2020年3月8日


「神の前にあって」
使徒の働き 22章1〜11節

1.「前回」
 前回、パウロが暴動の群衆に語ったことは、攻めや裁きの律法の言葉ではなく、「兄弟たちよ、父たちよ」と親愛を込めた語りかけから始め、自分が神を迫害する迫害者であったという罪深さを告白し、しかしそんな罪深い自分に対して恵みの救い主であるイエス・キリストは、語りかけ救い出し、そして異邦人へ福音を伝えるために遣わして下さったという福音でした。そこから私達や教会も同じようにキリストの証し人として、律法や自分自身や自分の思いや感情を伝えるのではなく、神であるキリストが私たちのために何をして下さったのかを、つまり福音と救いの恵みを証しし伝えていくのだと見てきたのでした。そのようにパウロは自分を憎む相手に対しても福音を語るのですが、しかし福音を語るからと、人々がすぐにそれを受け入れるとは言えません。むしろパウロ自身が第一コリント1章で言っているとおり、知恵を求めるギリシヤ人やしるしを求めるユダヤ人にとっては、十字架の言葉は愚かでバカバカしく見えるものです。彼らは神の律法とその律法を行うことによって救われると信じてはいましたが、そのように行いや人のわざをより強調し、拠り所とし、より大事だとする人にとっては、福音の恵み、受けることから始まるという恵みの福音の教えに対しては、それだけではダメなんだと、力がないように、弱々しく見えたり、福音に反発したり、あるいは過激になると、神の教えに反しているとさえ言うものです。ユダヤ人の福音への反応は、律法を拠り所にしている彼らにとってはもっともな反応だと言えるでしょう。ますますユダヤ人の暴動は激しくなり、ローマ兵は、それを収めるためにパウロを鞭打って解決しようとしますが、パウロはそこで自分は生まれながらのローマ市民であると訴えます。そこでローマの隊長は恐れをなしパウロを祭司長や議会など宗教指導者たちのところに連れて言ったのでした。今日はその議会でのパウロの弁明になるのです。こう始まります。

2.「神の前に」
「パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」1節
 パウロはここでも「兄弟たちよ」と語りかけます。何を語りかけるのでしょう。彼は、「全くきよい良心を持って、神の前に生活してきました」とあります。大事な言葉は「神の前」と言う言葉です。人の前ではなく「神の前」にあって、自分はユダヤ人たちが断罪し告発し避難するようなことは一切していないし、その告発に対してなんらやましいことはないというのです。「神の前」にあってです。むしろパウロはいま「人の前」にあっては圧倒的に不利な状況です。人は大抵そのような状況で「人の前」の論理や価値観でで弁明しようとします。例えば良い弁護士を立てより論理的で法的な反論をするとか、あるいは数の論理で、敵にまさる沢山の仲間を集めたり多数派を形成し、おきまりの言葉「みんなこう言っている」と言ったり、あるいは感情論で感情に訴えるとか、あるいは「負けるが勝ち」と悪くなくても素直に告発を認めるとか、いずれも「人の前」の解決方法です。何れにしてもパウロは事実、今やそのような圧倒的多数の告発と憎しみに晒されてはいます。しかし彼は「人の前」ではなく「神の前に」あってと彼は訴えるのでうす。私逹はいつも「人の前」と同時に「神の前」にもあります。もちろんどちらも大事なことです。しかし私逹の信仰において、その「信仰の拠り所」をどちらに置くか、何を本当に信じているかによって大きな違いが生まれます。パウロは「神の前」にどこまでも拠り所を置いているのが、ここからわかるのです。
 確かに「人の前」にあっては、パウロに対する風当たりはもう台風、あるいは竜巻きなのみの強風です。ローマ軍が鎮圧にでなければいけないほどの、同胞であるユダヤ人たちからの罵詈雑言と間違った告発、敵意と殺意までも伴った圧倒的大多数による告発です。そんな大多数の意見に対して彼は「人の前」においては、まさに孤立無援の誰も仲間がいないし、代わりに弁明してくれる人もいない圧倒的な孤独です。しかしそんな「人の前」の強そうな声や告発、批判や悪口と言うのは、どんなに多数派であっても、神の前にあっては、正しいかどうかは誰もわかりません。いやそのような人の悪意ある声、噂話や嘘の告発、決めつけや文句、悪口や中傷、批判や非難の声というのは、どんなにそれが多かろうが少なかろうが強かろうが、人から出た以上のものではありません。それに、それはその特定の集団の狭い独りよがりで、真実や事実も冷静に確かめてもいない、不完全な人間の偏見や決めつけによるものが非常に多いです。現在は、SNSの普及で、言いたいことが言える反面、どれが真実な情報かは、発信している人さえ分からない場合も多いもので、ただ感動するかとか、感情的に許せないとかの基準だけ、つまり感情やフィーリングで情報の価値が決まっている現実は確かにあります。「人の前」の声とは昔もいまもそんなものです。パウロは「人の前」では圧倒的に不利で孤独な状況ではあります。しかしパウロは「人の前」の多数によるどんな偽りの告発であっても、「神の前」にあってはそれは決して正しくない告発であると知られており、神の前にあって神は全て真実をご存知であり神こそが弁明してくださる、そのように「神の前」を拠り所を起き、「神の前」にある自分、「神の前」にある自分の正しさこそ、求めているのがわかるのではないでしょうか?クリスチャン生活において、私達も言葉においても、また誰を批判するにしても、この「神の前」の大切さを教えてくれているところです。

