2020年4月5日


「神にあって、神の前にも人の前にも」
使徒の働き 24章1〜21節

1.「前回まで」
 前回、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った40人以上のユダヤ人が、祭司長達の所にやってきて、パウロを再び議会で尋問するからと呼び出すようにローマ兵にお願いし、そのようにパウロが議会へきたところでパウロに手をかける、という陰謀に直面したパウロを見てきました。もちろんパウロはそのことを知りませんでしたが、ユダヤ人達の陰謀の情報は漏れることになり、しかもパウロの姉妹の耳に入ったのでした。パウロの姉妹は息子を通してパウロにそのことを知らせ、パウロはその甥を通してその陰謀を千人隊長に知らせました。そこで千人隊長も、密かに計画をたて、パウロをユダヤ人が来る前にカイザリヤの総督のところへ移動させたのでした。そのところから、どちらも人間の建てた密かな計画ではありましたが、ユダヤ人たちの秘密の計画は、あっという間に千人隊長まで漏れ伝わったのに対して、千人ものローマ兵を率いた千人隊長の秘密の計画は、漏れることなくその通りに遂行された、その違いに目を止めました。そこにはイエスがパウロに約束された通りに、イエスはパウロと共にいたのであり、そしてイエスがパウロに与えた「ローマで主のことを証しすることになる」というその変わらない召命と計画がイエスによって達成されていくからこそローマ兵は用いられた、つまり主イエスが紛れもなく背後でパウロとご自身の計画のために働いておられたという、そのイエスの真実さと恵みの計り知れない大きさを見たのでした。

2.「「人の前」を気にした人間的な方策」
 さて今日のところでは、そのように総督の前にやってくるユダヤ人のところから始まります。彼らは23章最後のところで、千人隊長が総督に当てた手紙にありましたように、ローマ兵から、訴えは総督にするようにと、千人隊長の言葉を受け取ったことでしょう。彼らはその時にはじめて、パウロはもうすでに総督の下に移されてしまったことを知ったと思われます。彼らは自分たちの陰謀が失敗に終わり、非常に悔しい思いをしたことでしょう。そこで彼らは千人隊長のいう通り、今度は総督に訴えを言いにくるのです。1節
「五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。」
 五日後に、大祭司アナニヤが直々に長老たちとともにやってきますが、そこにテルトロというユダヤ人たち一団の訴えを弁護する者も一緒です。しかしテルトロが総督に語る内容はどういう内容であったかというとこう続いています。2節以下ですが、
「パウロが呼び出されると、テルトロが訴えを始めてこう言った。「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しておりますが、その事実をあらゆる面において、また至る所で認めて、私たちは心から感謝しております。」
 初めは、総督への賛辞を述べます。総督のおかげでイスラエルは素晴らしい平和があり、イスラエルは改革が進んでいると、そのことを心から感謝しますと。しかし現実として多くのユダヤ人は、ローマの属国、植民地となり支配されている事実をあまり良く思っていなかったようです。そしてその考え方の代表を担っているのが、実はこの大祭司などの宗教指導者たちや議会の人々でもありました。事実、紀元66年には歴史的な事実して、ユダヤ人たちのローマ帝国への蜂起、反乱が起こっています。ですから2、3節で彼らが語っていることは、心にもない事であり、いわゆる調子のいい「おべっか」のようなもの、彼らが総督に気に入られ、有利に自分たちの願うように事が運んでいくための戦略にすぎません。テルトロはそのように弁に長け、口のうまい人物であったのでしょう。大祭司はこのテルトロをパウロを訴えるために選び出したという事です。
 大祭司はユダヤ教、ユダヤ社会のまさに宗教的指導者のトップであり、社会からも非常に尊敬もされていましたが、このようにいわゆる彼の戦略、方策は、非常に人間的です。そこにいわゆる「神の前」にあるという意識は、微塵も感じません。もし「神の前」にある自分をわかっているなら、人は神の前にはいかなる偽りも隠し通す事はできないわけですから、神の前に誠実であろうとするものです。それが本当の信仰でもあります。しかしこの宗教指導者は「神の前」を見失っています。「人の前」ばかり気にし、人の前である総督の前で、人の前の「勝利」や「成功」を手にするために、「人の前」の方法にどこまでも終始していることがわかります。前回、人の前の密かな計画が見事に崩れ失敗したにもかかわらずにです。しかもさらにその前には、議会でパウロの口から「神の前」という言葉が出てその大事さを気づかされる機会があったにもかかわらずにです。律法を大事にし神殿の礼拝を執行する祭司の長でありながら、彼らの律法主義的な信仰には、神と言う名は口先では出てきても、その心の中には神不在であったことがここからもわかるのです。私たちにとって大事なことも同じなのです。信仰にとってまず大事なのは、「神の前」の自分であることをいつでも知り、特に神の前ではどこまでも罪深い自分を認め、悔い改めの心であり、それがなければ人の前にいかに立派そうに見え尊敬されても、信仰の実質は無意味であるということを教えらるのです。

