〜2019年10月6日


「パウロは彼らから身を引き」
使徒の働き 19章8〜22節

1.「前回まで」
 エペソでパウロが出会った弟子達に言った言葉「信じた時、聖霊を受けましたか」という問に注目しました。パウロはその信仰の価値や真偽について、彼らが「何をしたか」を問うたのではなく、「聖霊を受けたかどうか」を問うたのでした。そのパウロの言葉は、信仰は決して律法や人のわざではなく、どこまでも聖霊からの賜物であり神からの贈り物であるということを意味していました。弟子達は「聖霊を受けることは知らない」と答えます。彼らが受けた洗礼は「バプテスマのヨハネによる悔い改めの洗礼」でした。パウロはそんな彼らにイエス・キリストの名によるバプテスマを授け、その時、約束の通りエペソの弟子達は聖霊を与えられたのでした。その数は12人でした。その出来事の後、パウロはエペソでの宣教を始めるのです。

2.「説得しようと努めた」
「それから、パウロは会堂にはいって、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。」
 パウロはいつもと変わらず会堂に入り、聖書を開いて朗読をし、その言葉を解き明かす説教を通して宣教をするそのスタンスは全く変わりません。その内容についても「神の国」とある通り、これまでと同じ、イエス・キリストの十字架と復活に明らかにされた「神の国」の福音を伝えたのでした。しかし9節にある通り、しるしを求めるユダヤ人にとっては、パウロが語る「イエス・キリストの十字架の言葉」は愚かに聞こえます。そこに「神の国」があるとは理解できないのです。ですから質問から議論が起こり、それに対してパウロはなんとか説得しようとしたことでしょう。しかし福音を人の力や努力で説得しようとしても決してできないものです。むしろ9節にあります。
「しかしある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前でこの道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。」
 ある者たちはさらに心を頑なにします。そして全く聞き入れなかったのでした。さらには、会衆の面前で「この道」、つまり「イエス・キリストの十字架の言葉」「神の国」の言葉を「罵った」のでした。「説得しようと努力した」その先に、彼ら心はますますエスカレートして行ったのです。人の力は、人の心を変え、信じさせるためにはあまりにも無力であることを物語っています。私達はここを大きく誤解します。信じさせるのは説得の努力のわざだと。もちろん伝えるために人が用いられます。しかし信仰は前回のところからもわかる通り、聖霊のみわざであり神からの贈り物です。聖霊こそが、信仰を創造し、与え、保つのです。律法と福音の言葉を通して。そのことがまず教えられます。ですからパウロ自身も説得の無力さをここで実感しますが、しかしここでパウロはどういう行動をとるのかというと、それが、18章のはじめのコリントの時とは違います。

