2019年1月6日


「信仰にしっかりとどまるように」
使徒の働き 14章19〜28節

1.「はじめに」
 バルナバとパウロのよる宣教を見ておりルステラで起こった出来事を見てきました。ルステラの会堂でパウロが語っていた時、一人の足の不自由な人が聞いていました。彼はパウロの語る福音の言葉に信仰が与えられ、パウロはその彼に癒される信仰があるのを知り「まっすぐと立ちなさい」と言い彼を立たせました。しかしその驚くべき癒しに、ルステラの人々は、バルナバとパウロはギリシャ神話のゼウスとヘルメスの再来だと言い二人を神とした祭り上げようとします。それに対して二人は明確に拒み、自分たちは同じ人間であり、まことの生ける神がおられることを伝えるためにこそ福音を語っているのだと弁明したのでした。しかし人間が、目に見える事柄によって人を神として祭り上げるときのその信心信仰というのは、その神が人間の期待した通りにならなかった時、急激に冷めて行き、むしろ真逆の残酷なまでの否定や拒絶、あるいはむしろ攻撃的にさえなりうることが起こって行きます。

2.「人の力による信仰の現実」
「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引き摺り出した。」19節
 アンテオケとイコニオムというのは、バルナバとパウロがこのルステラに来る直前にいた町々です。そこでお二人の福音宣教によって救われた人もいましたが、ユダヤ人達の拒絶と攻撃もありました。そのユダヤ人達が二人を追ってるルステラまできたのでした。そしてそれまで二人を神として祭り上げようとしていた群衆たちを扇動して抱き込んでしまうのです。さらにはなんと、そのそれまでゼウスやヘルメスとまでいい神として祭り上げていた二人に石を投げるのでした。ただ石を投げるのではありません。それは一種の民衆裁判であり処刑と同じでした。
 ここから教えられることは何でしょう?「人間の信仰の現実」がここには現れています。人間は、そのように人間の目に見える事柄、特に利益や上手く行くこと、繁栄や成功、ここでは驚くべき癒しという出来事でありましたが、その目に見える事柄に自分の期待を置き、その期待に基づいて神を祭り上げます。しかし人はその期待通りにならなかったときに最も簡単にその信仰を捨てるものです。このように「人間自らから出る信仰」あるいは「人間自身の力による信仰」とはそのようなものです。それはそもそも神への信仰ではなく、「自分に従ってくれる神への期待」であり、その現実は自分が中心、自分が神となっている、そのような矛盾した信仰です。それは現実は「自分が中心、自分が神」なのですから、その対象となる神が期待外れであるときには、容易に攻撃的になり排除するのはむしろ当然の結果とも言えます。ですから、目に見えるものや、人の思いや感情に基準を置く信仰というのは、神からの賜物としての、飼い葉桶と十字架のキリストへの信仰とは、全く相入れないものであり、交わり得ない、いやむしろ逆のものだと言えるでしょう。
 ルステラの人々のそのような「偽りの信心」は、「祭り上げる」から「石を投げて殺す」に180度変りました。しかも人間の偽りの言葉による扇動によってです。このように、みことばによらない、人の思いや熱心による言葉は容易に人をそれさせます。人の目には、神のみことばは力がないように見えますが、カリスマ的な人間の力ある指導の言葉、律法の言葉は、力があるように見えるものです。人間はそのように後者の人間の力ある律法の言葉の方が力があるように思い、扇動されやすい存在であることをこのところは示しているのです。

3.「神の言葉に力はないのか?」
そのようにして石に打たれたパウロですが、しかしここに強そうに見える人間の言葉の真の脆さと、逆に弱そうに見え力がないように見える神の言葉の真の強さが現されて行きます。群衆はパウロが死んだと思って町の外に引きずり出しますが、
「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入った行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、」20節
 とあるのです。まさに人間の言葉と力によって徹底的に押さえつけられたはずのパウロとその福音の宣教です。群衆がパウロは死んだと思うほど、パウロは致命的なものを負っていたでしょう。しかしです。神の計画によって召された人々にある、その神の計画は、人間の言葉や力によって揺るがされることは決してありません。パウロは死んでいませんでした。彼は立ち上がります。そして驚くべきことに彼は町に入って行きます。拒まれ石を投げられ、そのルステラの町の人々の信心など、それほどまでに見たものに流され、偽りの言葉の力強さによって掌を返すかのように流されて行くような人々であり、本来であれば「そんな人々に何を語っても」と、町を背にして他の町に行くとしても良いでしょう。しかしイエスはパウロを再び立たせ、なんと町に向かわせるのです。それは周りにいた信じたクリスチャンや弟子たちのためでもあり、みことばを聴くために会堂に来ていて足を癒された彼のためでもあったでしょう。しかし大事なことは、その強さはパウロ自身の強さでしょうか?違います。痛みと壮絶な苦難の中で肉体は弱り果てている状況なのですが、この強さはイエスによって与えられているみことばと聖霊による力と導きであり、賜物である信仰の強さだと言えるのではないでしょうか?なぜなら22節でパウロははっきりとこう言っているからです。

