2023年8月27日



「永遠に変わらない神さまの愛」


旧約聖書:ホセア書 11章8節〜11節



ホセア書は全部で14章あります。1章から3章までは、ホセアの結婚生活と神さまとイスラエル民族の関係をオーバーラップさせて比喩的に預言が語られました。4章から7章までで直接的に、具体的にイスラエルの罪が告発されました。今回は8章から11章までお話しさせていただきたいと思います。

預言の背景をご説明します。

ホセアが預言をした場所は北イスラエル王国になります。

時代は、ヤロブアム二世の時代から北イスラエル王国がアッシリヤに滅亡させられる直前くらいまでの間で、ヤロブアム二世の時代にダビデ時代の再来を思わせるような最高の繁栄を経験して、その後、ヤロブアム二世の死後、政治的経済的試練を経験したような時代でした。



T.ヨシュアの時代の契約


まず、ヨシュア記を少しだけ読みたいと思います。

ヨシュア記の一番最後の部分を読むと、北イスラエル王国に対して、なぜ、神さまがものすごく怒っているのかというのがよく分かると思います。ヨシュア記というのは、エジプトから脱出してきたイスラエル民族が、モーセの死後、ヨシュアを指導者として神さまが与えると約束された地を獲得していく様子が描かれた書です。

ヨシュア記 23章4節〜6節

ここで、ヨシュアは、モーセの律法の書に記されていることを守り行いなさいとはっきり言っています。さらに、もし、イスラエル人たちがモーセの律法を破るなら、神さまはイスラエル人たちを滅ぼす、と言っています。

ヨシュア記 23章11節〜16節

ここの箇所の最後の16節で、ヨシュアは、はっきり偶像礼拝をしないように言っています。そして、イスラエル人たちも偶像礼拝はしませんと答えています。

ヨシュア記 24章14節〜27節

この箇所で、イスラエル人たちは、はっきりと自分たちの言葉で「私たちは主に仕えます。」と言っています。ヨシュアに、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。」と否定されているにも関わらず、自分たちで「絶対に偶像礼拝はしません!」と約束しているのです。

偶像礼拝の禁止は、モーセやヨシュアによって押し付けられたものでは無く、イスラエル人たち自身が自分たちで偶像礼拝はしませんと神さまと契約したものです。だからこそ、ホセア書や他の預言書で、預言者たちは強い調子でイスラエル人たちの偶像礼拝を糾弾し、なんとか止めさせようとしています。

アモスやホセアは、偶像礼拝をやめなければ北イスラエル王国は滅ぼされてしまうと、何回も警告しています。そして、その警告は北イスラエル王国の滅亡直前になって急に言われるようになった預言では無く、イスラエル人たちが約束の地に入ったときから警告されていました。



U.偶像礼拝に判決が下る


それなのに、イスラエル人たちは偶像礼拝をやめることができませんでした。ヨシュア記の23章24章で、絶対に偶像礼拝はしないと約束しているのですが、この後まもなくヨシュアが亡くなると、イスラエル人たちはその舌の根も乾かぬうちに偶像礼拝を始めます。これは、神さまに対する契約違反です。

神さまは、ホセア書の1章から3章までを使って、ホセアの結婚生活とイスラエル人たちの信仰生活をオーバーラップさせることで、イスラエル人たちが偶像礼拝をすることはいかに神さまを苦しめているかを知らしめました。ホセアの妻ゴメルが姦淫の罪を犯したことでホセアに与えられた苦しみは、そのままイスラエルの人々が偶像礼拝を行うことで神さまに与えた苦しみでした。

次に、神さまは4章から7章までで北イスラエル王国の人々の罪を告発されました。その告発の中心は、北イスラエル王国の人々が神さまについてあまりにも無知であること、そして無知からくる偶像礼拝でした。

そして、8章からついに、北イスラエル王国に判決が下ります。

8章には、北イスラエル王国が裁かれる5つの罪が書かれています。


1)律法違反に対して(8:1〜3)

一つ目は律法違反です。ここに、北イスラエル王国の人々が契約を破ったからだと書かれています。


2)不法に立てられた王(8:4a)

二つ目は不法に立てられた王です。そもそも、神さまはイスラエル人に王さまは必要ないというお考えでしたが、イスラエル人がどうしても王さまが欲しいというので、仕方なく王さまが立てられたという経緯があります。なのに、北イスラエル王国は、すでにダビデの家系でも無く、神さまによる選びでも無い王さまが次々に立てられ、暗殺により王朝が交代するということが起こりました。


3)金の子牛(8:4b〜7)

4節の後半には三つ目の罪、イスラエル人たちが偶像を作ったことが書かれています。これは、金の子牛のことで、人間が作ったものです。この、金の子牛が神さまであるはずがありません。


