2020年7月19日


「ここに教会は見えますか?」
使徒の働き 28章28〜30節

1.「前回」
 前回は、パウロの語るイエス・キリストの福音を聞いたローマのユダヤ人達が、ある者は信じ、ある者は信ぜず、そして結局、議論の末、一致に至らなかったため帰ろうとした時に、パウロはただイザヤに与えられた神からの預言を語り、「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」(28:28)と述べたところを見てきました。パウロはそのように言うことによって、イエス・キリストとそのみ言葉のみが真実で、そのような聞いていても悟らない頑なな心をも開くことができ、そしてご自身の計画と御心のままにことを行い益とすることができるのだとそのみ言葉に委ねたのでした。だからこそパウロは、彼が知るより先にイエスが持ってられ、しかもいかにパウロが欠点や罪や予測される失敗があったとしても、初めから全く変わることがなく、そしてイエスご自身がパウロの思いをはるかに超えて実現してきたその召命に立って「神のこの救いは、異邦人に送られました」と述べたのでした。その恵みから、私達にも同じようにイエスは、私達が知るより先、救われるより先に、そして私達がどんな欠点や罪や予測される失敗があったとしても、私達への幸いな計画と召命を持っておられると言うこと、そしてそれが教会だけでなく、職場、家庭、学校において、それぞれが置かれている所に実現もしているし、たとえ私達が自分達や周りの状況を見ればそう思えなくても、信じられなくても、イエスの私達への召命は、昔も今もいつまでも変わらない。そしてそれはイエスが常にみ言葉と信仰において導いて実現してくださる。パウロと同じように。その素晴らしい恵みを教えられたのでした。

2.「皆を迎えて」
 さてルカはこの31節で、ルカによる福音書から続いていたイエス様の約束の成就の記録を結んでいます。もちろんそれは、そこでイエスの働きが終わり教会やパウロの歩みが終わったことは意味していません。この後も続いていくのですが、イエスの変わらない働きと真理を書き記し伝えることにおいて、もちろんそれは言い尽くせないことではありますが、決して変わることのないイエスの働きと恵みの原則は常にいつまでも変わらずあることとして、自分の経験し見聞きした「イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書く」(1:1)のはここで十分であるとしたのでしょう。
「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて」28章29〜30節

A,「訪ねてくる人達をみな迎えて」
 まず「自費で借りた家に住み」とあります。それは彼が解放されローマの何処かに自分の家を借りて宣教したように思われますが、しかしそうではなくある程度自由を認めれた「自分の家」でありながら(16節)、なおかつ鎖に繋がれた囚われの身でもあり、その不自由な家の費用についても、パウロ自身が自弁していたと言うことであると思われます。彼はローマでさらに2年間滞在しており、何よりカエサルに上訴するために囚人としてローマに連れてこられてもいるので、おそらくその立場での2年であったと言えるでしょう。しかしそのような不自由な中ではありますが、そして先週まで見てきた、議論して一致した理解に至ることのできないと帰って行こうとしたローマのユダヤ人達であり、パウロ自身も「救いは異邦人たちに送られた」といいながらも、彼は、ここで「たずねて来る人たちをみな迎えて」とあります。それは当然、異邦人だけではありません。そこにはローマのユダヤ人達もいたことでしょう。それはもちろん最初の訪問で信仰が与えられ信じたユダヤ人達もいたでしょうし、その最初の訪問で信じることができず議論でも一致に至れず帰ったユダヤ人達の、全てでなくても、いやたった一人であったかもしれませんが、再度訪ねてきた人はいたことでしょう。しかしパウロは「皆を迎えて」とあります。異邦人もそしてユダヤ人も、信じたユダヤ人も、信じない、でももっと話を聞きたいと言うユダヤ人も迎えて、つまり歓迎したのでした。そのようにここからもパウロはイザヤの預言の引用をし、28節では「救いは異邦人に送られました」と言いつつも、それは決してパウロ自身の意思と計画による強い宣言ではなく、彼はただ神の真実なみ言葉と神がこれからユダヤ人に対してなさることに委ねたのであり、決して見捨てたのではありませんし、異邦人のために遣わされていると言う、イエスがパウロに与えた召命にしたがって、その召命に立ち返っての言葉だったことがわかります。彼がユダヤ人を全く排除し、全く見捨て、異邦人だけに伝えていったと言うことはこれまでもそれ以後もなかったのでした。それはイエスがこのローマでも少数ではあってもユダヤ人達にも信仰を与えてくださっていますし、何よりもイエスは、謀略と妬みで自分を十字架につけたユダヤ人達のためにも十字架で死によみがえったのであり、ユダヤ人達をもイエスは間違いなく愛しているのですから、なおのことであったでしょう。

