2020年3月29日


「主の約束の真実さ」
使徒の働き 23章12〜35節

1.「前回」
 23章ではエルサレムのパウロを見てきています。エルサレムでのパウロは苦難の連続で、最初は、怒り狂うユダヤ人の群衆の前に一人晒され、そこでもイエス・キリストの福音を指し示しますが、群衆は受け入れずますます暴動は激しさを増しました。そこでローマ兵は今度は、議会へとパウロを連れてきますが、議会の人々もパウロの福音を受け入れず、結局は混乱と分裂で終わりました。しかしそんなパウロにこそイエスはともにおられ、そして勇気を出しなさいと言って下さった。それだけではなく、人の目には誰も受け入れず反発だけに終わり失敗したかのような状況ですが、イエスはパウロがそんなエルサレムでもイエス・キリストを指し示し証ししてきたとその働きを正しく評価し喜んでくださるとともに、「同じようにローマでも証しをしなければならない」と、イエスはその召命も計画も変えないしその約束も決して変わらないという恵みと幸いを見てきたのでした。その「勇気を出しなさい」の言葉から続くところが今日のところになりますが、しかし困難な状況は全く変わりません。しかし前回見てきたように、全ては背後にイエスの変わらない計画があるからこその出来事であると見えてくるのです。

2.「状況は変わらず」
「夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。」12節
 イエスはパウロの側にたって「勇気を出しなさい」と言ってくれました。それはともにいるという約束は確かに変わらず、この時も、恐れなくていいとイエスは遣わしてくださいました。けれども、その翌朝です。パウロへの危険はますます高まっています。ユダヤ人達は徒党を組んで、パウロを殺すことを実現するまで何も飲食いしない、と「誓い合った」とあるのです。この「誓い」は重いものであり、それは神に対しての誓いになり、成し遂げられない場合には呪いを伴うものと理解されていました。ですからユダヤ人たちの絶対実現するという意思の強さを感じさせる言葉でもあります。13節には、その徒党を組んで計画と誓いに参加した人物は、40人以上であったともあります。多いのか少ないのかわかりませんが、ただ一人を襲撃するために、40人以上だという異常さは伝わってきます。さらにこう続いています。
「彼らは、祭司長たち、長老たちのところに行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も食べない、と堅く誓い合いました。そこで、今あなたがたは議会と組んで、パウロのことをもっと詳しく調べるふりをして、彼をあなたがたのところに連れて来るように千人隊長に願い出てください。私たちのほうでは、彼がそこに近づく前に殺す手はずにしています。」14?15節
 彼らは、わざわざ自分たちの誓いを、祭司長、長老たちに言いに行きました。祭司長、長老たちというのは、これまで見てきたように、この前日、議会の場にいた人々であり、祭司長たちというのは、大祭司アナニヤがパウロの口を打てと命じたその取り巻きたちであり、パウロがアナニヤに「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。」と言った時に、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」(4節)と言った人々のことです。そんな彼らの所に、誓いを立てた40人以上のユダヤ人たちは、自分たちの誓いのことを言うのですが、ただ言うだけが目的ではありません。それは彼らの計画に協力してもらうためでした。その計画が15節です。祭司長と長老たちは、パウロをもう一度調べたいと議会に召集するようにローマの隊長に掛け合い、そのようにしてパウロがやってきたところを、襲撃して殺すと言う計画で、それに議会に協力してほしいということでした。ユダヤ人たちは、祭司長や長老たちはもちろん、議会も、それにかなりの高い確率で賛同するであろうと見込んでいたことがわかります。そうでなければ、当時の社会の宗教指導者たちの最高権力のところにわざわざ陰謀を報告しにきたりはしないからです。彼らはかつてイエスをローマの十字架刑に引き渡した人々でもありますし、また、キリスト教の迫害者であったパウロにダマスコの教会の迫害を許可した人々でもあります。そんなパウロが迫害者から180度逆の、キリスト教の宣教者としてイエスを救い主として指し示しているのですから、祭司長、長老、議会も、パウロを殺すことに賛成しないわけがなかったのでした。そしてその共通の敵と一つの残酷な計画において、前日、ひどく分裂し混乱した議会もユダヤ人とともに再度一つになったことでしょう。

