2020年6月28日


「変わることなくイエス・キリストを指し示し」
使徒の働き 28章21〜25節

1.「前回まで」
 前回は、ローマに到着し、鎖で囚われの状態ではありつつ自分の家で生活するという自由を与えられたパウロが、地域のユダヤ人たちリーダーを招いて語ったところを見てきました。パウロはこれまでの経緯として、ユダヤ人達の不当な訴えから始まり、総督がパウロには死刑に当たるような罪はないと認め釈放しようとしたのにもかかわらず、それでもユダヤ人たちが総督の判断を受け入れられずパウロを訴え続けたために、止むを得ず皇帝に上訴することになり、ローマへと来ることになったと説明したのでした。しかしその皇帝への訴えは、同胞であるユダヤ人達を訴えるためではないと言います。むしろこの鎖に繋がれていることも、全ては「イスラエルの望みのため」だとパウロは言うのでした。その望みについてパウロは、神がイスラエルの先祖に約束してきた「死者の復活」のことであり、それはキリストの十字架と復活を意味しており、イエス・キリストこそ約束の救い主であり、イエス・キリストにこそ神の国が実現したと言う証しでした。そしてそのイエス・キリストこそが、パウロがそうであったように、それはクリスチャンにとって時が良くても悪くても、変わることも、揺らぐことも消えることもない、平安と希望の立つべき拠り所であるということを教えられたのでした。そのようにパウロから紹介を受けたユダヤ人達はこう答えるのです。

2.「話を聞こうとするローマのユダヤ人」
「すると、彼らはこう言った。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。 28:22私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」21〜23節
 ローマにいるユダヤ人達ですが、ローマ帝国の中心で、ローマ・ギリシャの文化が渦巻く大都会の中で冷静で理性的な受け止め方をします。ローマへ沢山のユダヤ人がやってきても、パウロについて悪いことを言う話は聞いたことがない。そしてパウロが伝えるイエス・キリストの福音、当時はユダヤ教の中のナザレ派と呼ばれていたキリスト者たちについて、確かに、ローマでも至る所で非難が起こっているのは聞いていて知っているにしても、偏見や決めつけではなく、パウロ自身から直接聞くのが良いと思っていますというのです。エルサレムでもアジヤでも、最初は小さな、パウロやキリスト者への偏見や決めつけや、あるいは悪意だったりしたのですが、その最初は小さな感情的で律法主義的な種火から、大きな感情的な炎のうねりになったかのような暴動になってきたことは何度となく見てきました。それはエルサレムでもそうでありました。それに比べてローマのユダヤ人達のまずは話を聞いて見ましょうとというのは、17章でのギリシャのアテネの人々、彼らはユダヤ人ではありませんでしたが、彼らの対応とも似ています。そこでローマのユダヤ人たちは、日を改めて訪問します。

3.「聖書からイエス・キリストを語った」
「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。」23節
 再度パウロを訪問する日を決めて、ユダヤ人達は最初に訪問した日よりもさらに多い人数でパウロのところにやってきました。その集まった人々にパウロは朝から晩まで神の国のことを証ししました。それはここにも「イエスのことについて」とある通り「神の国」とは、イエス・キリストの神の国であり、それはイエスの十字架と復活によって私達に与えられた永遠の救いのことでした。そしてパウロはここでも伝える内容も変わらなければ、「何から、何に基づいて」伝えるか、その伝える根拠も全く同じです。ここにあるように「モーセの律法と預言者たちの書」から、つまり当時の聖書、今私たちが呼ぶところの旧約聖書から、パウロはイエス・キリストを証ししたのでした。それはパウロのみならず使徒の働きをを通してみてきた、ペテロを始めとする使徒たちのキリストの証しに共通することでした。ペテロもペンテコステの日の説教で旧約聖書を引用してイエスはキリストであると指し示してきました。そのところを見てきた時にも、そのことは使徒たちにとって決して変わることのない終始一貫した説教の姿であると伝えましたが、この使徒の働きの最後の所にもそのことがはっきりとしています。やはり教会の説教は初めから、それがエルサレムであっても、アジヤであっても、ギリシャでもそうであり、このローマでも変わらないのです。モーセの律法と預言者たちの書から、聖書から、イエス・キリストは救い主であると指し示す。それが教会であり、説教であり、宣教であったのでした。なぜなら「モーセの律法と預言者たちの書」はただ律法を伝えるのではない、ただ預言ではない、モーセが神から預かり伝えた律法も預言者たちが神から預かり、神からの警告や慰めや希望を約束した書も、全てはイエス・キリストを約束し、イエス・キリストを指し示しているからなのです。そして私達に与えられている新約聖書は、そのモーセの律法と預言者たちの預言がその通りに実現したと、やはりイエス・キリストを指し示しているのです。