3.「証拠を示せない訴え」
 さて、そのように自分の口ではなく、テルトロの口を通じて人間的な訴えをするユダヤ人の一団ですが、その訴える内容を言います。4節以下ですが、
「さて、あまりご迷惑をおかけしないように、ごく手短に申し上げますから、ご寛容をもってお聞きくださるようお願いいたします。 この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは彼を捕えました。閣下ご自身で、これらすべてのことについて彼をお調べくださいますなら、私たちが彼を訴えております事がらを、おわかりになっていただけるはずです。」ユダヤ人たちも、この訴えに同調し、全くそのとおりだと言った。」
 テルトロを通じて語られるユダヤ人の訴えですが、共通しているのは、その事実が具体的ではなく漠然としている上、証拠を提示していないということです。「ペストのような存在」とか「世界中で騒ぎを起こしている」とか彼らは言っていますが、ペストのようにどのような有害性があり、どのような悪い広がりがあるかは全くいいませんし、その理由や根拠、証拠は全くありません。おまけに「世界中で」と、誰が調べたわけでもない、大きく見える「誇張」する言葉の代名詞がここで出てきます。よく「みんながそう言っている」「みんなが、みんなが」と、本当に全員に確認をとったわけでもなく、実際は、自分の周りや仲間の二、三人しか言っていないのに、「みんなが」という言葉を使い、何か全員の総意であるかのように自分の主張を大きく見せようとすることは社会では良くあるでしょう。「世界中」という言葉は、明らかな誇張、その類の言葉であり、つまり訴えに誠実さが全くないことを意味している言葉に他なりません。そして意味深い言葉として、「ナザレ人という一派」という言葉がありますが、これは当時、クリスチャン、キリスト教会が社会でどう認識されていたかを示す一つの材料となるものです。彼らはクリスチャンとか、キリスト教会という風に呼ばれていたわけではなく、ユダヤ教の一つの派、グループとして考えらえていて、ナザレ派とも呼ばれていたようです。そのことをこの言葉は示唆していますが、「一派」という言葉は、ギリシャ語の言語では、いわゆる英語の「heresy」の語源となる言葉が使われています。それは「異端」という意味です。つまり、当時のキリスト教会は、ユダヤ教の異端と思われ見なされていたことがここからも見えてくるでしょう。しかし彼らの訴えにはやはり誇張があり、パウロが一派の「首領」だと言っています。それも事が重大だと思わせ、パウロをいかにも悪く見せるための誇張だと言えるでしょう。何より彼らは何一つその証拠を示すことができません。それも当然であり、なぜなら彼らの訴えには事実に即さないものがあるからに他なりません。それもまた「神の前」にある自分を全く見失っていると言えるでしょう。それに対して、パウロです。総督がパウロに弁明するように言います。10節からです。