B,「召命や御心を勝手に解釈し狭めない」
 ですから「異邦人のために遣わされる」と言うことが確かなイエスの御心であっても、パウロは決してそのようにイエスの召命やみ言葉を、勝手に狭めたり、枠を設けたりはしないのです。人間の側で召命やみ言葉を人間の思い込みや都合や利益で解釈して、狭めたり枠づけをしてしまうことによって、人間は勝手な正義を作り出し大きな悲劇や災いをもたらして来ました。古くは出エジプト後の荒野で、帰ってこないモーセに待ちきれず、勝手な解釈によって金の子牛をアロンに作らせました。いつの時代も変わりません。十字軍による戦争や虐殺然り、ナチスもキリストを掲げ利用してユダヤ人大虐殺を行えば、欧米諸国の戦争の歴史もキリストの名や信仰が都合よく利用されていますし、アメリカに今尚ある白人至上主義もキリストの名を掲げて公然と白人の優位性を主張し黒人への差別と迫害をします。それは福音派と呼ばれる人々の中からも少なからず出ていると言うのですから驚きです。そのようなことは世界中のキリスト教国とよばれる国や文化、民族で、あげればきりがありません。それは人間がしてしまうことですし、クリスチャンも罪人であるからこそ陥りやすい大きな間違いです。召命やみ言葉を勝手に都合よく解釈してしまう。狭めたり枠付けしたり限界を設けてしまう。それは福音を律法にしてしまったり、律法を福音にしてしまったりの、律法と福音の混同もそうです。また召命は、教会のみならず、家庭、職場にも召命はあるのに、教会のみに狭めてしまってしまい、教会の事柄のみに駆り立てようとするのも、教会にとって都合のいい召命を狭める間違いでもあると言えるでしょう。そのようにして教会や信仰を律法的に熱心になるあまりに家庭が犠牲になると言うことも良く聞くことではありますし、それはイエスの御心では決してありません。召命はイエスからのものであり、イエスが福音の言葉と信仰への働きによってイエスが導き成し遂げる、人の思いでは計り知れない、計算し尽くせない、あまりに深く広く大きいものであるのですから、私達の側で自分や誰の召命に対してもこうあるべき、こうであってはいけないと狭める必要も制限を設ける必要もないのです。勝手に解釈すべきでもありません。召命を律法にしてしまうとそれは起こりやすくなります。召命は福音です。召命は重荷でもノルマでもありません。召命はイエスにありイエスから与えられる自由があり、平安であり喜びであり、人の思い、理性や感情では決して計り知れない希望です。そのことをこのこれまでの数節からのパウロの言葉と行動に教えられるのです。

3.「ここに教会が見えますか?」
A,「何を指し示し、何を語るか?そこに誰がいるのか?」
 そして訪ねてくる人々を皆、迎えてパウロは何をするのでしょうか。何を語るのでしょうか。パーティーをするのでもありません。自分の武勇伝や自慢話、自分が何をして来たのかを語るのでもありません。あるいはイエスや自分にこれまで酷いことをした人々やローマへの恨み言を言ったり、自分があの人がああであればよかった、もっとこうであればよかったと自分や誰かを裁いたり批判したりするのでもありません。そしてパウロはこの囚われの家ではありましたが、この囚われの家、世にあって不自由な家にこそ紛れもなく教会がありました。それは目に見える立派な会堂や大聖堂がそこに建てられ何百人も何千人も集まる会員がそこにあったと言う意味でもありません。パウロはそこで何を指し示し何を語ったのか、ゆえにそこに誰がおられたかに、そこが教会である理由があります。
「大胆に少しも妨げられることなく神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」28章31節
 パウロはある程度の家の中の自由を認められながらも、鎖に繋がれているその場所で、訪ねてくる異邦人、そしてユダヤ人にも神の国を伝えました。それはつまり主イエス・キリストのことを語り伝え、説教し、教えたのでした。それはもちろんいつもと同じように当時の聖書であるモーセの律法と預言書と詩篇から主イエス・キリストを、その主イエス・キリストに開かれ実現している神の国を語り伝えたのでした。それはパウロが召され初めて説教をした時から全く変わらないことですし、そしてパウロのみならず使徒たち、散らされた弟子達においても全く変わらず一貫したことでした。語ること、伝えること、指し示し方は変わらないのです。そしてそのようにイエス・キリストの福音が宣言されるところにはイエス・キリストご自身がおられ、イエス・キリストのおられるところには父なる神がおられ聖霊がおられます。皆さん、そこに教会があり、それが宣教であると言うことがこのルカの結びにははっきりとしています。パウロのその囚われの、自由であるけれども不自由な家に、まぎれもなく真の教会は指し示されているのです。