3.「人の計画〜ユダヤ人たち」
 みなさん。ここまでを見るなら、人の前、人間の側の力や計画も、圧倒的なように見えます。宗教、政治、そして民衆の大多数が、一致団結して、巧妙な計画、ここには陰謀ともあります、そんな計画を立てて、強い権力を、しかも彼らの彼らなりの正義をもってです。まさに駆使しようとしています。人の計算や推測をするなら、その強大な権力と計画の前に、もはやパウロは何もなすすべがありません。その計画さえ知らないのです。しかしです。16節にこう続いています。17節まで
「ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営にはいってパウロにそれを知らせた。 そこでパウロは、百人隊長のひとりを呼んで、「この青年を千人隊長のところに連れて行ってください。お伝えすることがありますから。」と言った。」
 まず、どんなに強大な権力、どんなに鉄壁な計画のように見えたとしても、人間の権力も計画も、このように必ず穴があり、破れがあり、不完全なものです。その計画、陰謀の情報は、漏れることになりました。どのように漏れたのかはわかりません。しかし、実は隠して、影でこそこそやっていたり、うわさをしたり、悪き噂や中傷など、そしてそれは神の前はもちろんですが、人の前でも完全に隠し通せるものではないでしょう。神の前にはどこまでも明らかですが、人の前でも、不思議なことに、それは必ず明らかになるものです。どんな国家機密と呼ばれるものでも、必ず歴史の何十年後、何百年後であっても、明らかになりますし、多くはすぐに出てくるものです。この時も、出てきました。そして、なんと、それはパウロの姉妹とその子の知れるところになったのでした。姉妹やその子がキリスト者であったかどうかはわかりません。しかし、家族が危険に晒されるのは、黙って見ている人はほぼいません。相手が大きな権力であってもです。姉妹の子、つまり甥になりますが、彼は、それをわざわざローマ兵の兵舎までやってきて、そしてパウロのところまでやってきます。パウロは犯罪者として捕らえられていたわけではありませんでしたし、ローマ市民でもありましたので、訪問者との面会は許されていたと言われています。前回パウロが自分はローマ市民であると申告したことは、図らずもこのようなところで益となります。
 パウロはその知らせを受け、百人隊長を呼び、この青年が伝えることがあるからと、百人隊長の上官に当たる千人隊長のところに連れて行くようにお願いするのです。それが認められるのも、彼がローマ市民として扱われていたからであったと言えるでしょう。そのようにパウロの甥は、百人隊長によって、千人隊長のところへと連れてこられ、千人隊長は、ローマ市民であり犯罪の認められないパウロを丁重に扱う必要があったのでしょう。そのパウロの申し出を受け誰からも聞こえないところに行き、この一人の青年の話を聞くのでした。

4.「人の計画〜千人隊長」
「すると彼はこう言った。「ユダヤ人たちは、パウロについてもっと詳しく調べようとしているかに見せかけて、あす、議会にパウロを連れて来てくださるように、あなたにお願いすることを申し合わせました。 どうか、彼らの願いを聞き入れないでください。四十人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしない、と誓い合って、彼を待ち伏せしているのです。今、彼らは手はずを整えて、あなたの承諾を待っています。」 20〜21節
 と。ユダヤ人たちの権力を駆使した巧妙に隠して進めていた計画は、一気にローマの千人隊長にまで伝わることになったのでした。その陰謀を知ったローマの千人隊長ですが、面白いところですが、千人隊長も、「密かに」ことを進めます。22節ですが、隊長は、それがパウロの甥であると知っているかどうかはわかりませんが、その青年に、「このことを私に知らせたことは、だれにも漏らすな。」と命じて帰らせます。そして23節以下ですが、ふたりの百人隊長を呼び夜に、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えるように命じます。さらには24節ですが。「パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように馬の用意もさせ」ます。さらにですが、わざわざ25節以下にあるように、総督に書面によるメッセージまで書き送る丁重ぶりです。その手紙にもあるように、千人隊長は、彼がローマ市民であることを強調しています。そしてそこには彼はただの宗教上の律法の問題であり、犯罪者ではないというお墨付きまでも書いています。ローマ市民の扱いというのは、当時、この千人隊長が恐れるほどに、決して扱いを間違ってはいけないことが伝わってきます。そして、そのあとですが、31節以下、その千人隊長の計画の通りにことは進み、パウロは無事に総督のところに到着するのでした。

