2020年4月12日


「喜びと平安を与えるために」
使徒の働き 20章19〜23節

1.「見たが、理解できなかった」
 復活のイエスはこの不安と恐れの中にあっても、変わらずここにおられ、私たちにいのちのみ言葉を語ってくださいます。
「その日、すなわち週の始めの日の夕方のことであった。弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、」19節
 イエスがよみがえられた日の夕方です。その日の朝、マグダラのマリヤがイエスの身体が葬られている横穴の墓にやって来たときに、墓の入り口の大きな石が動かされているのを見てすぐに弟子達に知らせました。そこで彼らは墓にやってきて墓が空であり、イエスの死んで葬られたはずのその身体がないのを見ました。その時のことが書かれています。
「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入ってきた。そして見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」20章8〜9節
 「見て、信じた」とありますが、それは復活のことではなく、墓にイエスのからだがないこと、空っぽであることを信じたにすぎませんでした。むしろ9節にあるとおり、それが死んだイエスが約束の通りよみがえったのだということについてはまだ理解できていなかったのです。ここに「聖書を理解していない」ともあります。イエスは死ぬ前にもう何度もよみがえりのことを伝えてきました。そしてそれは聖書の預言で約束されてきたことだとも言ってきたのです。しかしそれでもこの時、イエスがよみがえったということや、その意味やそこにある罪の赦しと新しいいのちなど救いの実現も弟子たちは理解できなかったのです。そして10節でこう続いています。
「それで弟子達はまた自分のところに帰って行った。」10節
 弟子達は自分たちの所に帰って行ったのでした。その時、「イエスは復活した」、あるいは「イエスの言う通りに、預言の通りになった」と理解したなら、彼らは伝えずにはいられないでしょう。しかし彼らは戻って行くのです。確かに墓は空であり、遺体はありませんでした。しかしマグダラのマリヤも「誰かが取っていった」と言ったように、しかもローマに処刑されたわけですし、ユダヤ人の企てによってその処刑はなされたのですから、その無くなったイエスの身体も、ローマ兵が石を動かして移したか、誰かが取っていったのだと理解できる範囲で考えるのが普通であったことでしょう。ですから人間の理性では理解できないことである「復活された」とはならず、「誰かが取っていったのだ」と推測するしかない弟子達であったのです。むしろその出来事は、さらにこれからの心配や恐れを募らされたとも言えます。それが今日の所、19節につながっています。この日の夕方です。弟子達は戸をしめていたのでした。ユダヤ人を恐れてです。

2.「イースターの幸い」
 対照的です。イエスの復活、それは重く閉ざされた墓の扉、兵士二人でなければ動かせない墓の石の扉は、動かされ、「開け放たれて」います。そして、よみがえったイエスがそこから「出て来て」そこにはいません。そしてマリヤに現れました。一方でよみがえったと理解できない弟子達はその逆です。イエス様の十字架の死以降、悲しみと失望で、扉を「閉ざし」部屋に閉じこもっていました。まさに閉ざされた墓のようです。そして空っぽの墓に彼らは悟ることが出来ず、またこの部屋に戻ってきて、戸を閉ざしています。そしてそこにあるのは「恐れ」です。これを書いたヨハネもそこにいた訳ですから、まさに弟子達のその日の、この夕方までのその姿、そして彼らが本当に何も出来ずに何も分らずただ恐れていた、そのことがよく伝えられていると思います。
 しかしながら、そのところにイエスから復活の恵みと幸いがもたらされますね。こう続いています。
「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子達は、主を見て喜んだ。」19〜20節
A,「よみがえられた事実」
