2020年1月1日


「確かな福音」
使徒の働き 20章25〜27節

1.「前回から」

 24節では、パウロは長老達に福音は神の恵みであるということを思い起こさせ、そしてその神の恵みである福音を伝えることこそ使命であり、彼が命を失っても惜しいとは思わないほどであると述べたことを見てきました。しかしそこには逆説もあり、その神の恵みである福音をまっすぐ正しく伝えることは命を失うほどに難しいことでもあるということも見たのでした。なぜなら、パウロにとって福音とは十字架の言葉であり、イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死なれたことであったのですが、その十字架の言葉は、コリント書にある通り、しるしや知恵を求める人々、つまり目に見える事柄や人の行いで判断する人々にとっては愚かで躓きとなるからでした。むしろ人間にとって自らの力でその神の啓示である十字架の言葉、福音を信じることも、逸れずに立ち保つことも、またまっすぐ証することもできないものです。しかしだからこそ、イエス・キリストは、召された私たちに、力を与え強めるために、福音を語り聖餐を与え続けることによって、つまり、罪の赦しと新しい命を宣言し、絶えず慰め、平安与え、何度でも立たせ遣わしてくださるという、どこまでも「恵みのみ」があるのを見てきたのでした。


2.「もう2度と会うことがない」

「皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。」

 パウロはエペソの長老たちに、もう会うことはないと述べています。「私は知っています」と断言的に言っていますから、それは示された悟りがあったのではとも考えられますが、そうではないようです。実はパウロはこの後もエペソの長老たちに会っているのです。第一テモテ1章3節にこうあるのです。

「私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり」

 このテモテへの手紙は、よく獄中書簡と言われるように、パウロの宣教の後期の手紙と考えられ、捕らえられたところからテモテにあてて励ましている手紙です。つまり、この使徒の働き20章でエペソの長老たちを集めて語ったときから後の出来事になりますが、ここ見てわかる通り、「私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて」とあるのです。つまりパウロが、マケドニアへどこから出発するかというと、テモテがずっと止まることになったエペソからマケドニアへ出発することを意味しているのです。ですので、パウロはこの使徒20章の、ミレトでのエペソの長老たちへの別れは最後の別れではなかったということになります。ただパウロは死をも覚悟してエルサレム、そしてローマへと行くよう聖霊に導かれていたのは確かなので、会えないと思ったのは当然のことで、ですから、パウロにとっては告別説教であることには変わりはありません。

 しかしパウロはやがて、そのように再度、エペソの長老たちに会うことにはなるのですが、実は、それは決して喜ばしい再会とはなりませんでした。先ほどの第一テモテ1章の3節の後には、4節こう続いていますね。

「ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」4節

 ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない空想話と系図とに心を奪われたと、あります。「長老」とありますが、新約聖書の文脈において長老というのは牧師のことであり、説教者のことを指しています。つまり、ある人たちが違った教え、果てし無い空想話や系図の話をしたというそのある人たちというのは、エペソの長老たちの何人かであることを意味しているのです。つまり、ここでも福音をまっすぐ伝えることは本当に難しいし、語る者も聞く者も、どちらも先になる場合もあるでしょうけれども、皆、福音から律法にそれやすいことが示されています。面白いことに、そのことは、この使徒の働きの20章の告別説教のこの続きのところで預言的に記されているということです。


3.「余すところになく伝えたがゆえに」

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。」26節

 ここでパウロは「宣言します」と突然、改まります。もちろん「ですから」とあるとおり、これまで見てきた文脈を踏まえて宣言します。それは、

「私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。」

 というのです。この26節の「あなたがた」も、その「全ての人たち」も、それは長老たちを指しています。その長老たちの受ける裁きについて、パウロは自分には責任はないと突然言いだすのです。つまりエペソの長老の何人かは裁きを受けるというのです。パウロはそのことにおいて、私の責任ではないというのです。なぜなら、27節

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」

 「神の計画の全体」つまり、福音の約束のことです。その福音の教え、約束、それが何を伝え教えているか、つまり、あなたがた長老、説教者は何を伝えるか、それはもう私は十分に伝えておいた、伝え足りないということはない、これを伝えていなかったということはないから、パウロは私の責任ではないというのです。もし十分ではなく、伝えきれないところがあったり、あるいはパウロ自身が異なる福音を伝えていたなら、パウロの責任でもあったことでしょう。けれどもパウロはそんなことは一切ないというのです。イエス・キリストの福音の全て、十字架の言葉は全て十分に伝えたというのです。だから、あなたがたの裁きについては責任は一切ない、そういう意味なのです。

