2020年1月5日


「みことばこそ御国を受け継がせる」
使徒の働き 20章25〜32節

1.「前回まで」

 使徒の働き20章では、パウロがエルサレムへと帰る途中、ミレトの街に立ち寄り、そこでエペソ教会の長老達を集めて語った、その言葉を見ております。それは俗に、エペソの長老たちへの告別説教とも呼ばれ、実際に25節ではパウロ自身も「私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています」とも言っています。しかしパウロのその推測ははずれ、テモテへの手紙第一の1章にもある通り、エペソの長老達にはもう一度会うことになるのでした。しかしパウロにとっては、前にも見てきたように、苦しみと縄目が聖霊によって証しされるエルサレムとローマであり、死さえも覚悟するほどなのですから、もう会えないと思うのは当然のことで、ゆえに彼にとっては最後の言葉でした。だからこそそこには彼がどうしてもエペソの長老たちに伝えておきたいことがあるのです。その部分が、26節以下からになり、パウロはいきなり改まって「宣言します」と語り出します。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」

 パウロは何を宣言するのでしょうか。宣言している相手は「長老」ですが、長老は、牧師であり説教者のことです。その彼らに「神のご計画の全体」というのは福音の約束のことですが、その福音を、あなた方に余すことなく知らせたと言います。つまり、パウロはエペソの長老達に、あなた方が牧師、説教者として、語るべきこと、伝えるべきこと、証しすべきことの全て、福音の約束の全てを不十分さなく、十二分に伝えました、だからそのあなた方長老達の裁きには私の責任はない、パウロはそう宣言するのでした。パウロは一体何のことを言っているのか、元旦礼拝ではそのことを少し触れましたが、読み進めていくと伝えたいことがだんだんと見えてきますが、パウロは彼らにこう勧めます。


2.「神がご自身の血を持って買い取らせた神の教会を牧させるために」

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」

A,「聖霊が召した」

 まず「監督」とある通り、長老とは監督であり、つまり牧師・説教者であることが、ここに分かるのですが、その監督である長老あなた方について、パウロは「聖霊は」とあります。ここでパウロは、長老、牧師、監督は、自分の意思や決心や、力、他の人間の選びや召しでもない「聖霊が」あなた方を建てたんだと、召命と存在の原点をまず思い起こさせています。「聖霊は」とあるということは聖霊と共に働く福音の言葉が、あなたを召し出した力でもあるということを意味しています。彼がそう言うのは、監督、牧師、長老であっても、その召命が「神から」来ているということを何より忘れ、逆に、その召命が自分の知恵や決心や力、人からの何らかの力であるかのように考えやすいことがあったからでした。パウロは、ゆえに召命の原因である大事な言葉、「聖霊は」とまずは示しているのです。

B,「神がご自身の血を持って買い取らせた神の教会」

 そして、聖霊は何のために召し出したのでしょうか。こうあります。「神がご自身の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために」と。ここには教会、キリスト教会は、まず「神の教会」とあります。教会は、もちろん地上の「人の前」、法律上は、代表者は牧師の名前がありますが、「神の前」にあって、教会は、牧師である私の教会でもありません。皆さんの教会でもありません。教団の教会でもありません。教会は、神の教会なのです。キリストの教会に他なりません。なぜなら「神がご自身の血を持って買い取られた」教会だからです。神の御子イエス様がそのご自身の血を持って、つまりその十字架の血の代価をもって、私たちを罪の奴隷、死の奴隷から、贖い、買い取ってくださった教会、つまり、そのイエス様の十字架の血潮と復活によって救われた人々の集まりであるからこそ、神の教会なのだと、パウロは言っているのです。ここには教会が伝え証しする救いとは何か、そして、その教会とは何かまでもここにはっきりと書かれているのです。それはどこまでもキリストが私たちをその十字架の死と復活であがなってくださり罪の赦しを与えてくださった、それが救いであり、私たちはそれを信じる信仰が与えられているからこそ、紛れもない真の教会であるということなのです。

C,「何を伝えるか」

 しかし、そうであるなら、そのキリストが私たちをその十字架の死と復活で贖ってくださり罪の赦しを与えてくださった、その神の恵みの福音がなく、語れず、福音に立たないなら、つまりその福音によって導かれず、その十字架の言葉である福音が説教されないなら、罪の赦しが教会で宣言されないならどうなるでしょうか?まさにその問いこそが、26節の長老への「あなた方の裁きについて責任がない」という言葉と、この28節の言葉の励ましとが繋がる鍵があると言えるでしょうし、ここで群れに気を配り、神の教会を牧しなさいの意味も見えてきます。それは見てきたように、そのように語られるべき、キリストが私たちをその十字架の死と復活であがなってくださり罪の赦しを与えてくださった、その神の恵みの福音が、やがてエペソの教会でも語られなくなるからこそ、パウロは、もう会えないかもしれないこの状況で、エペソの長老たちを集めて、この26?27節の宣言も、そして28節の言葉を語っているのだということなのです。事実、29節以下を見ると、なぜそのように励まさなければならないか、パウロはその神の教会においてやがて起こりうる危機について続けて述べていることからそのことが見えてきます。29節


