2020年2月23日


「苦難にこそ主はおられる」
使徒の働き 21章30〜40節

1.「これまで」

 聖霊によって示され彼はエルサレムへと来たのですが、その道中の教会の人々は「エルサレムでパウロが捕えられる」と示されたため、パウロにエルサレムへは上らないようにと勧め、さらにツロの街では、アガボという預言者までが現れて、パウロがどのような姿で捕えられるかまでも伝えると、今度は一緒に同行していたルカまでもエルサレムへと上らないようにと説得しようとしました。しかしパウロはそれを受け入れず、イエスの言葉と聖霊によって導かれたのだから、自分は「主イエスの御名のためになら、捕えられ縛られることだけでなく、死さえも覚悟している」と、そのように弟子たちに言いました。弟子たちはもはや何も言えず、「主の御心のままに」と、ともに祈って送り出し、そのように到着したエルサレムであったのです。

 そのエルサレムでは教会の長老達に宣教の地でイエス様が異邦人たちに表された恵みを証しし皆で神を賛美しました。しかし長老達にとって心配なのは、エルサレムにいる律法に熱心なユダヤ人クリスチャンたちのパウロへの噂でした。それはパウロが「律法を守ってはいけない」と言っているという間違った事実でしたが、長老逹は、そんなユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解くために、誓いを立てた兄弟逹と一緒に神殿に上り誓いのための献げ物を彼らのために用意してあげて、一緒にその清めの期間を過ごすようにと提案したのでした。パウロはそれを実行しますが、その清めの七日が終わろとしていた時に、アジヤからやって来たユダヤ人達に見つかりパウロは「捕えられて」しまったのでした。

 そこから私逹は、人は色々心配し、パウロが捕らえられないように、他の人々と揉めないように、教会に混乱が起きないように、と、色々な計画を立てるのですが、その「人の計画」がその通りになるのではなく、イエスがパウロに約束した通りに、エルサレムへ行くということ、そして聖霊が示した通り、パウロがエルサレムで捕えられる事、そのようにイエスの計画のみがその通りになっていくということを教えられました。確かに「人の目」には、なぜイエスはそんな迫害に、捕らえられるという災いを計画し、パウロをそこに導かれるのかと、決して人の思いでは納得できない理解できない事ではあります。しかしイエスは決して災いや不幸を最終的な結論として備えているのではなく、その事を通して、イエスがなそうとする、私逹には計り知れない、思いを超えた私逹への大きな益、計画があるのだという事を教えられたのでした。その事を踏まてこそ、今日のこの災いと思える迫害の背後にあるイエスの意味と計画に目を向けることができるでしょう。


2.「混乱」

 30節にある通り、「町中が大騒ぎになり、人々が殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出した」後のことです。パウロは絶体絶命の寸前まで行っています。31節ですが、

「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。」31節

 パウロはアジヤからやって来たユダヤ人、彼らから扇動されたエルサレムの群衆によって殺される寸前です。アジヤのユダヤ人逹は、以前そのアジヤの地にやってきて福音を伝えたパウロを石打ちにしました。彼らがもうパウロは死んだと思うほどまで石で打った出来事でした。ですから彼らはそパウロを殺すということはなんとも思っていません。しかし彼らのその行動もいわば「信仰から」出た行為です。しかしそれはイエス・キリストの福音から出た福音への信仰ではなく、律法から出て、律法を拠り所とした律法主義的な信仰でしかありません。しかしそのような律法主義的な信仰は、このように、人への愛を生むどころかその逆で、むしろ人を裁く剣にしかならない恐ろしさがある事を、ここにも見ることができます。パウロはその彼らの「信仰という名の攻撃」によって、32節にあるように打たれ、捕らえられ縛られるだけではない死に直面しているのでした。しかしです。

「彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。千人隊長は近づいてパウロを捕え、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた」