 イースターの幸い。まずヨハネは、イエスの十字架と死、そして復活が、歴史的な事実であることを伝えています。「これは本当に起こったのだ」ということをヨハネは私たちに伝えています。墓の入り口の重い石の扉が取りのけてあったという事実、墓が空だったという事実、そしてそれを見て、事実であったと信じた事実、彼は事実として書いているでしょう。そして何より彼は使徒として非常に尊敬されていた1人でありましたが、自分達、使徒達の恥や無力さをあからさまに告白して記しています。「自分達はイエスが「よみがえる」と言っていたことも、聖書も、預言も、イエスのメッセージ、伝えていたことも、まったく分っていなかった、理解していなかった、理解できなかった、そしてそのよく知らせを聞いても、空っぽの墓を見ても、部屋に帰って戸を閉ざしていたと、そして恐れていた」と。まさにこれは、偉人伝やドラマティックな物語の創作ではなく、事実の記録としてヨハネはこの日のことを語っていることがわかるのです。そしてその彼らの罪深い現実である「恐れの部屋」に、イエスは確かに来られた。そしてイエスが確かに三日前に、あの十字架で手と足にくぎを打たれたとの手と足を、そして三日前に確かにローマ兵がわき腹に突き刺したそのわき腹を示された。幽霊ではなくその身体をです。このように、イエスの十字架の死も、そしてこのよみがえりも、確かに起こった。そしてヨハネの告白の言葉が伝わって来るようです。「わたしはそれを確かに見たのだ」と。イエスの復活は、歴史のある時に、確かに起こった、確かに現わされた神の恵みの証しであるということを、このところはまず私たちに伝えてきているのです。
B,「イエスから」
 そして、ここには更に素晴らしい事実があります。それは「イエスから」この部屋に入ってきたこと、そして「イエスから」その身体を示されたということです。弟子達はどうであったのか。見てきた通りです。彼らはマグダラのマリヤの知らせを受けても、そして実際に見に行って、空っぽの墓を見て信じても、イエスがよみがえられたということは分りませんでした。イエスが何度も伝えてきたことなのに、彼らはよみがえりは理解できませんでした。そして部屋に戸を閉ざし、恐れ閉じこもっていました。弟子達には何も出来なかったでしょう。まさに彼らは十字架についてはもちろん、復活についても、何も出来ません。無力で無知で、信仰においても弱り果てて、恐れてしまっています。しかし、はっきりとしているではありませんか?そこに、その閉ざされた部屋の中に、イエス様方から入って来られた。イエスの方から、語りかけられた。「平安があるように」と。そしてイエスがイエスのその十字架のからだを示された。イエスの方からこの弟子達に、すべてを現わしてくださっている。そして、恐れていた彼らが「喜んだ」とある通りに、イエスがイエスの方からそのように入り、来られ、示し現わしてくださることによって、彼らに全てを、喜びを与えている、その恵みが分るではありませんか。ヨハネが自分たち使徒達の弱さ、無力さをそんなにもまざまざと正直に示す意図が分かります。それはすべては神の恵み、イエス・キリストの恵み、イエスの方から、このような「罪深い閉ざされた部屋、閉ざしたこころへ」「罪深い自分たちのところへ」、という福音のメッセージの証しを伝えるためであることがわかるのです。
C,「恐れから平安と喜びへ」
 そしてそこにあった大きな変化、イエスが与えてくれた更なる復活の恵み。それは、もちろん主がよみがえられたという理解と信仰もそうでしょうけれども、ここで注目したい大きな変化は平安と喜びです。平安と逆の言葉が先にありました。「彼らは恐れて戸がしめてあった」と。恐れです。彼らは恐れていました。平安がありませんでした。しかしイエス様は「平安があなたがたにあるように」、「シャローム」です。そして、もう一つ、彼らは主を見て「喜んだ」とあるのです。「喜び」です。それはイエスが十字架にかかる前に約束したことです。十字架への道は暗く、苦しみと痛み、悲しみに満ちている。そして死を意味する。私たちはそのように暗いものを思い浮かべます。確かにそうであり、確かにイエスは苦しんで死なれます。しかしイエスはそのご自分の十字架の死と苦しみを通して、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与え、そこに神の国があることを伝えてきました。そして何よりそれは私たちに喜び、平安を与えるためであると。喜びについてこう言っていました。ヨハネ16章20〜22節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかしあなたがたの悲しみは喜びに変わります。」
「女が子を生むときには、その時が来たので苦しみます。しかし子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはや激しい苦痛を忘れてしまいます。」
