらが劣っている「助け手」であるとかそんなレベルではないのです。神は互いにそれぞれの役割に従って助け合うため、そして相手に罪でも呪いでもなく、神の「よかった」を、神のその祝福を、その子に、その子孫に受け継ぐために、ともに喜びをもって地を耕し動物や植物に仕えることによって正しく治める為にこそ互いを出会わせたのです。勝手に見つけ探し出合ったのではありません。神が出会わせた、神が互いのために備えたのです。
 私達はここに学ぶことができます。もちろん今は堕落の罪の世であり、私達も救われて尚、悔い改めて尚も日々罪深い存在ですから完全な存在ではありません。しかしここに本来神が備えてくださった平和の秩序、神の御旨がはっきりとしています。それは人と人、社会の基本である男と女の関係、それは互いが互いを支配し合うためではない、いがみ合い、争い合い、どちらが優っている劣っているでもない、互いに愛し合い、いたわり合い、仕えあい、弱さを補い合い、助け合う存在として神は男と女を創造した、そのみ旨、その意志に聖霊と福音の力によって立ち返ることができると言うことです。そして人間の罪のゆえにその歪んだ関係の歴史があるなら、男性は率直に悔い改めることも大事です。それは男女だけでなく、どんな人種同士、どんな肌の色同士、どんな民族同士でも言えることです。そしてもちろんそれでも私達は罪深い不完全な存在なのですが、しかしそのような私達に、日々、神の良かったを回復しいのちの木に与らせるために、イエスは飼い葉桶の上に生まれ罪人の友となり、十字架の死にまで従い復活されました。私達はそのイエスにあって示された罪を悔い改めることへ導かれますが、そこにこそ十字架と復活は輝いています。そしてイエスは今日も「あなたの罪は赦されています。あなたはわたしのものだ。今日も新しい。安心して行きなさい」と言ってくださいます。安心して出て行きましょう。そして平安と喜びに満たされ互いに仕え愛しあえるように、そのように世にあって隣人のために用いられて行くように祈って行こうではありませんか。



創世記 2章18〜22節
18 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
21 神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22 神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。