B,「その後、教会は」
 歴史的にはこの後、パウロはスペインにまでいき福音を伝え、キリスト教には大迫害が起こりパウロも殉教したと言われていますが、さらに後には皇帝がキリストを信じることによってキリスト教は公認され、やがて国教化されることによって教会の様子は一変するでしょう。迫害に怯える必要はなくなり、今度は支配者の加護の元におかれたのでした。信者も増え、眩いばかりに荘厳な大聖堂が建てられていったでしょう。そのように国教化、そして教父の時代には異端との戦いを通して教理なども確立し、いわゆるローマ教会は大きくなって行き、世界各地へとキリスト教は「広がって」行きます。それは長い目で見れば確かに私達の元に福音が届いたことにも繋がっては行きます。しかしそれは、そのような目に見える、権力などの人間の力による広がりや増加や、常にいつでもそのまばゆいばかりに荘厳な会堂、そして堅固で聖いと言われる組織に真の教会があったのかと言えば、むしろそれはキリストの教会でありながら、罪人の教会の歴史でもあり、教会が神のみ心を歪めては悔い改めるの繰り返しの上に、成り立って来た宣教の歴史でもあります。権力を持った教会は確かに世界各地に広がって行きましたが、そこには強制と覇権の論理があり、もちろん全てではありませんが、信じないもの受け入れないものへの戦争や虐殺がありました。キリストを掲げての聖地奪還という名の虐殺が十字軍でした。植民地の拡大と国の覇権に宣教は常にぴったりくっついていました。そこにはもちろん全てではありませんが、奴隷制度と人権侵害などもあったわけです。NHKでも放送されていましたが、かの国の宣教師は、日本をキリスト教化するために、日本で天下統一を狙っていた織田信長に武器を提供していた、と言うようなドキュメントもありました。キリスト教会は確かに世界で大きくなり、繁栄し、信仰者も増え、そして国の繁栄や大企業の繁栄と同じように、教会も、大聖堂などの立派な会堂や、数的経済的繁栄の結果にこそ立っており、その目に見える繁栄の教会が教会であるかのように、世は勘違いしますし、クリスチャンでさえも勘違いします。

C,「そこに教会は見えますか?」
 しかし聖書のここに教会ははっきりと書かれています。囚われの家、自由が認められながらも鎖に繋がれた不自由な矛盾の家、出て行くことはできない限られた狭い空間、しかし異邦人、信じるユダヤ人、信じないユダヤ人が訪れ、その彼らに、イエス・キリストの神の国、飼い葉桶の上に人となって生まれた神の子イエスがローマの極悪人の処刑である十字架で殺され死んで三日目に復活された、そのイエスが、迫害者である自分に愛を表し、思いをはるかに超えた召命を与え、絶えることのない困難の先にその困難に勝る恵みの真実を表してこられ全てを益としてくださった、そのイエス・キリストを指し示し、その神の国を、その福音を、福音に始まる日々新しいいのちと平安の日々を、パウロは伝えて言った。そこには目に見える福音である聖餐を与えて行ったのです。人間の目には、あまりにも小さな制限されたその矛盾の空間ではあっても、キリストの福音が宣言され聖餐が与えられていた、そこにこそキリストはおられ、そここそがまぎれもなく、教会であったのでした。それは立派な100人、1000人会堂や、大聖堂に教会をイメージする人には、あまりにも小さくみすぼらしいかもしれません。鎖に繋がれ出て行くことができず、そこで何ができるかと人は思い、そう思う人にはこの箇所に教会は見えないことでしょう。実際ここには教会とは書いていません。しかし真の神の前にあって真の教会が何かがはっきりと聖書からわかる人には、ここに真の教会ははっきりと見えるはずです。
「大胆に少しも妨げられることなく神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
 とあるのですから。確かにこの後の歴史で、そのような人間の罪に翻弄された教会の姿があっても、このように十字架と復活のキリストの言葉が、それが目立たず、眼に見えず、伝える者がルターのように異端扱いされ命を狙われても、真っ直ぐに伝えられてきた事実もあるからこそ私達の日本にもいま真の福音は届いており、今私達がその指し示されるイエス・キリストの十字架にこそ平安をいただくことができ出て行くことができるというイエスの奇跡の働きもあるのです。教会の華やかな人間の力の歴史の影に隠れて、無名の信仰者や教会とその僅かな群れを通してキリストの福音の力は確かに働き、約束の通り「地の果てまで」が実現していることを私達は覚え、感謝し、賛美したいのです。

4.「結びに」
 私達は今どんなに小さく、どんなに制約され、どんなに年老いていて、人間の計算ではネガティブなことしか想像できないような状況であっても、時が良くても悪くても、私達にはキリストとその福音においてこそ力があります。イエスは今日も福音を私達に語り、その福音こそが私達に働き、イエスの計画のうちに私達を用いることでしょう。パウロは出て行くことはできませんでしたが、パウロのところにきて福音を聞いた異邦人やユダヤ人達が福音によって平安のうちに遣わされることによって、イエスの愛は家庭に社会に実現しキリストの香りは広がって行ったのです。それは計算できません。しかしそれが福音の力です。福音にあってこそ私達は律法から解放され、真に自由になり、真の平安と喜びはそこにこそあり、真に大胆で真に勇敢でもあれます。そしてそれが真の良い行い、キリストの証人たらしめるのです。私達は今日もイエスによって宣言されています。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさいと。安心してここから遣わされて行きましょう。