5.「イエスがその約束の実現のために」
A,「同じ人の計画ではあるが」
 ここで非常に面白いというか、ある意味、人の前には矛盾にも感じるところがあります。ここには二つの人の密かな計画が書かれています。それは千人隊長も「密かに」計画し、ことを進めましたが、それもユダヤ人たち同様、人の立てた計画であります。しかもそれはユダヤ人たちの40人以上と議会を合わせても、百人隊長と千人隊長の元にいる兵士の数の方が圧倒的ですね。ローマ兵が統制がとれていたとはいえ、それだけの数ですから、やはり人の計画と人の団結、当然そこにも、穴があるわけですから、情報が漏れてもおかしくはないですし、数が多い分、穴や情報が漏れる可能性も実は確率的には高いはずです。しかし、ユダヤ人たちの計画は見事に崩れ、一方で、ローマの千人隊長の計画も、人の不完全な計画でありながら、なんら漏れることなく、その通りに実現しました。もちろん当時の世界の権力と、よく統制の行き届いた兵隊であったという理由があったとしても、なんら妨害されることもなければ、情報が漏れることなく、パウロはカイザリヤの総督のことまで連れてこられるという計画はその通りになったのでした。皆さん、この違いは矛盾ですか。ただ単にユダヤ人とローマ兵の力の差ですか?いや、それ以上に、私たちはそこに働く神の計画と神の介入に信仰の目を向けさせられるでしょう。
B, 「イエスからの召しと計画は変わらないからこそ」
 そう、イエスにはパウロへの変わらない召命と計画があると見てきました。11節です。
「その後、主がパウロの側に立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。」
 イエスはパウロにしっかりと召命を与えていました。計画を伝えていました。それは「あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように、ローマでも証しをしなければならない」ーそのことです。皆さん。パウロ自身はユダヤ人たちの陰謀と権力の前に、無力でした。彼は知りもしませんでした。そしてローマ兵は、パウロの兵士や部隊ではありませんし、ローマ兵が皆クリスチャンであったわけでもありません。ローマ兵の助けを見込めたわけでもありませんし、彼が22章で自分はローマ市民だといったことも、今日のこの危機を見越して彼が使ったカードでもありません。彼がローマ市民だと申告したときには、こんなことが起こるなどとは知りませんでしたし、姉妹の子、甥が知らせるまでは何もわからなかったのです。まさにパウロには何の力も、計画も、策略もなかったですし、ユダヤ人の権力もローマの権力をも動かす力も、立ち向かう力も全くありません。しかし、ここに不思議があるでしょう。姉妹の耳に入り、甥が用いられたこと、甥がローマの兵営のパウロのところまでこれたこと、伝えられたこと、さらには千人隊長にまで伝えられたこと、そしてそこから生まれた千人隊長の密かな計画が、一切漏れることなく、実現したこと、全てが不思議ではありませんか。そう、そこには、主なるイエス・キリストの守り、力、導きがあったということです。パウロに約束された、神の変わらない、約束と計画がまさにそこに生きていて、先週も見てきました、イエスがコリントでパウロに約束した通り「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。誰もあなたを襲って、危害を加える者はない」そして、先週の約束の言葉の通り、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証しをしたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。」ーこのイエスの約束の通り、目に見えないイエスは、人の権力の何倍もの確かさとその力と真実さを表しておられる。イエスは確かに共におられる。側におられる。だから恐れる必要はない。そのことが一貫していることが何よりも教えられるのではないでしょうか。

6.「主の時に」
 もちろん、パウロもやがて殉教し死を迎えます。人間の目から見るなら、パウロは不死身ではなく、いつでも危険が回避されていくということではないのは事実です。パウロはやがて処刑され、彼の肉体は地に帰ります。しかしそれは神の矛盾ではなく、パウロも一つの罪人として死を迎えますが、しかし、イエスの計画のうちに用いられてきて、召命の通り、ローマでもイエスを指し示し証しして、そしてイエスのときに天に召された、全てはイエス様の完全な計画での出来事であったと言えるでしょう。このようにただ「人の前」だけを見るなら私たちはイエス様のこと、御旨、なさることはわかりません。しかし、神の前、み言葉のイエスの約束の前にあるなら、まさに恵み、召命、救い、助け、平安と益は、試練、苦難、死をはるかに超えて、完全で美しい。そのことこそ私たちに賜物として与えられている信仰の素晴らしさと強さに他なりません。もちろん世にあっては困難と混乱は絶えません。明日も人の前にあっては不安と壁しか見えないかもしれません。しかし神の前にあって、そこにはイエスの天の門が開かれ、私たちはそこを行き来し、豊かに牧草を見つけ安心できます。その幸いを覚えさせられながら、今週もイエス・キリストの福音と恵みのうちにここから遣わされていきましょう。