2020年2月9日


「人の計画ではなく、神の計画こそが」
使徒の働き 21章27〜30節

1.「前回まで」

 前回は、エルサレムへ到着したパウロを見てきました。エルサレムへ入る前、聖霊が「パウロは捕らえられる」と示しているからと、弟子逹はパウロに「エルサレムへ行かないように」と勧めましたが、パウロは、主の御心であるなら死さえも覚悟していると言って、その申し出を聞かず、弟子達からは「主の御心のままに」という祈りを持って送り出され、エルサレムへ向かったのでした。そのエルサレムでは長老逹の前で、パウロは、神が異邦人にために現してくださった恵みを証しし、それを聞いた長老逹は大変喜び賛美しました。しかし、長老逹にとって心配なのは、エルサレムに沢山いるユダヤ人信仰者逹で、彼らは律法に熱心なため、パウロの伝える福音を誤解し、パウロが律法に従ってはいけないと教えていると聞いているということでした。もちろんパウロはそのようなことを教えていないのですが、長老達は、ユダヤ人のクリスチャン逹に見つかり問題が起きる前に、パウロが決してそんなことを教えていないことを示すために、パウロに、請願を立てている兄弟を連れて神殿に行き、律法に従って献げ物をするように提案し、パウロはその通りに実行したのでした。前回はそこまでを見てきました。しかし今日の27節からですが、その長老逹の計画は思惑が外れていくのです。


2.「人の計画はならず」

「ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、」27節

 長老逹のパウロの安全のために考えた作戦はうまくいきませんでした。その誓願を立てた人々の献げ物を献げる期間の7日間がもうほとんど終わろうとしていた時です。「アジヤからきたユダヤ人逹」というのは、時は五旬節の祭りの時、多くのユダヤ人逹は各地からエルサレムへやってきていました。アジヤはパウロが何度も宣教旅行をして回ってきた地でありますが試練の地でもありました。行く度ごとに、その地のユダヤ人逹から迫害を受け、死にそうにもなった地域でもありました。おそらくこのアジヤから来たユダヤ人逹は、パウロのことをよく知っていますし、彼への憎悪がありますから、その時と関わりのある、あるいは迫害に関わったユダヤ人逹でもあったのかもしれません。そのパウロが宮に入るのを見て、彼らはアジヤでもそうでありましたが、群衆を煽って、つまり扇動して、パウロに手をかけるのです。そして、叫んで言います。


3.「パウロを捕らえるユダヤ人たち」

「こう叫んだ。「イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。」28節

 ここにある、パウロが「この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている」ということをしたということは全くなく、ユダヤ人逹の穿った解釈、偏見、誤解でしかないことでした。最後の「ギリシャ人を宮の中の連れ込んで、神聖な場所を汚している」については、29節でこう解説されています。

「彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。」29節

 エルサレムの神殿は、異邦人が入って祈ることのできる庭があり、入ることができないわけではないのですが、入れるのはそこまでであり、それ以上中に入ることは禁じられていました。エペソ人トロピモは、パウロがエペソからエルサレムへ登る旅に同行した一人であり、一緒に旅をしてきたのは事実でした。しかしパウロとトロピモがエルサレムで一緒にいるだけで、彼らはパウロがトロピモを宮に連れ込んだと思い込んでしまったのでした。もちろんそんな事実はなかったのですが、彼らに扇動された群衆は、騒ぎ立てます。

「そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。」30節

 人々は殺到してパウロを捕えて宮の外へ引き摺り出したのでした。


4.「律法の信仰」

 この所から教えられることは何でしょうか。

 まず第一に、律法への信仰、あるいは律法を基準、動機とした信仰の恐ろしさです。律法への信仰、あるいは律法的な信仰というのは、行いがそうならない時、あるいは誰かがその律法の通りになっていない時、期待通りではない時、このように批判と裁きが生まれ、攻撃的になります。律法ですから、自分の力で、そのストレスを解決しようともしますし、方法もいつでも神よりも人間の方法が優先されます。そのことが、ここに見事に現れています。信仰は決して律法ではありませんし、律法によって信仰も保つこともできないし、律法を中心とし、律法により頼み、律法に依存することが信仰でもないのです。聖書は、私たちの信仰は、イエス様からの賜物であると教えています。つまり恵みであり、福音によってイエスが私たちのうちに与えて下さった素晴らしい天の宝だということです。「それは誰も誇らないため」ともあります(エペソ2:8?9)。いやむしろ神を前にしては、私たちには何も自分を誇れるものはありません。しかし律法は、行っている自分に全てがかかっているわけですから、自分を誇るようになりやすく、自分が守っているかのような錯覚を生みやすく、しかも、自分は本当は完全に守れていないのに、隣人が守れていないことや欠点はよく見えて、自分には甘く、人には厳しくと、そこを突こうとする思いを生みやすいものでもあることが、ここのユダヤ人クリスチャン達、あるいはイエスも話された「隣の罪人のようではない自分を感謝します」と祈った、パリサイ人の祈りにも現れています(ルカ18:11〜12)。律法は聖なるものではありますが、それは神が使うからこそ聖であり、神が私たちの罪を示すために用いる聖なる言葉です。しかしそれが私たち人間が、他の人に対して用いる時、それは剣になる。そのことをこの律法に熱心な群衆の信仰には見ることができるでしょう。