4.「何から何を伝えるのか?」
 みなさん、ここに教会と説教と宣教が現れているのです。教会、そこで語られる説教、そして宣教、それは神が聖書を通して指し示すイエス・キリストの証しを、いつの時代もどんな場所でも、どんな人々、どんな人種、どんな肌の色であっても変わらず、聞く人々に、やはり、そこからイエス・キリストとその福音を指し示すことであり、その指し示されるイエス・キリストとその福音を聞くことに尽きるのです。なぜならそのイエス・キリストこそ、イエス・キリストのみが救い主であり、そしていのち、希望、平安だからです。そしてイエスは、その救い主だけが与えることができる、いのち、希望、平安を、目に見える何かではない、聞くことを通して、つまり神の言葉とその解き明かしを通して与えて下さるのです。決して人の願望に沿った魅力的で面白い話を聞くことが説教ではない。感動的な話や共感できる言葉や人生論でもなければ、道徳や律法による促しや命令でもないのです。確かに目に見える知恵やしるしや満足を求める人々はそのような面白い話、感動的な話、あるいは律法の方を聞きたいし、その方が楽しいかもしれません。反響もあるかもしれません。逆に十字架の言葉、罪の赦しなどは、自分はそんなに悪い人間ではない、罪なんて指摘されたくない、悔い改めなんて暗いと思う人々にとっては、つまらない、聞きたくない、躓きの言葉かもしれません。しかし聖書が約束し、使徒たちがこれこそと変わることなく伝えてきて、本当に、世が与える事のできないいのちと、希望と、平安を与えてきたのは、十字架の言葉、イエス・キリストを証ししてきた聖書から、まっすぐとイエス・キリストを指し示してきた、その福音にこそあったでしょう。聖書から、イエス・キリストとその十字架と復活の福音が指し示される、そこにこそ説教があり、教会があり、宣教があるのです。ぜひこれからも聖書からイエス・キリストを、その声を、その福音に続けて耳を傾けて、聞いて行きたいのです。

5.「信仰は神の私たちへの賜物、神の奇跡」
 さて、そのようにパウロが朝から晩まで神の国を語ったのですが、しかしそれは私達人間が期待するように、だからオートマチックに全ての人がキリスト者になるということとはなりません。それは人間は自ら信じる力、自由意志は全くありませんが、むしろまことの神に背を向け拒む自由意志こそがあり、それが強いからです。信じる人、つまりそこにみ言葉を通して働いていた聖霊がその人に働き、差し出された福音をそのまま恵みとして受け取った人もいれば、しかし受け取ることを固くなに拒む人もいたのでした。
「 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった 」24節
 神に背を向け、神の言葉も恵みも疑い拒むというのは堕落の端緒であり、創造の初めに神が創造された人間から、堕落後の人間へと全く違うものと変えてしまった罪の端緒です。それはあまりにも強いものであり、感情のみならず理性さえも堕落させていることを教えられます。もっと人の感情を煽れば人は信じることができるとか、人間がより理性的であればより信じることができるとか、あるいは意志が強いから信じることができるとか、そのような安易な信仰論や宣教論は真の福音と宣教の前にはあまりにも空虚で意味がなく通用しません。信仰はむしろ神秘です。そのように自らでは信じることが決してできない、そのことが人に起こる。神が働き聖霊が働いているからこそこの神秘は現実となり、その人が信仰を受け入れることへ導かれたことも人のわざではありません。神がなさった恵みのわざです。ですから「ある人々は彼の語ることを信じた」とあるのは、豊かなみ言葉と聖霊の働きの証しが起こったことを示しています。そして「ある人々は信じようとしなかった」もまた人間の真を表わしています。自らでは決して信じることができない罪深い人間の証しでもあり、堕落している事実の証しなのです。ですからここから教えられることは、私達はいま信仰が与えられ、イエス・キリストの素晴らしい恵みを感謝することができ、イエスが十字架と復活の福音を通して与えて下さる罪の赦しと新しいいのち、希望と平安を心から経験でき平安のうちに遣わされているのがいかに素晴らしいことであるのかを覚え、覚えることができることも含めて感謝し賛美したいのです。

