2020年6月21日


「私はイスラエルの望みのためにこの鎖に」
使徒の働き 28章16〜20節

1.「前回まで」
 前回は、嵐の中、船が座礁しマルタという島に上陸してから3ヶ月後、ローマへ向けて船を出したところを見てきました。それは新しい船での出発でしたが風に翻弄されながらもイタリア半島のナポリの近くポテオリにようやく到着し、陸路ローマへ向かいました。そのポテオリでもキリスト者の兄弟達に出迎えられ、ローマへの陸路の途中までローマの兄弟達も迎えてきていました。そのようにローマへと到着するパウロでした。先週はその出来事から主の尽きない恵みを分かち合い、何よりもイエス・キリストは、パウロに約束されたその通りに、ローマへと到着させたという恵みでした。途中、誰もが死を覚悟しローマにはたどり着けないと確信するような状況でしたが、しかしたとえその全く望みのない現実であっても、イエスはパウロに約束したその言葉の通りに、パウロとその周りにいる全ての人を守られた上、パウロ自身に与えたその信仰をたえず強めることによって、一人一人を励まし、一致して乗り切らせるためにパウロを用い、パウロ自身でさえも思いもしなかった様々な経験と導きを通らされることによって、イエスはその約束の通りに、ローマへとたどり着かせた、それ自体がイエスとその言葉の真実を現していることを教えられました。ゆえにパウロは、その何一つ計画通り期待通りにならなかった困難と死の連続のローマへの道であっても、それを呪ったり不平不満を言ったり嘆いたりするのではなく、ただただ神に感謝したのでした。そのように困難の中、人間がいないと思うようなそんな悲惨の中にこそイエスはおられる、イエスの飼い葉桶はそこにあり、イエスの十字架はそこに立っているのだという私達への慰めと平安をも教えられたのでした。今日は、ローマへ到着したパウロです。

2.「ユダヤ人達の主だった人たちを呼び集め」
「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」16節
 ローマでのパウロですが、「自分だけの家に住むことが許された」とありますように、ある程度の自由が認められていました。しかし「番兵つきで」とあり、20節には「鎖に繋がれている」とあるように、そのように自分の家での自由はありつつも、囚われの身であり鎖に繋がれての家の中の自由であったようなのです。そのような状態で、
「三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときにこう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました」17節
 その囚われの家に、パウロは「ユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め」ます。「主だった人々」というのは、地域、コミュニティーのユダヤ人リーダー達です。パウロは自ら出て行くことができません。ですから家に呼び集めたのでしょう。そこで彼はそのユダヤ人リーダー達へ「兄弟達」と親しく語りかけ、今そのように囚われの身でなぜローマへまでやってきているのか、これまでの経緯を語り出すのです。まず「なぜ囚われ」の経緯です。それは見てきましたように、エルサレムでアジヤのユダヤ人達がパウロを訴えたことに始まっていましたが、それはここにもある通りに根も葉もない彼らの決めつけ、言いがかりでした。彼らは、ユダヤ人の伝統的な慣習にそむようなことをしたと怒りに燃え暴動を起こしました。しかも訴えがあるなら正式に法的手続きに則って総督に訴えればいいものの、ユダヤ人達は祭司に頼んで、パウロがエルサレムの議会に連れてこられるその途中で殺害することさえ企ててもいました。まさに彼らの行動や悪しき謀略そのものにさえ、不当さ、やましさ、罪深さが溢れているのです。パウロはそのことは詳しく述べず、自分が決してその彼らがいうような、イスラエル国民に対しても先祖の慣習に対してもなんらやましいこと背くことをしていないとユダヤ人達に語り始めます。しかしなぜそんな正しい者がなぜローマ軍に囚われ、そして皇帝のいるローマにまで連れてこられたのでしょう。そのことも彼はこう語ります。
「ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません」18〜19節
 その通り、ユダヤ人達はそのパウロを密かに殺そうという陰謀が失敗したために総督に訴えました。しかしローマ総督もユダヤの領主であるヘロデでさえも「パウロにはなんら死刑に当たるような罪は認められない」としており、ヘロデは、パウロが皇帝に上訴しなければ釈放されたであろうにと言うほどでした。ここでパウロは、総督は釈放しようとしたとまで書いています。しかし訴えたユダヤ人達はパウロを死罪にすることに固執したようです。総督の判断にさえも反対をし総督が罪がないとしたパウロを殺すことにユダヤ人達がこだわったからこそ、パウロは上訴したのでした。ここでも「やむなく」と書いてありますし、さらには「私の同胞を訴えようとしたのではない」ともあるのです。つまりパウロは上訴は積極的に望んでいたことではなかったことがわかりますし、そして自分を殺そうとまでするユダヤ人達への憎しみや、復讐、彼らを逆に訴えてやるということでは決してない、そのようなユダヤ人達への思いも見ることができるでしょう。そのようにユダヤ人達を積極的に訴えるための上訴ではなく、ユダヤ人達が総督の判断にさえ反対するほどに訴えを取り下げないので「やむなく」であったことがわかるのです。しかし、そのような理不尽な不当な扱い、訴え、自分に対する悪意でさえも、パウロは決してマイナスには考えていません。