3.「身を引く」
A, 「コリントでの対応とは違うパウロ」
 パウロはその罵る彼らから黙って「身を引く」のです。彼だけではありません。弟子達をも退かせたのでした。これは18章の最初での、怒りに任せて罵りには罵り返しで、見捨てる言葉をはいて去って行ったコリントの出来事とは違います。またこれはマイナスな撤退や敗北とも違います。パウロはその「召命に従って」、イエス・キリストの十字架の言葉、神の国の福音を説教するということを「律法の動機」ではなく、「福音の動機」で、忠実に従い努力しました。ですから会堂で「神の国」を説教を語り始めたのです。それを始めたとき、もちろんパウロも人間ですから、当然、色々期待もしたでしょうし、人間の頭で計画したり思い描いたことがあったでしょう。12人の弟子も加えられたのだから沢山ののユダヤ人やギリシャ人がこの素晴らしい神の国を信じて、もっと弟子が増えるかもしれない、と思ったかもしれません。人間だから前もっての期待は当然です。だからこそ説得しようと努力もしました。しかしそのキリストからの召命の務めが、キリストからのものであり、人間から出たものではないがゆえに、それが人間が計画し思い描いた通りになっていかないのも当然のことです。まして努力して信じさせたり心開いたりできない「神の国」の信仰ですから、計画通り、努力の通りにそうなるなんてこともありません。ですからパウロは努力の先にそのことにまたも直面しました。おまけに会衆の面前で主の道が罵られ、会衆から主の道を間違って理解される事も恐れた事でしょう。しかしそのとき、前回は感情と怒りで応答しましたが今回は黙って「身を引き」「退い」たのでした。人間の目や価値観や律法の動機でそのまま見続けるなら、あるいはそのまま期待や計画に縛られて見続けるなら、「身を引く」「退く」は何か敗北や撤退や後退、無駄であるように思えることでしょう。しかし、このパウロの「身を引く」は、人の目にはそのように見えて、しるしを求めるユダヤ人や知恵を求めるギリシャ人にはみっともないように見え、彼らの罵りが優ったかのように思てたとしても、しかしキリストにあり福音の動機によるなら、「身を引く」は主の目にかなったことでした。なぜならそのパウロの「身を引く」は、人の思いや力や計画への依存ではなく、むしろそれを捨てて「主がなさる」という真理への信頼、主に委ねることに他ならないからです。
B,「信仰は律法ではなく福音」
 皆さんは人の目や価値観から見て前進続けること、努力し続けること、行い続けることが美徳で、立派なことで、主への敬虔だと思ってしまうことはないでしょうか。世の中や社会は確かにそのような価値観と評価です。社会では、その通り、正しいことであり、社会的責任には、キリスト者であろうとなかろうと、人として当然のごとくそうすべきです。そして人の前、社会では私達もそのように人を評価するしされます。だから「信仰的な事もそうだ」と思うかもしれません。しかし信仰は決して律法ではありません。信仰は、神がしてくださった、イエスが与えてくださった賜物、贈り物、信仰は福音であると言いました。つまり信仰というのは、人間の努力によって真価や有無がはかられるものでは決してないと。だからこそパウロは「信じたとき、何をしましたか」と問いかけたのではなく、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と問うたのだと前回学んできました。仮に、信仰を人のわざと見、その歩みも宣教も教会も、だから律法を動機として、人間のわざで進めていくと理解するとき、今日の箇所のようなマイナスの出来事に直面したときにどうなって行くでしょう。パウロは「身を引く」「退く」とは言わなかった事でしょう。自分はなおも邁進し、弟子たちにも邁進させた事でしょう。しかし信仰の出来事が人のわざではないのに人のわざとし、そのまま努力で邁進しても、結局、彼らユダヤ人たちの頑なさを砕くことはできないことでしょう。ところが事実ははっきりとあります。パウロは黙って「身を引いた」のです。彼はマイナスにことを考えたのではありません。そうではない、主キリストにあっては、全ては益となると信じて「身を引いた」のです。つまり、主キリストにこそより頼み、求め、すがり、委ねる思いで、一歩立ち止まり、「身を引いた」のです。信仰とは、律法ではありません。信仰とは、キリストが与えてくださった賜物、信仰は福音です。それはキリストご自身が十字架の言葉である福音と聖霊を通して、私に、皆さんに新しく創造、守り、教え、矯正し、導き、養い育て、保ってくださっている素晴らしい恵みです。私達が自分の計画通り、思い描いた通りに努力の先に、全てのその通りにことがなり、実現して行くこと、あるいは、立ち止まる事も、身を引く事もなく、努力し、前進し邁進し、私たちが実を結んでいくのが信仰だと教える教会があったとしても、それは違います。繰り返しますが、信仰とは、キリストが与えてくださった賜物、信仰は福音です。キリストが福音と聖霊を通して、私に、皆さんに新しく創造し、守り、教え、矯正し、導き、養い育て、保ってくださっている恵みです。ですから一歩立ち止まる事も、立ち止まらされる事も、あるいは時に、身を引く事も、退く事も、あるいは、時に、休息をとる事も、悪いことでは決してありません。いやむしろ大事なこと、必要なことです。なぜですか?なぜなら私達の罪深い性質は、いくら「神のため」とは言っても、罪ゆえに、自分の行いで義を立てようとするものであり、あるいは自分の罪深さを、良い行いや自分の能力や努力で覆い隠そう、あるいは償おうとしがちなのです。しかしそれではなんの解決にならないばかりか、ますます「キリストが何をしてくださったのか」、いや「キリストが100パーセントをしてくださり、聖霊が100パーセントをしてくださる」という、主のみわざ、主のみ言葉の力を忘れてしまう、いや脇に寄せてしまうからです。行為義認は、邁進すれば邁進するほど神を脇役とし神を自分の僕としてしまう悪の誘惑に陥ることになります。むしろ、予期せず思いもせずに導かれる時、立ち止まること、身を引く事、休む事、大事です。そんな時こそ、自分の無力さ、弱さ、罪深さに気付かされ、主に、主イエス・キリストの十字架と復活に立ち返ることができるからです。
C,「罪赦され平安のうちにいくため:そのための教会、礼拝」
 いやむしろ教会も礼拝もそのためにこそあります。行為義認で主に自分の正しさを証を立てる場では決してない。むしろ罪人である私達が陥る行為義認による生き方から、イエスがみことばを持って引き戻してくださり、私達にみことばと聖餐をもって仕えてくださり、律法によって私達の弱さ、無力さ、罪深さを教え、そしてその罪のためにイエスは十字架に死んでよみがえってくださり、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しを宣言し遣わして下さる。今日もこの罪に死んでいる私をよみがらせ新しくしてくださる。そのように福音によって平安、安息、休む時です。立ち止まり、身を引き、キリストの十字架と復活の言葉でリフレッシュされて出ていくところではありませんか。皆さん。主は「あなたの努力で邁進しなさい」などと招いていません。なんと言っていますか?「全て疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます」と言っているのです(マタイ11:28)。このようにイエスはむしろそんな神不在であるかのようぬ努力で邁進しがちな私たちに語りかけ、主イエス・キリストにあって、立ち止まる事、身を引く事、休む事、イエス様のところに行く事、来る事を、招いているのだという事をこのところは教えているのではないでしょうか。