4)外国依存に対して(8:8〜10)

四つ目の罪は外国依存です。これは、北イスラエル王国の人々が神さまに助けを求める代わりにアッシリヤに保護と同盟を求めたことです。


5)表面的な礼拝に対して(8:11〜14)

五つ目の罪は表面的な礼拝です。人々は、悔い改めの為にたくさんの祭壇を作りましたが、結局そこで行われたのは偶像礼拝だったので、全く悔い改めになっていませんでした。


そして、9章10章でイスラエルに判決が下ります。(聖書を開いてホセア書9章10章をお読みください。)

この預言の通りに、まもなく、北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされて、生き残ったイスラエル人たちは捕囚の民となりました。



V.神さまはイスラエルの民を愛しておられるということ


北イスラエル王国は滅亡しましたが、イスラエル人が根絶やしにされたわけではありませんでした。それは、神さまが北イスラエル王国の人々を憎んで国を滅ぼしたわけでは無いからです。

11章には、そんな、神さまのイスラエルへの愛が書かれています。

11章では、神さまとイスラエル人たちを夫婦の関係になぞらえるだけでは無く、親子の関係も比喩として使われています。神さまは、イスラエル人たちがまだヨチヨチ歩きの頃から愛情深く養い育ててきました。しかし、イスラエル人たちはこのような神さまの愛を退けました。イスラエル人たちは、ヨシュア記の最後のところで、「私たちは主に仕えます。」と約束したのですが、その約束を破ったので、滅ぼし尽くされても仕方の無いところまできていました。

ペテロの手紙第二 3章9節に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と書かれていることは、新約聖書の時代になってからだけのことではなく、旧約時代のイスラエル人たちにも当てはまります。神さまは、何百年もイスラエル人たちが悔い改めて偶像礼拝を止め、神さまに立ち返ることを待ってこられました。だれも、滅んでほしくないからです。しかし、もう、イスラエル人たちは滅ぼし尽くされても仕方の無い瀬戸際まで来てしまいました。

それでも、神さまはイスラエル人たちを愛していて、どうしてもイスラエル人たちを滅ぼし尽くすことができません。神さまの正しさは、北イスラエル王国の人々を滅ぼさずにはいられませんが、神さまの愛は、彼らを滅ぼし尽くすことができません。国は滅び、人々は捕囚の民となりましたが、彼らには回復の預言も与えられています。



W.神さまは、私たちも愛してくださっている


さて、神さまは、私たちのことも同じように愛してくださっています。私たちも、神さまを信じていても罪を犯してしまうことがあります。しかし、神さまの愛が変わることはありません。もし、罪を犯しても、心から悔い改めるなら赦されます。

私たちは、私たちに何か良いところがあるから、神さまに愛されているのではありません。神さまの愛は、神さまからの一方的な選びです。私たちには何一つ良いところはないけれど、神さまは私たちを選んで、私たちを愛してくださいました。これは、イスラエル人の選びと同じです。

私たちは、神さまに愛してもらうために何かをする必要はありません。必要が無いというよりも、私たちにできることはありません。私たちにできるのは、その神さまの愛に応えることだけです。神さまの愛と救いは無条件です。私たちに必要なのは、神さまの愛と救いを受け入れて「信じます」と言うことだけです。

私たちの中から出てくる、良い行いをしたいという思いは、自分が救われるためではなく、すでに救われているので、世の人々に私たちを通して神さまを知ってもらうために、私たちの中から出てくるものです。もし、神さまから選ばれているから、神さまから愛されているから、あとは、何をしても悔い改めなくても赦されると思うなら、それは、滅びへ向かっていったイスラエルの人々と同じだと思いませんか?

十戒の第一戒が「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」であることは私たちの信仰生活にとって非常に重要なことです。私たちは、天国に行くまでは完全ではないので、どうしても、罪を犯してしまいます。でも、絶対に犯してはいけないのが偶像礼拝の罪なんです。私たちは救われているからこそ、罪を犯したら心から悔い改めて神さまに立ち返ることが必要です。神さまに救われるために、愛されるためにではなく、救われているから悔い改めるのです。

私たちは、この末期の北イスラエル王国の人々と比べたら、罪深くないと思いますか?きっと、神さまからみたら、ほんの些細な差しか無いと思います。神さまが罪深い北イスラエル王国の人々を愛して、完全に滅ぼし尽くすことができなかったように、私たちも神さまに愛されていると思いませんか?

ぜひ、次の御言葉もお読みください。


ヨハネの手紙第一 4章8〜10節

8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。



<ホセア書 11章8〜11節>

8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

9 わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。

10 彼らは主のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。

11 彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。−−主の御告げ−−



説教者:菊池 由美子 姉