3.「人の前を拠り所にする信仰:白塗の壁である大祭司と議会」
 事実、この後、人の前には、立派で、尊敬され、自分たちでも行いにおいても信仰においても立派だと自他ともに認める宗教指導者たちの、その「人の前」の信仰と、パウロの「神の前」の信仰と、対照的に描かれているのを私たちは見せられてもいるのです。そのパウロの言葉に対して、大祭司アナニヤです。
A,「大祭司アナニヤ」
「すると大祭司アナニヤはパウロのそばに立っている者達に彼の口を打てと命じた。」2節
 大祭司アナニヤというのは、エルサレムのユダヤ教神殿の宗教行事で、神に仕え、儀式を行う祭司のトップで、宗教の頂点に立つ最高権威です。彼は社会では立派で尊敬されてはいたようですが、無慈悲で残酷であったとも言われていて、66年にはシカリ党という熱心党によって暗殺されるという歴史的な記録もあります。大祭司アナニヤは本来は「神の前」に仕え「神の前」の祭事を執行するるものでありながら、パウロの「神の前」発言に怒りを燃やし、側近にパウロの口を打つように命じます。彼がそのように暴力による解決をしようとする性質が見えています。そんなアナニヤに対してパウロははっきりと言います。
「その時、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」3節
 「白く塗った壁」、英語では「whitewashed wall」で、「Whitewashed」は「水漆喰、漆喰を塗る、あるいは上部を飾る」という意味があります。その通りで、アナニヤは、表向き、外側は白く塗った壁でした。社会や宗教界からは大祭司として崇められ、尊敬され権威もありました。自他ともに認める「人の前」では一点の曇りもないような真っ白な人と見られていたことでしょう。しかしそんな彼を、神は打たれるとパウロは預言的にいうのです。そのことが後に起こる暗殺のことなのか失墜のことなのかそれは具体的にはわかりませんが、「神の前」にあっては、彼のその「白い壁」もその内側は白くないことは明らかであるとパウロは反論したのでした。事実、神はその人の外側ではなく、その心を見られると神の性質は聖書では一貫しています。あの裁き司であったサムエルでさえもエッサイの家に行きサウルの次の王様は誰が相応しいかを探した時に、サムエルは長子であることとかその容姿、背の高さとか見た目や「人の前」のことで判断しようとしました。しかしそれに対して神は長男から順番にエッサイの子供達を次々と退けサムエルに言いました。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」第一サムエル16章7節
 神の前にあってはうわべはおろかその心さえ隠すことはできません。全ては明らかであり、そしてうわべよりも神は心を見られると主ご自身がサムエルに言ったのでした。人は人の前を気にし、うわべを飾りうわべで人を決めますが、「神の前」はそれと違うのです。そして最後にまだ少年で貧しい羊の番をしているダビデを神は示していたでしょう。「人の心を見られる」「神の前」にあっては、白く塗った壁、それが一点の曇りなく綺麗な壁であっても意味はないのです。むしろそのような偽りの信仰に神の裁きは避けられないことまでもパウロは示したのでした。「神の前」は大事なのです。大祭司の周りはどうでしょうか。
B,「大祭司の周りの人々」
「するとそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言ったので、パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」4〜5節
 大祭司の周りの取り巻きは、パウロのその大祭司アナニヤへの言い方に対していうのです。「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と。彼らは、神を見ているようで、その代理人であるかのような見える権威である大祭司とその権威の方により重きを置いています。「神の前」にある自分を見るなら、それが大祭司であってもその取り巻きであっても、誰であっても、誰かを裁く事や攻撃することなどできず、むしろ自分の神の前の罪深さが見えてくるものです。しかし周りの人々は、そのパウロの「大祭司への」反論、言い方に、尊敬する見える権威である大祭司への敵対行為、侮辱とし、大祭司を罵るなかれと、やはり、目に見えない神よりもその「人の前」に目にも明らかな権威と権力に重きをおいて発言し行動していることがわかります。それは罪深い人間にとっては当たり前の行動かもしれません。人は何が「神の前」に正しいかではなく、そのように「人の前」の権力や権威や自分の利益優先で動くものだからです。そして、そのあとのパリサイ人とサドカイ人たちの議論も面白いです。6節以下ですが、
C,「サドカイ人たち」
「しかしパウロは、彼らの一部がサドカイ人で一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。」6節〜
 どちらもユダヤ教の一派ですが、パリサイ人はモーセの律法を重んじ死者の復活を信じる人々であり、サドカイ人もモーセの律法に立ちますが、死者の復活は信じない人々でした。サドカイ派は合理的な考えを持って、主に議会で多数派を占める人々でした。パウロは議会のパリサイ派の人々に対して、自分はパリサイ人であり、死者の復活という望みのことでこのように告発され裁判を受けているのだと主張するのでした。それに対して、この両派の間で、今度は議論になったのでした。この二派の議論も、サドカイ派は明らかに「人の前」のことを重んじている議論です。人の前、知恵やしるしを求める人々にとっては、復活なんて非合理的で人間の知恵や常識では誰も信じがたいことです。そして議会の多数派ですから、人の評判は誰よりも気になります。サドカイ派の議論は明らかに「人の前」の議論です。
D,「パリサイ人たちや律法学者達」
 ではパリサイ人や律法学者はどうでしょうか?彼らはモーセの律法を重んじ死者の復活も信じていました。神の言葉である律法に従おうとするその動機は「神の前」に近かったともいえます。しかし彼らはこの時も、そして何よりかつて、イエスに対して誰よりも妬みを抱き、イエスの福音の教えやイエスがこれまでの律法の教えや解釈の間違いをしっかりと指摘し福音による理解と教えを語ったことが、彼らのプライドと権威を傷つけました。まして律法を拠り所にして生きてきた人々です。自分は正しいと信じている人々ですから、その自分の信じる正しさへ沿わない福音の教えは受け入れがたいものでした。ですから結局は彼らの拘りは神の律法であるといいながら、それを行なっている正しい自分であり、それは「神の前」よりは「人の前」でした。「人の前」に拘る人というのは、プライドのゆえに自分の正しさを曲げて自分の間違いを認めることができません。パリサイ人は、神を語ってはいますが、人の前を越えられなかったのでした。