4.「身を引き、委ねる先に」
 事実、この後、不思議な導きがあります。会堂から身を引いて、パウロは弟子たちが借りたであろう「ツラノの講堂」、学校のようなところでパウロは、その召命に答え、神の国の福音を語り続けるのです。しかもその状態が2年間も続きます。つまりその後なかなか変化がなかったという事です。変化がないというのも人の目から見るなら、無駄なことのように思えます。しかし10節、パウロが語り続けることは、
「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」
 とあります。彼らが「信じた/信じない」は書いていません。しかし「主のことばを聞いた」とあります。アジアに住む人々皆、「聞いた」のです。「ただ聞いただけ」かもしれません。しかしそれが無駄なことだったのでしょうか。この後の出来事です。11節、神は突如パウロを通して奇跡を行います。12節には「パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てるとその病気は去り悪霊は出て行った」ともあります。パウロにはそんな力がありません。しかし「身につけているものから力」というときに、それはイエスを連想します。ところが13節。「諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちもためしに悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによっておまえたちに命じる。」と言ってみたのでした。それはユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子達でした。しかしそれに対して「すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。」15〜16節と、こんな恐ろしい驚くべき出来事が起こったのでした。パウロにはそんな力がありませんが、悪霊が、そのイエスの名をみだりに唱える者どもがイエスの弟子でもなければ何の力も無いのに自分に命じたことに怒ったのでしょう。その者たちをやっつけてしまったのでした。そしてこのところは同時に大事なことを示しています。悪霊はイエスもパウロも知っていて、イエスにもイエスの聖霊を受けているパウロにも何もできないということです。むしろ悪霊はパウロの着物にさえ恐れて出ていくほどです。この「身につけている」は印象的です。
「洗礼を受けてキリストに着くものとされたあなた方はみな、キリストをその身に着たのです。」ガラテヤ書3章27節
 とあります。パウロにはその力はなくても、ともにいるキリスト、聖霊の助けは真実で、力があり、悪霊が退く程であることのの証しです。そして17〜20節です。

5.「思いを超えたイエスの働き」
「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったのでみな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者がその書物をかかえて来て皆の前で焼き捨てた。その値段を合計してみると銀貨五万枚になった。こうして主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」17〜20節
 この出来事は、パウロが意図したものでも計画したものでもありません。主キリストがパウロを用いて行った全てです。それにより、パウロがいくら努力して説得しようとしてもできなかった。いやますます反発し罵ったそのユダヤ人やギリシャ人の心に、恐れと主イエスの御名をあがめる信仰、そして悔い改めの告白、さらには、高額な魔術の書物を自ら焼き捨てる行動まで、イエス様は起こさせています。パウロが努力して説得したからではありません。彼ができずに、身を引き、退いて、委ねたイエス・キリストがしたことでした。そして「主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」のです。目に見える物質的な事柄の繁栄がイエス様のなそうとすることでも宣教の使命でもありません。目に見えない主のことば、主イエスがしてくださった十字架の福音が伝えられ広まり、福音によって目に見えない信仰が、ますます力強くされていくことこそイエス様の宣教の使命であり、教会の使命でもあり、私たちの本当の益でもあります。今日もイエス様の十字架の言葉である福音と聖餐によって、罪の赦しと新しいのちを受け取りましょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とイエス様が言ってくださるのですから、安心してここから遣わされて行きましょう。