4.「この信仰にしっかりとどまるように」
「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければなりらない」と言った。22節
 「この信仰にしっかりとどまるように勧め」た。なぜならそれが「弟子たちの心を強め」るからと。真の心の強さは、どこから来るのかは明らかでした。律法の言葉や、まして偽りの言葉による扇動は、一時の勢いがあり、一時の目に見える結果をもたらすかも知れません。しかしそれを受けている人間はなんと脆いでしょうか?見たものにあちらこちらを神にしては裏切られ、信仰は右往左往しています。そしてあちらこちらからやってきた都合のいい話や言葉、聞いたものに流されやはり右往左往までし、そして人を殺すところまでしています。それはなぜでしょう。それは平安がないからであり、不安だからであり、恐れがあるからです。目に見え、耳に入りやすい、人間に都合のいい偽りの神や言葉は、一時の満足は与えますが、確かさがないゆえにいつでも不安です。不安は恐れです。恐れには防衛本能が働き、攻撃的になるものなのです。それは強そうでありながら実はものすごく弱いものなのです。ですから、律法やカリスマ的な言葉による力の導きも、それは合理的で、分かり易く、従いやすいように見えて、実は人の心になんの強さももたらさない弱いものなのです。
 しかしパウロは、十字架の福音の言葉によってイエス様が与えてくださる信仰こそが、いかに人間を自由にし、平安を与え、そしてどんな逆境や苦難や試練にあっても強いことを知っているのです。それがクリスチャンの心を本当に強めるものであることを彼は知っています。だからこそ偽りの信仰ではなく、イエスが賜物として与えてくださったその「信仰にこそしっかりととどまるように勧め」るのです。