6.「イエスとみ言葉に委ねるパウロ」
 さて「ある人々は信じようとしなかった」とあることについて、集まったユダヤ人たちは、一致した結論に達することができないため帰ろうとします。この信じようとしない人々、しかもそれがユダヤ人であるということにパウロは決して驚きませんし、そして「証しが宣教が上手くいかなった」と焦ったりもしません。そのようなユダヤ人たちの反対はこれまでも沢山ありましたし、それが理性的なユダヤ人であってもなんら変わりはありません。理性が信仰を促進するわけでは決してないからであり、むしろ理性的であることも信仰の妨げになることもパウロはよく経験し知ってもいることです。しかし何よりそのようなユダヤ人たちの多くが信じないということは異常なことではなく、むしろ預言において神がイザヤに与えた言葉においてすでに示されていたことでもありました。
「こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。」25節
 と。まず教えられるのは、選びの民と言われるユダヤ人であっても、ある人は信じ、ある人は信じないと神はあらかじめ知っておられたということ、そしてパウロは、いつでも変わることのないイエス・キリストの十字架と復活の福音によって開かれた神の国を一貫して伝えてきましたが、その宣教の責任も全てイエスと神の言葉にお任せしてあるということです。この26節以下のイザヤの言葉は、決してユダヤ人たちを責めたり、見捨てたりするために言っている言葉ではありません。宣教で、誰かが信じたり信じないは、パウロの能力があるとかないとか、あるいはパウロの責任であるとか、そういう問題ではありません。かつてパウロはコリントでユダヤ人たちに語っても上手くいかなった時に、怒り着物を振り払って「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」(18:6)と言って会堂から出て行きました。結局、その後、黙ってしまい語ることができなくなりました。つまりその時は彼もどこか気負ってしまい期待していたこともあったでしょうし、「自分が」「あなた方は」という律法的な思いもあったことでしょう。しかし砕かれ、立ち上がれなくなっていた彼を立たせたのはイエスのこの言葉でした。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(18:9〜10)
 パウロの働き、使徒の働きの責任は、パウロにあるのでも使徒達にあるのでもありません。神にあり、イエスが立たせ、イエスが事を行い、イエスが信仰を与え、信仰を与えている人のその信仰を強めるのもイエスなのです。だからこそ信じない人がいたとしても彼はみ言葉に委ねることによってイエスの言葉、イエスのなさることに信頼したのです。イエスの言葉こそ罪深い弱い彼を何度も立たせてきて、彼を彼の思いをはるかに超えて導いてきたからなのです。

7.「福音は、重荷を負わせるではない。重荷をおろし平安のうちに遣わす」
 みなさん。私達の歩みも全く同じです。クリスチャンとしてのあり方や証し人として在り方、宣教のあり方を律法的に見るなら、自分や誰かの責任だとしたくなったり、自分や誰かを責めたくなるような状況におかれることがあるかもしれません。上手くいかない時、期待通りではなかった時、いつでもあります。しかしそれがイエスによって召され、イエスによって立たされ、イエスによって導かれているものであり、イエスの働きであるならば、そのリーダーはイエスでありイエスの言葉です。責任者はイエスであり、責任を負ってくださり最後までことを果たしてくださり、最後まで全てのことに働いて益としてくださるのはイエスです。だからこそ私達はどんな召命を与えられていたとしても、あるいはどんな困難な状況であったとしても、イエスにあるなら、重荷を負うのではない、負わせることもない、イエスにあっては、絶えず重荷は降ろされるのです。イエスが負ってくださるからです。だからこそ、歩みは平安、私達は平安のうちに遣わされていくのです。信仰も教会も宣教も、本当にイエスにある歩みであるなら、重荷に遣わされるようであってはいけないし、重荷になることはあり得ないのです。イエスにあるなら、私達はどんな時でも、時が良くても悪くても、平安のうちに遣わされていくのです。今日もイエスはここにおられ聖書から福音の宣言、あなたの罪は赦されています。安心して行きなさいと宣言してくださいます。安心してここから遣わされて行きましょう。