32節

 打ち殺されそうになっているところに、街がまさに混乱状態なのですから、ローマの千人隊長が一団を連れてやってくるのです。その時ユダヤ人たちは打つをのやめ、そして、パウロは今度は、ローマの兵隊に鎖で繋がれることになったのでした。それは千人隊長は、パウロが何か悪い事をしたのだろうと思ったからでした。しかし群衆の混乱はローマの隊長が、それさえ確かめられないほど大きく、34節では「めいめいが勝手な事を叫び続け」36節では「彼を除け」と叫び、また35節では、「群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼をかつぎ上げなければならなかった」とある通りに、そのローマ兵の手の中にあるパウロにさえもあえて暴行を続けようとする者もいたことがわかります。


3.「苦難の中に主はおられるのか?」

 パウロにとっては苦難のどん底です。しかもパウロはその彼らがいうような、律法を守ってはいけないなどとは言っていませんし、ローマ兵が思い込んでいるような何か悪い事を行ったわけでも決してありません。彼はアジヤでもギリシヤでも、そしてこのエルサレムでも、イエス・キリストを指し示し、その十字架の罪の赦しを宣言し、恵みを証しして来た、福音の証人でした。そんな福音の証人が聖霊によって導かれたのは、聖霊がそのように捕らえられると預言したその通りに、捕らえられ、この死にも直面する状況です。しかもパウロは怒り狂い混乱する大群衆と千人隊のローマ兵に囲まれ、一人そこに置かれています。圧倒的な孤独です。誰もがこんなところに置かれたくない望まない状況ではありませんか。敗北的で屈辱的な状況ではありませんか。救いも助けもない、そして神も沈黙されているように感じさせられる、そんな状況です。

 しかしみなさん、人の目から見ればそうであっても、だからとこれはキリストの敗北であり、神の失敗なのでしょうか。神の計画ミス、見込み違いなのでしょうか?そして神は沈黙され、神はパウロを見捨て、神はここにおられないのでしょうか?人の目には、人の価値観や成功感、人の期待や願望では、まさにそこから外れたその状況しかここには見えないかもしれません。しかし、だからと、その私たちの判断の通り、神は失敗し、敗北し、パウロを見捨て、ここに神はいないのでしょうか?


4.「イエスの道。神のみこころであった」

 決してそんなことはありません。まず気づくでしょう。このパウロの道は、イエスと同じです。イエスが置かれたところも罪のない方が罪ある者とされた出来事ではありませんか。ユダヤ人たちの妬み、憎しみ、偽りの証言でイエスも逮捕されローマ兵に引き渡されます。そして鞭打たれ、罵られ、唾を吐かれ、重い十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘を登らされます。その前には、弟子たちに裏切られ、みなは逃げて行き、それでもついて来たペテロには、三度知らないと言われるでしょう。そしてその前の、ゲッセマネでイエスは「願わくばその杯を取り除けて下さい」と祈りましたが、まさに、この十字架において神は「杯を取り除けず」沈黙されます。そして、ローマの重罪人の処刑のためにかけられるこの十字架に、イエスもその手と足に肉体を刺し通され、ついには一人、死にまで従われます。

 しかしみなさん。聖書ではっきりと示されているでしょう。それこそが神のみ心であったと。イエスもゲッセマネで、最後に「しかし、父の御心のごとくなりますように」と祈りましたが、父が十字架のイエスに沈黙されているように思える、その十字架にこそ父の御心があったのです。イザヤ53章10節にこうあるでしょう。

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」イザヤ53章10節

 この言葉の通りに、そのイエスの苦しみ、辱め、孤独、そして死にこそ、神が計画された罪の赦しが準備されていた、御心があった、そしてその死の先にまさに復活があったわけです。しかもそれは誰のためでもない、それは罪深い弟子たちのためであり、罵るユダヤ人やローマ人のため、そして私たち一人一人のためでしょう。みなさん、この十字架を神が御心とされ、イエスにその御心を成し遂げさせたからこそ、神が私たちに備えてくださっていた、神の前にただ一方的に罪が赦され神の子とされる。「天の御国は心の貧しい罪人であるあなたのものだ、あなたの罪は赦されています、安心して行きなさい」と、イエスが与えると約束された全てのものは私たちにあるのではありませんか?