5.「神の国に入るのは、多くの苦しみを経なければ」
 しかも非常に気になることをパウロは言っていますね。22節の後半の言葉です。
「「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければなりらない」と言った。」
 今、十字架の福音の言葉によってイエスが与えてくださる信仰こそが、いかに人間を自由にし、平安を与え、そしてどんな逆境や苦難や試練にあっても強いと言ったことからわかると思います。その信仰は、苦難とともにあるということをです。パウロは、その苦難の現実に蓋をし覆い隠さないばかりか、むしろその苦難の現実こそ神の国に私たちが入るためには必要だとさえ言います。皆さん、苦難は嫌です。苦難は抜け出したいです。苦難になんの意味があるのかと思いますよ。私自身も思います。それが誰もが思うことです。しかしイエスはパウロを通じて、神の国に与るためには、苦難こそ必要だと言います。皆さん。これは酷い言葉でしょうか。無慈悲な神の言葉に聞こえるでしょうか。「こんな神の国ならいらない」というでしょうか?この言葉の意味はいったい何でしょうか?
A.「苦しみを通らないで人間の真の現実を知り得ない」
 これも私たちの現実を踏まえることによる、やはり神の救いの道の言葉であることに間違いありません。私たちの現実は何でしょうか?それはまさにわざわざパウロとバルナバを追っかけてきて、偽りの言葉と力で扇動するユダヤ人たちや、自分たちが立てるいろいろな都合のいい神や力ある人々の言葉に扇動されるルステラの群衆に現れています。いや、聖書全体が示す「人とは」にも見ることができます。それは自分を中心に全てを判断し、勝手に神を祭り上げ、期待に沿わないものに石を投げる現実です。それはアダムとエバへの誘惑であった、食べれば「神のようになれる」という偽りの言葉に従って、その誘惑の実を食べてしまう現実とも同じです。そう人は誰でも、私自身もそうですが、むしろ自分より圧倒的に勝る神の言葉などではなく、自分中心に、自分基準で考え、判断し、行動しようとするものであり、そこに正しさがある、その通りに成し遂げられる、実現できる、神のようになれる、と思うものです。いや、自分はそんなこと思っていないとしても、そのようにして誘惑の実を食べたものの子孫であり、その性質は誰でもあるものです。私自身、やはり聖書を見てきて、それこそ律法を通してあぶり出されるのは、自分中心である自分です。まさにアダムとエバの子孫であることは、私たち自身をみれば気づかされるものです。私たちの現実とは、そのように神の前に高慢であり、自分で神のようになんでもできる、神のためにも自分が何かができると思いがちであり、そしてそのような自分の行いで、自分が正しいと思うものでもあります。事実、世の中、社会も歴史もそのように動き、評価されます。
 しかしそこにある現実は、神の不在ですね。神の前にはいかに無力であり、罪があり、反逆の民であるのか、それは皆、気づきません。いや気づけないのです。それが罪の影響です。クリスチャンになってもそうです。キリストの恵み、キリストの名のよってこそ、道はあり真理がありいのちがあるというのが、聖書が私たちに示すことです。恵みの上にさらに恵みを受ける歩みであり、聖霊とみことばの働きによってこそ歩み、それは福音によって始まり成し遂げられる全く新しい道であるというのが福音の教えです。しかし私自身、それさえ忘れ、自分が万能のように、正しいかのように、自分で義を果たすことができ、神の国のために何かができる、力があるかのように錯覚しやすいものです。実際は万能でもなく、力もなく、正しくもないのにです。どのようにしてそのようなものが自分で、十字架の道に立ち返ることができますか?自分の力で立ち返るのでしょうか。実はそれさえできないことです。
B.「苦しみを通して神の前に何もなし得ないことを知るからこそ」
 しかし、まさに私たちは皆経験する不思議な導きがあります。苦難です。試練です。苦難の時こそ、試練の時こそ、挫折や失敗を経験するときこそ、みことばは私たちに語りかけ、自分の無力さ、罪を気づかされるでしょう。そしてそのようにして自分の無力さ、罪深さに打ちのめされるときこそ、神の恵みに招く声は何倍も響いてくるのではないでしょうか。逆にうまく行っている時、うまくできている時は、自分を誇るものです。自分の無力さ罪深さが見えないものです。何でも自分の力でなしたかのように、自分の功績のように考えてしまうものです。しかしイエスは、そのような自分を誇る祈りをしたパリサイ派の祈りこそを退けて、むしろ罪に絶望し神の憐れみにただただすがるしかなかった取税人の祈りこそ、神に受け入れられると教えています。イエスが何より喜ばれるのは、自分の無力さ罪深さを知り全知全能の神にこそ求めより頼むことです。いや十字架のイエスこそが証しするように、私たちが日々、本当に絶望するほどに罪深いことこそを知るからこそ、私たちは十字架の素晴らしさと愛が、闇に輝く光であると何より見えてくるはずです。それは苦しみや試練、自分が圧倒的な罪の現実に打ちのめされ、苦しむからこそわかるもの、見えてくるものです。イエスは苦難を通して、そこに導いています。苦難や試練を通してこそ、「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです」が自分のためであるとわかってきます。イエス様は苦難を通してこそ、神の国はあなたのものだとと教えたいのです。決して意地悪のためではない、残酷なのではない。逆に私たちがうまくいっているときは、むしろ神などいらないになる、そのような現実に放置される方が残酷です。イエスは苦難を通して、私たちに光を明らかにするのです。貧しい飼い葉桶と、死の十字架に、圧倒的な救いがあったように、苦難にこそキリストの道があったように、私たちも苦難と試練にこそイエスがおられ、十字架のイエスに会うことができ、そのイエスが神の国に導いておられるのです。ヘブル12章の言葉はだからこそ意味があります。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、返って悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」12:11

6.「終わりに」
 ルターも試練を通してこそ信仰は成長させられていくと教えました。それはその通りです。試練は望まないものであり、そのときは苦しく悲しくても、イエスは苦しみと、苦しみを経験しイエスの恵みを知った私たちを通して確実に、信仰の実、御霊の実、平安の義の実を結ばせようとしてくださっています。それがこのパウロにも現れていますし、それこそ神の国の素晴らしさ、強さです。私たちは、ルステラの群衆のような、不確かで一過性のものに流され一時の満足を得るでしょうか。それとも苦難の中で神の国に与るでしょうか。ぜひ神の国に与ろうではありませんか。イエス・キリストの十字架にこそ神の国は開かれています。それはどんな苦難にあっても、救いの確信があり、平安であり、強くあれる真の救いの道です。イエス・キリストを見上げましょう。信じましょう。イエスにこそ全てを期待し、信頼し、喜んで従いつつ、イエスが福音と信仰と私たちを通してなさろうとしておられる、思いもつかない大きなことを待ち望もうではありませんか。