4.「神の前にこそ完全な恵みは尽きない」
 結局その論争に議会は終始してしまい、ローマ兵はパウロを兵営に引き下げるのでした。パウロの試練の日でしたが、しかし「神の前」を見ていたパウロに、神の恵みは尽きません。
「その夜、主がパウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたようにローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」11節
 主イエスは言われます。勇気を出しなさい。そしてあなたにある計画は変わらないと。イエスはパウロに直接現れ語ったのでした。かつて聖霊はパウロにコリントで、あなたはエルサレムそしてローマへ行かなければならないと、示しました。その同じイエスがここでもその召しも計画もなんら変わらないとその言葉を持って励ましたのです。パウロは思いもしない試練の連続です。しかしイエスの恵みも約束も、導きもその成就も決して変わらない。主はその御心のままに全てのことに働き益としてくださる。それは本当に真実な言葉、真実な約束、私たちへの変わることのない約束なのです。それが真実であり、かつてイエスが約束した通り、イエスはパウロとこの時も、共にいるからこそ恐れる必要はない。だからイエスはいうのです。「勇気を出しなさい」と。この恵みは、今も後もいつまでも決して私たちにおいても変わることがありません。私たちも「神の前」にあって、日々、悔い改めつつ、そこに立ついのちの泉、いのちの木、いのちの言葉である、その十字架の福音に日々生かされて、今週も歩んで行こうではありませんか。