5.「福音の証人の道は、イエスの道」

 パウロの「福音の証人」の道もそれと同じです。あのステパノの死の先にもイエスの御心があり、ステパノの死があり迫害があり教会が散らされたからこそ福音は広がりました。パウロもその時に、迫害者である彼を召し出すイエスを経験しています。全ては何一つ無駄では無い。ステパノのあの石打ちの場にも、イエスはおられたことを見てきたでしょう。そのようにイエスは、人の目には敗北や挫折、屈辱、苦難、絶望、孤独と思われるところにこそイエスはおられるのです。十字架がそうであったように。それはその先に、神が私たちの益のために大いなる計画とその実現があるからこそなのです。復活がそうであったように。

 パウロも同じです。この状況にイエスはおられます。神の御心は生きています。決して敗北でも失敗でも無い。見捨てたのでも無い。このことを通してこそイエスはパウロを用いてことを行うのです。37節、パウロはその群衆に話して良いかと尋ねるでしょう。パウロはこの時も福音によって促されています。そこには聖霊も豊かに働いています。福音を語ろうとするのです。しかもパウロがギリシヤ語を話したために、ローマ兵は38節にある通りパウロを神殿破壊を企てたエジプト人のテロリストだと思い込んでいたのですが、そうでは無くパウロがローマ市民であることがわかったために、千人隊長はパウロの求めに応じて話すことを許し、ローマ兵に守られパウロはその群衆に話すことができるようになったのでした。イエス・キリストの福音をです。それはイエスがいつでもパウロと共におられ、その福音がパウロにいつでも働き、それこそ律法ではなく福音が信仰に働き、この人の思いをはるかに超えたことをさせようとすることがここに教えられることです。

 もちろんこの後、見ていくとわかるのですが、ユダヤ人達は、そのパウロの語る福音を聞いても「受け入れる」とはなりません。むしろもっと怒りが燃え上がります。しかしパウロはここでローマ兵の扱いの中に置かれることによって、かつてコリントで聖霊がパウロに示した通り、エルサレムへ行き、そしてローマにも行かなければいけないと言った、そのイエスの計画こそが実現していくことになります。もちろん困難の連続です。困難の連続では、人は「どこに神はいるのか」と疑い、信じられないのですが、しかしその困難の連続を通してこそ、イエスはその約束の通りパウロをローマへと導く、そしてそのパウロが「私逹は知っている」と証ししている通り、イエスは必ず、愛する人、召された人々のために、全てのことに働いて益としてくださる(ローマ8:28)、そのことがあるということです。そのことがここから教えられますし、この後のパウロの苦難の連続を見ていく時にも、それは神の矛盾では決してなく、私達の思いをはるかに超えたイエスは苦難の中にこそおられ、益のために働かれる、そのことを見ていくことができるのです。


6.「私たちの苦難の道にも主は常におられる」

 私逹が受けている新しいいのちの歩みも、その同じ約束と恵みに溢れているのです。これは決して人ごとで、私逹とは関係のないことではありません。私達も苦難の連続、なぜと思うことばかり、予期せぬこと、願い通りでは無いこと、失敗や敗北だと思えること、そしてその上、私達の罪深さも日々、溢れています。それは私達の日常、私の日常です。しかし、そこにこそイエスはおられるのです。そこにこそイエスの十字架は立っており、そこでこそイエスはいつでも悔い改めを起こさせると同時に、私達に罪の赦しを宣言し、「あなたの罪は赦されている、安心して行きなさい」と何度でも立たせてくださるのです。そしてどんな状況でも、それが時が良くても悪くても、希望と平安と喜びを見失わせずに、私達の思いをはるかに超えて用い、そして私逹も予期しない神の計画のうちに全てのことが益とされていく。それは決して変わらない約束であり、実際にその通りに実現していくのです。

 今日もイエスがみことばを通して与えてくださる福音の恵みをそのまま受け取り、その福音から溢れて出る平安のうちにここから遣わされて行きましょう。そして律法からではなく福音から溢れ出る信仰にあって、平安と喜びに満たされ、隣人を愛していこうではありませんか。