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
 このところはその通りではありませんか。そのイエスが言った通りでしょう。弟子達の悲しみは喜びに変わった。もう一度あったその時、新しく生まれたその時、復活の時、あなたがたの心は喜びに満たされる。その通りではありませんか。そして平安についても約束がありました。先週も引用しました。ヨハネ14章と16章のことばです。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」14:28
「わたしがこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」16:33
 このように約束していました。その通りです。よみがえらたイエスのことば、それはただの挨拶ではない。それは平安の成就です。弟子達、私たち、そして信仰が与えられ信じ洗礼を受けるすべての人に、喜びと平安を与えるためにこそ、イエスは十字架にかかって死なれ、よみがえらえれた。まさにその約束の成就をイエスは告げているのです。
D,「平安から遣わされ始まる」
 そしてそのイエスのよみがえりは、なぜ私たちと関係があり、私たちの救いとなるのでしょうか。私たちと関係のないかのように私たちは思うのではないでしょうか?しかし、イエスはこう続けています。21節
「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 イエスのことばはただ挨拶、ただ宣言だけではなく、この十字架と復活から始まり歩んで行くための平安。ここから安心して行くことができる平安、つまり罪深い私たちが、恐れから解放され、本当に日々生き生きと脈打ち、復活のからだに生きる平安のうちに遣わされいく、そのように私たちに事実として与えられ日々の歩みに満ちる平安であることをイエスは意味しています。このようにイエスの復活は決して過去のイエスだけのものではありません。私たちと無関係のものでは決してない。むしろイースターは1年に一度の出来事ではなく、365日、いつまでも続く恵みであるということに他なりません。パウロはこう言います。
E, 「日々新しい」
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死ににあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩をするためです。」ローマ6章3〜4節
 彼が日々新しい、救いと神の国素晴らしさを伝えています。私たちが受けたイエスによる洗礼に生きる日々です。それは、イエスの十字架の死にあずかる洗礼であり、それは私たちもイエスとともに葬られ、そして、イエスがよみがえられたように、私たちもいのちにあって新しい歩みがあるのだということです。6章8節では、キリストとともに死に、キリストとともに生きるともパウロは伝えています。つまり、私たちはイエスがよみがえれた、その新しいイエスのいのちが今日も与えられている。そしてそのよみがえれたイエスとともに私たちは日々よみがえって、明日も明後日もいつまでもそのイエスの復活のいのちにあって、日々、新しいいのちが、新しい歩みがあることをパウロは伝えています。ですからイエスの復活は無関係ではなく、むしろ私たちの日々の復活、日々の新しさ、日々のいのちです。私たちは若くても、あるいは、いくら年を重ねても、この困難と不安の時代であっても、それがたとえ死の日であったとしても、イエスの洗礼に生かされているのです。そしてイエスとともにある私たちは、その十字架と復活のイエスのゆえに、日々、罪赦され、日々、新しいのです。それが私たちが受けた救いです。日々、イースターです。日々、私たちはイエス様の復活のいのちにあって新しくされ続ける、これがまさに私たちが神の国にあるその歩みの事実、恵みなのです。そしてそのイエスにあるいのちは、喜びであり平安であるのです。私たちはこの、十字架と復活のイエス様のゆえにこそ、イエスがともにあるからこそ恐れる必要はありません。それは日々、イエスの復活のいのちと新しさにあって「あなたの罪は赦されている安心して行きなさい」と遣わされ、行くことができるからです。ぜひこのイースターの恵みを覚え、安心してここから歩んで行こうではありませんか。