3.「イスラエルの望みのために」
「このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」 」20節
 彼は、ローマにいるユダヤ人達の地域のリーダーを集めたのは、そのようなユダヤ人達の不当な訴えや扱い、あるいは彼ら自身への文句や不平や弁明でさえありません。なぜ集め招いたのか、それは「イスラエルの望みのために」と彼は言います。彼がいま「鎖につながれている」のもその「イスラエルの望みのため」であり、そしてこのローマのユダヤ人達を招待してまで語りたいこと、それは「イスラエルの望みのため」だとパウロの全ての中心、焦点が見えてくるのです。ではこのローマでも鎖に繋がれているときでもどんな状況でも、パウロの核心部分、パウロの望み、そしてそれはイスラエルの望みであり、更にいえば、パウロはわかっています。異邦人達、人類の望みでもあるそのことは何なのでしょうか?パウロはその望みについて前にも述べています。総督ペリクスの前での弁明で彼は言っています。
「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」24章15節
 それは、復活のことだとパウロはいっていますし、それはこの人たち自身、つまりユダヤ人達が抱いている望みでもあるとパウロは答えていました。死者の復活です。それはイエス・キリストの復活でもあり、救い主の到来と、救いの完成でもあります。それはパウロの望みだけではなく、民の望み、つまり、神が民に与えた、救い主の約束、預言のことであり、その通りの実現こそ、イエス・キリストの復活であるということ、そのことをパウロは彼自身が人々に伝えている「望み」なのだとペリクスに証ししていたのでした。
 パウロは、26章でもその「望み」について語っています。ヘロデ・アグリッパ王への弁明のところでしたが。
「そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」26章6?8節
 その「望み」、それは、「神が私
たちの先祖に約束されたもの」であり「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んで」いるものです。それは、何か?それは「神が死者をよみがえらせるということ」、それは既に起き、同時にやがてくる死者の復活であり、それはキリストの復活にすでに実現し、これからも私達に同じように実現するものです。つまり、パウロはここでもその「望み」は、神がイスラエルの民にはるか昔から約束してこられた救い主の約束に関連した、死者の復活、イエス・キリストの復活にある望みであるとパウロは一貫しているのです。パウロは死者の復活は、キリストの復活に明らかにされ、キリストに始まり実現するものとして信じていました。それが彼の福音でもありました。パウロはコリントへ当てた手紙でこう言っています。

4.「キリストの復活こそ」
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」コリント第一15章12〜21節
 キリストの到来とその十字架と復活は、約束された永遠のいのちの成就であり始まりです。キリストが死んでよみがえってくださったからこそ、今の新しいいのちもあれば、やがてくる命もあり、それは肉体さえも無駄ではなく、イエスがよみがえってくださったからこそ、私たちの死は死で終わり、墓場で終わりでもなく、墓場が空っぽになる時が来る。イエスがよみがえって、墓が空っぽになり、新しい身体で愛する弟子達の前に平安のうちに現れたのと同じように、私たちにもその復活のいのちが日々あるだけでなく、やがてくる新しい日々もある。パウロは、そのように復活こそ、彼の伝える福音であり、福音の与える新しい命、希望、平安であることを、見ているし、伝えているのです。その「望み」です。そしてそれが彼が立ち、彼を生かし、彼が証をする、キリストの福音、そのものでもあったのでした。彼の全ての中心、核心はそこにあります。そのためにこそ、鎖に繋がれ、そのためにこそ、彼らを集め、招き、そのことこそを彼らに伝えたいのです。ですからその鎖さえも、その望みのための鎖ですから、その鎖でさえも、彼にとってはまさに「益」なのでした。

5.「キリストの復活のいのちが私達に。今既に、そしていつまでも」
 みなさん私達も同じです。私たちが、時が良くても悪くても、立つべき、伝えるべき、望みと平安の、中心、核心は、昨日も今日も、いつまでも、たとえ天変地異が起こり、明日、地が過ぎ去るとしても全く変わりません。条件が整い、なんでも揃い、能力があり、人間が律法的に奮い立たせる気合いとか元気とかがあり、それで煽られ、それがあるから、宣教であるとか、だから上手くいのだとか、それがないから、上手くいかないのだとか、そういうことではありません。そして私達が伝えることも、時代や流行や時々のニーズに合わせて変わって行くようなこととも違います。時が良くても悪くても、準備があってもなくても、何が足りなくても、欠点や罪が沢山あり、上手く行きそうもないと推測したり予想できる現状、展望、計算があったとしても、どんな流行りの教えや求めがあり、周りがそれに合わせて教えを変えて行くようなことがあり、それが上手くいっているようなものを目や結果で見ることができたとしても、動ずることなく、揺るぐことなく、変えることなく、いや変えることが決してできない、私たちの立つべき岩がある。それはイエス・キリストでありその福音の教え、つまりそのイエス・キリストに表された、神のみわざであり御心、十字架と復活、罪の赦しと新しいいのちです。そしてそこにこそ、私たちの決して揺るがない、変わらない、消えることもない、いのちが、希望が、平安があるということでしょう。パウロの「その望みのゆえに鎖にある」のその言葉から教えられるのではないでしょうか。

6.「イエスが岩の上に揺るがない家を建てる」
 その岩の上にイエスは家を建ててくださいます。その岩の上にイエスに立てていただけるのなら、私たちは決して揺るがない。いつまでも安心です。しかし私たちが、揺るぎやすい移ろいやすい、人の感情の煽り、流行の流れ、価値観に、自らの知恵や願望を加えて、教えを歪めて、砂の上に家を立てるのなら、その家はいつまでも続きません。その家も移り行くもの、揺らいで倒れ廃墟になるのです。私たちが立たされるべき信仰の恵みの岩は、たとえ嵐が吹き付け、鎖で縛っても、決して揺るがない。私たちに世が与えることができない。イエス様が与えると約束された平安、そして決して変わることのない希望をいつでも、その岩から溢れる泉として溢れさせてくださるのです。今日もその十字架と復活のゆえに、イエスが宣言してくださります。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさいと。安心して行きましょう。