4.「パウロの弁明」
「そのとき、総督がパウロに、話すようにと合図したので、パウロはこう答えた。「閣下が多年に渡り、この民の裁判をつかさどる方であることを存じておりますので、私は喜んで弁明いたします。お調べになればわかることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上って来てから、まだ十二日しかたっておりません。 そして、宮でも会堂でも、また市内でも、私がだれかと論争したり、群衆を騒がせたりするのを見た者はありません。いま私を訴えていることについて、彼らは証拠をあげることができないはずです。 」
 パウロの訴え方は、おべっかも何もなく、総督が皇帝から任されている何より大事な務めのみを思い起こさせます。それは「民の裁判をつかさどる務め」という事実です。そこには厳粛さと国家と皇帝から託された信託があります。むしろ人からのおべっかで靡くような判断や裁判は、正義ではないばかりか、皇帝と国家、社会への不誠実となります。この事実を伝えるパウロの言葉は、ユダヤ人たちの葉の浮くようなおべっかよりも何倍も重みがあるものです。人が人を訴えたり、裁いたり誹謗中傷したりするときに、大いにして感情論になり、ユダヤ人たちがしたように、多数派工作や味方集めをして「みんなが、みんなが」という人間的なやり方になりやすいですが、パウロのやり方には学ぶところがあります。「神の前」の自分を認識しているからこそ、神から託された権力である地上の裁判権に対しても、彼はどこまでも事実だけを伝えるのです。この「神の前」があるからこそ、地上の人の前のことにもこのように誠実な対応が生まれてくるとも言えるでしょう。私たちも様々な問題に直面し、また隣人や様々な人への不満や不平や訴えがあるかもしれません。しかしそこでただ「人の前」の自己中心的な感情的打算的な方策は、文字通り「自分中心」を超えるものではなく「神の前」を見失います。そうではなく、どんなことであっても「神の前」にある自分、罪深い自分、そしてそんな私たちに、み言葉を通して神は私たちに何を教えているかから出発することがとても大切であることをこのところは教えてくれています。事実、彼は次のところで、彼の信仰を大胆に躊躇なく正々堂々と語りますが、「閣下の前」と同時に「神の前」にあっての言葉であることがわかってきます。14節から、

5.「神にあって、神の前にも人の前にも」
「しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。 」
 ユダヤ人たちは弁護士まで抽象的なことしか言えませんでしたが、パウロは自分が信じることを具体的はっきりと総督の前でも告白します。それは、ユダヤ人たちが異端と呼ぶその道について、パウロは、その道こそがユダヤ人の先祖の神に忠実に仕えていることなのであり、それは彼らの聖書、つまりパウロ自身、キリスト教徒、キリスト教会の聖書である律法、つまりモーセに与えられた神の言葉と預言の書にかなうことであり、その律法と預言がその通りに実現したことこそを自分もキリスト教も信じ、そして自分は伝えているのだと。具体的には、その律法と預言の言葉がはるか昔から約束してきた望みである、死者の復活のことを信じているのだと。パウロは具体的に自分の信仰を告白するのです。そして、その正当性はどこまでも、人の前で人が人の機嫌をとり自分の目的を達成するための「おべっか」とか「誇張」とか「感情論」ではありません。彼はこう言っています。
「神にあって抱いております。 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。 」
 パウロはどこを見ているでしょうか。事実、彼は「総督の前に」立ち、人の前にも立っています。人の前にも誠実であろうとしていますが、その誠実さの動機がどこから生まれるとのかわかります。「神にあって」とあり「神の前にも人の前にも、責められるこのない良心」とあるでしょう。パウロはいつでも「神の前」にあります。その聖なる神の前にはいかなるおべっかも偽りも装うことも通用しない、その真実で完全、聖い義しい、悔い改め、へり下るしかない「神の前」であるのはもちろんですが、しかし同時に、その「神の前」は、何よりパウロに変わることなく約束してきたイエスの前でもあるでしょう。「あなたとともにいる。だから恐れることはない。勇気を出しなさい」と約束されたイエスの前です。そう、その神の前は、つまり神であるイエスご自身が、パウロから一時も離れることなく側にいる、いつまでも「ともにいる」そのイエスの前、イエスの側、という意識、認識、信仰でもあるのです。ですから「神の前」は恐れと同時に、希望と平安でもあります。だからこそ「人の前」でもなんらおべっかを使う必要がない、人間的な戦略に終始する必要もない、人の前にも本当の意味で誠実であれるのです。ここに人の思い描くような華やかで実利主義的で表面的な強さとは無縁の、どんな状況でも、時がよくても悪くても、真の強さ、平安さがあります。その強さも平安をも決して、人の前の事柄は提供できません。それはイエスが「わたしが与えるわたしの平安。それは世が与えることができない」’(ヨハネ14章)とある通りに、真に「神の前」「キリストの前」「十字架の前」にあって、私たちに与えられ溢れ出てくる素晴らしい天の神からの賜物であることが教えられるのです。その賜物を、私たちに、今日もイエス様がこのみ言葉、福音の言葉を通して豊かに与えてくれます。み言葉に耳を傾けるものはすでに神の前にあり、神の前を見失っていないものです。今日もイエスは私たちの側にあって語り教えてくださったのです。そのイエスを信じましょう。与えてくださる罪の赦しと平安をそのまま受け取りましょう。そして私たちも遣わされる世は困難な世ではありますが、平安のうちにここから出て行きましょう。