5.「信仰は福音、全ては益とされる。だからこそ時が悪くとも平安で強い」

 しかし、ここで教えられることの第二に、人々は「パウロを捕え」とあります。見てきましたように、パウロがエルサレムへと入る前に、ツロに滞在した時に、ツロの弟子逹は聖霊によって、パウロがエルサレムで捕えられることを示されていました。そしてアガボという預言者を通しても、パウロはエルサレムで捕えられると示されていました。人々はそれゆえにパウロを愛し心配すればこそ、パウロにエルサレムへと行かないように強くお願いもしていました。そこにある人の思いは「そうならないように」でした。しかしパウロにとってはそれは主のなさろうとしていることを挫くことだと戒めました。そして、このエルサレムの長老逹も、パウロの安全はもちろん、教会に問題が起きないように、ユダヤ人の信仰者と揉めないようにと、教会を思っての計画であり勧めでもあったことでしょう。いずれも理解できないことではありません。しかしこのみことばが証ししていることは、人の思いや計画の確かさがなるのではなく、神のみことばと聖霊がどこまでも真実であり、神の御心、計画こそ、必ずその通りに実現するということではありませんか。

 そうなると誰もがぶつかるはずです。その主の御心と計画は、逮捕、迫害と、災いではないかと。災いが神のみ心なのかと。疑問を抱くでしょう。人の思いや感情では、納得できない、不条理で、残酷で、神は真実なのかと疑いたくなる状況です。そう、それは「人の目」から見るなら全く不条理で納得できないのです。しかし人のように不完全ではない完全な神、そしてどこまでも愛と祝福を御心とされるイエスにあって、苦しみや試練は最終結論では決してないということです。確かに苦しみや試練を御心とされても、それはただのプロセスでしかなく、むしろそのことを通してこそ、全てのことを益とされる、確かな間違いのない、素晴らしい計画と実現があるのだということが、私逹が今日も指し示されている信ずべきイエス・キリストに他なりません。


6.「聖書は神こそ真実の証し」

 事実、聖書はそのような神の完全な救いの計画の実現の歴史と記録でしょう。ヨセフは、なぜお兄さん逹の罪によってエジプトへと奴隷として売られ連れて行かれましたか。それはヨセフにとってのまさに納得できない「なぜ?」であり「神の不条理さ」に見えたはずです。しかしそれは、人の目からみればそうであっても、神の目から見るなら、約束の民であるヤコブの一家を救う為でもあり、そしてあれだけヨセフを憎んでいたお兄さん逹に悔い改めを起こさせるとともに、ヨセフとの和解へと導く為であったではありませんか?ヨセフは確かに壮絶な苦しみと試練の生涯へと導かれましたが、神は兄逹の罪さえも用いて、全てのことに働いて益としました。だからこそヨセフは兄逹に言いました。

「あなた方は悪を図ったが、主は良いことのはかりごととして下さった」(創世記50:20)

 と。そして確かに人の目から見るなら、そのエジプトに導かれたことが、奴隷に繋がり、ヤコブの部族、イスラエルの民にとっては、また試練と苦しみに導かれますが、しかしそこに神は出エジプトを計画し行うことによって、民にご自身こそ救いの神であることを信じさせました。そしてそのことがまさにイエス・キリストの雛形としてモーセは見ていたでしょう。そのイエス・キリストは、その理解できない神の計画の究極です。その救い主イエスは、なんと困難と貧しい状況で人知れず飼い葉桶の上に生まれ、最初の礼拝者は、貧しい羊飼いでありました。人の常識や価値観では理解できないことがそこにあります。そしてイエスは、罪人と食事をし友となり、この人たちを探して救い出すためにきたと神の国を伝えたでしょう。人の常識や計画では目を閉ざし蓋をしたい理解できないこと、人は避けた罪人の救いです。そして究極は十字架でしょう。神はこのイエスの願い、杯を取り除けてくださいの願いは退け、「父の御心のままに」こそを行うでしょう。それは弟子に裏切られ、鞭打たれ、罵られ、そして十字架に刺し通され、死ぬことに従わせます。なんということですか。救い主が、世の王が、神の御子が、この犯罪人の十字架で死ぬことに、神が導きました。しかし、その死がゴールでしたか?死で終わりでしたか?苦しみが最終的な結論でしたか?まさにこの苦しみと死を通して、全人類、私たち一人一人の神の前における罪の赦しがあり、そして復活があったからこそ、私たちに復活の今も生きているイエスのいのち、世が与えることのできない新しいいのち、平安、「日々新しいい」が実現しているではありませんか。


7.「神の真実さは昔も今もいつまでも変わらず」

 全て時かなって、主の御心、はかりごと、計画だけが実現している。それは、このように神のなそうとし、与えようとする、素晴らしい益が必ずあるからなのです。そのイエス・キリストの主なる神は、聖書の始めから終わりまで一貫し、昔も今も、これからも変らず、真実な神であるということ、それがこの所から示されていることに他なりません。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19:21

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

 それを信じ、信頼することも私たち自身には出来ないことです。つまりそのことを示されていても、「信じなければいけない」と律法が示されているのではありません。まさに今日も、福音の言葉を通してイエスが指し示されれていて、そのイエスが信仰を与え、強め、私たちにその信仰を実現してくださると約束してくださっているのが福音なのですから、ぜひ私たちは、今日も、全てを期待して、「今はできませんが、ぜひ、今日からの日々もイエス様の御心を行わせてください、そのような信仰を与えてください」と、ぜひ祈って行きたいです。それが、信仰は律法ではなく福音であり、そこにこそ、私たちが信仰生活を、たとえ何があっても、時が良くても悪くても、平安のうちに歩むことができる、恵みの賜物としての信仰の素晴らしさがあると言えるでしょう。