 ここでパウロは悟っているのです。それは、エペソの長老たちの中で、まさに、これまで見てきた通り、福音からそれて行く人がいることを見ていたのでした。そのことの一端が、前述の第一テモテの1章3?4節に他なりません。

 福音から逸れていった教え、それは具体的にどのような教えであったのか。それは次の日曜日に詳しく見ては行きますが、その間違った教え、福音以外の教えは、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない(テモテ第一1:4)。パウロは断言します。人は福音から律法へ逸れやすい。福音をまっすぐ伝えることは難しい。長老達でさえもそれていく。それは福音の教え、十字架の言葉こそが、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす唯一のものだからこそ、サタンはその核心部分こそを何よりも狙い、巧妙に誘惑し攻撃し、そして福音の平安から律法による平安へとすり替えて、教会の霊性を壊そうとしていることを改めて気づかされます。そのことはこの後の箇所からさらに書かれていますが、次回にし、今日は、ここから学びうるもう一つのことを見て終わりましょう。


4.「福音の確かさは明らかであり」

 それは、福音の確かさは、過去も未来においてもその通りに作用するほどに明らかであるということです。ここには、二つの未来への記述があります。

A,「人の推測の通りにはならない」

 一つは、パウロがエペソの長老たちにもう会えないということでした。パウロは聖霊の導きによりエルサレム、そしてローマに導かれており、そこでは苦しみと縄目とが待ってるということについては、聖霊が証しすることとして確かなことではありました。死ぬかもしれないということも確かなことではあったことでしょう。しかし、その示されている未来から、もうエペソの長老たちに会えないというのは、彼自身の類推、推測を超えるものではありませんでした。そのように、神の計画は確かであって、聖霊の証しも確かであり、神の約束はその通りになりますが、人間の思い描いた、類推や推測、計画や期待や願望、あるいはまして決めつけなどは、決してその通りにはならないということがわかるのではないでしょうか。かなりの確率で、もう会えないだろうと思ったからこそ、彼は告別説教をしました。しかしそれは彼が思い描いたような「もう会えない」ということの通りにはならなかったのです。むしろ再び顔を合わせるのですが、その再会は喜ばしいものではなく、その彼らの何人かは、福音から逸れた教えをするのを聞くことにもなり、その彼らの中に残ったテモテに彼らの教えに注意するようにと書くほどでした。何れにしても会えないという、パウロの推測、思いや計画、はかりごとはその通りにはならないのです。

B,「福音の言葉はその通りに」

 しかし、もう一つの未来への記述、それは、

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」26〜27節

 誰かが間違ったことを伝えることはその通りになります。もちろん誰がそれて行くかは推測はできてもパウロはわかりません。しかし、クリスチャンは立つべき福音にしっかりと立ちそこに生かされるか否かによって、未来は、その結果ははっきりとします。つまり、そのあますことなく伝えられた神の計画全体、十字架の言葉である福音は実に、明確ではっきりしていて、受けるものにとっては神の力になりますが、受け入れない、しるしや知恵を求めるものには躓き、愚かとなるし(第一コリント1:18)、そして伝えるときも、真の福音を信じて余すことなく伝えるときには神の責任のもとに置かれますが、捻じ曲げて違った教えや空想話に歪めて伝えるときには、救いの力にもならないばかりか、神の責任のもとに裁かれると、その結果を明確に分かつのです。それは過去も現在も、そして未来のいつまでも、福音のなすことは、全く明確ではっきりとしていて、その通りになるということが分かるのです。パウロは32節でこうも言っていますね。


5.「終わりに」

「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」32節

 神とその恵みの言葉、つまり福音こそ、キリスト者を育成し、御国を受け継がせることができる。だからパウロは、律法で励ますのではなく、神とその恵みの言葉、十字架の言葉、福音にあなた方を委ねるというのです。私たちも福音にこそ委ねられて行きたいのです。私たちは、今年のこのはじめも今年のキリスト者の歩みも、しるしや知恵に求めるものではなく、キリストが私たちに今日も与えてくださっている十字架の言葉、福音を受けるものです。そうであるなら、心配する必要はありません。神の計画のうちにしっかりと守られ、何が起こっても絶望する必要はない、キリストが与えてくださる平安に満たされ、安心して今年もここから出て行くことができるのです。そして、伝えることにおいても歪めることも捻じ曲げることもない、都合のいい空想話でもない十字架の言葉をしっかりと伝えて行くなら、神の責任のもとに、私たちの教会は今年も導かれて行くことでしょう。確かなのは人の知恵や行いやしるしではありません。十字架の言葉、福音なのです。ぜひ、しっかりとこの福音をまず受け取り、福音によって罪の赦し、「あなたの罪は赦されています」というみことばの約束によって、安心ひてここから遣わされていこうではありませんか。