3.「エペソの教会に起こる混乱」

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」

 29節、パウロが去った後に、「凶暴な狼が教会に入り込んで来て群れを荒らす」と言います。その「狂暴な狼が入り込み、群れを荒らす」という状況、確かにそれだけを見るなら、見るに明らかな暴力的な迫害者のことを言っているようにも思われます。しかし実はそうではありません。30節もう一度読みます。

「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」

 「あなた方自身の中からも」とあります。つまり教会内、長老たちの中からということですが、その中から「も」とあるのです。その内側から起こることは、福音とは曲がった事を語って、弟子たちを、つまり群れ、神の教会のことですが、その群れ、弟子たちを、「自分の方に」引き込もうとするものが起こるというのです。このように、狂暴な狼が群れを荒らす、その状況と同じ状況として、間違った、曲がった教えが入ってくるということ、そしてそれが長老たち、つまり牧師や説教者の中から起こることを指している事が分かるのではないでしょうか。つまり荒らされることも、混乱も、暴力的な迫害以上に、間違った教え、間違った福音のことをパウロは指しているのです。面白いことに、そのような間違った福音を語る説教者は、群れを「自分の方に引き込もう」とするという面白い表現があります。パウロが「神の恵みの福音」と言い、そのためには命を惜しいとも思わないといい、それは「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」とも言っているように、パウロにとっても、監督、牧師、説教者にとっても、神の教会で、群れに気を配り、飼い、導くという事は、自分を示して、自分につかせる、自分に引き込むことではなく、自分ではなく、律法と福音のみ言葉によって、キリストとその十字架を指し示し、キリストの福音の約束、キリストに導くことでした。それはバプテスマのヨハネもそうでした。しかしそうではなく、ある牧師、説教者たちは、キリストの福音を曲げることによって、キリストではなく「自分の方に引き込もうとする」ことによってこそ、群れは荒らされることをパウロは見ていたのでした。


4.「十字架の福音こそ」

 事実、その事は起こります。パウロはもう会えないと思いましたが再びエペソの長老たちに会うことになりますが、その時の状況がテモテ第一の1章3?4節の言葉でした。

「私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」

 この手紙は、パウロが再びエペソに滞在してテモテを残してマケドニアへ出発した後、獄中からテモテに当てられたものです。パウロはそこでエペソの長老たち、つまり牧師、説教者たちに再び会うのですが、そのある人たちが「違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたり」しているのを目の当たりにすることになるのです。

 このように20章の一節一節を見ると、このパウロのこの告別説教は、背景も複雑ですし、パウロが未来を見通した記録でもありますので分かりにくく難しいところではありますが、牧師、説教者のためだけでではない、教会にとっていくつもの大事な事が書かれています。何よりパウロは一貫しています。21節では益になる事は躊躇わず伝えて来て、それは「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」とありました。24節でも「主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする」とありました。27節でも「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」とありました。そして今日の28節、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために」とありました。そう、全てパウロの言うところのキリストの十字架の言葉、福音のことを指し示しているのがわかるでしょう。なぜなら、パウロがいう通り、その十字架の言葉、福音こそが、「滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」であり、「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵」だからです。だからこそ「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求し」たとしても「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」とパウロが言っている事が、何も変わらず、このエペソの長老たちへの告別の説教でも一致して貫かれている事がわかるのではないでしょうか?そう、これこそこのみことば、このパウロの説教が、私たちにも変わることのなく指し示されていることなのです。


5.「みことばこそ育成し、御国を受け継がせる」

 私たちが、何を拠り所とし、何に信頼し、何を判断基準にして、それがもちろん行いや、何を自分にしてくれたかで動き判断して、それは全く自由です。しかし、私たちが「聖霊が、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」であるなら、まずは、しるしを要求したりし、知恵を追求するのでもなく、何より十字架の言葉こそ、語られなければなりません。なぜなら、十字架の言葉である、神の恵みの福音こそが、神の力、神の知恵であり、だからこそ、その神の福音に聞くことこそ、パウロがいう通り、救いを受ける召された私たちにとっては、真に神から私たちへの益となるからです。パウロは、最後に長老たちにこう言っています。31節からですが、

「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

 みことばこそ、「聖霊が、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」、その群の一人一人を育成し、御国を受け継がせる事ができます。ですからここで語る者は、何を持って気を配り、牧し、何を語り教えるのか、何を指し示すのかが勧められています。それはイエス・キリストであり十字架の言葉でなければなりません。それ以外であっては神の教会では無くなるからです。そして聞く、受ける一人一人も、神が何を私たちに与えてくださり、神が何を語り、何をわたしたちは神から聞き何を受けるのか、それもイエス・キリストであり、その福音です。律法によって罪示され、その罪人に罪の赦しを日々得させるために、キリストは十字架にかかって死なれ、その血潮で私たちを罪の縄目と死から買い取ってくださった、だから私たちへ主は今日も宣言してくださる。「とって食べなさい。これはわたしの体、わたしの血。罪を赦すために多くの人のために流されるものだ」と。そして「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。イエス様が今日もここにおられ、みことばとパンとブドウを通して、福音とキリストが今日もここにあり、私たちに受けよと与えられます。ぜひ悔い改めと救いの確信と喜びをもって受け、安心して世へと遣わされて行きましょう。そしてその福音の力によって導かれるまま神が私たちを隣人のために豊かに用いてくださるように祈り求めて行きましょう。