2019年9月22日


「主はアポロを用いるために」
使徒の働き 18章24〜28節

1.「前回まで」
 パウロが2回目の宣教旅行を終え、シリアのアンテオケへ帰るときに頭の髪の毛を剃りました。彼は2回目の宣教旅行を始める時、神へある願いを告白し、それが叶うようにと誓願をたてていて、その誓願の間は、決して髪を切ってはいけないという決まり事があったのですが、パウロはここで自ら髪を切るのです。つまりその誓願をパウロ自身が自ら解いたのでした。それは彼にとってのその2回目の宣教旅行の総括でもありました。2回目の宣教旅行の初めに彼は願を立てました。そこには彼が思い描いた計画や期待も当然ありました。しかし2回目の宣教旅行は、パウロの計画や期待、思いや願いを「超えて」、期待とは違う方向に導かれて行きました。人間の側から見れば、願った通りにはなって行きませんでした。しかしそこには一切無駄のない全てが益とされた、パウロの思いをはるかに超えたイエスの御心と計画こそがなっていた事実だけがありました。パウロはそのことを知ったからこそ髪を剃ります。色々な願いや期待があっても、イエスの十字架がそうであったように、イエスの「杯が取り除けられるように」という願い以上に、父なる神の御心がなるところにこそ神の大いなる恵みと祝福があった。パウロはまさにその真理を悟ったからこそ誓願や願いに縛られるのではない、主の御心に信頼する自由さと平安さのゆえに髪を剃ったのでした。ですから立ち寄ったエペソの教会からもっと長く留まってほしいと懇願された時もパウロはそれに対し「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って、神のみこころに委ねてエペソを去り、2回目の宣教へと派遣したアンテオケの教会へと帰ったのでした。今日のところではパウロがその帰る途中立ち寄ったエペソで、パウロが去った後の出来事が書かれています。そのエペソでは途中まで一緒だったアクラとプリスキラがパウロに別れを告げ留まります。そこでの出来事ですが9章のはじめとも関わりが出てくるところです。

2.「雄弁アポロというユダヤ人」
「さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。」24節
 アポロというユダヤ人がエペソにやってきます。彼はアレキサンドリヤ、現在のエジプトの海沿いの都市の生まれでした。彼は「雄弁な」とあるように言葉を話すことに長けていました。「聖書に通じていた」とありますが、当時の聖書は、旧約のモーセ五書、詩篇、預言の書のことを指しています。彼はユダヤ人として、幼い時からユダヤ教の教師から聖書の教育とレトリック、修辞学の訓練を受けてきたと言われており、ゆえに雄弁に教えることにも優れていたのでした。さらにこう続いています。「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」25節
A,「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」
 アポロは「主の道の教えを受け」とあります。そして「イエスのことを正確に語り」ともある通り、アポロは旧約聖書から約束の救い主の教えをしっかりと理解し、かつこれまで待ち望んできて、そしてその来るべく救い主がイエスであることも知っていて教えていたのでした。彼は「霊に燃えて」とありますが、ここは英語で小文字のspiritですから聖霊ではなく「教える賜物」と理解されます。彼は霊に燃えイエスを正確に語り教えていたでしょうけれども、しかし25節の終わりにある通りアポロは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」のです。つまり父と子と聖霊の名によって聖霊を受けるキリストのバプテスマを受けてなかったということです。彼はヨハネによるバプテスマは受けていました。そしてイエスのことも信じていたからこそ語ることもできたでしょう。その信仰はもちろんみことばによる聖霊の働きでありみことばによって与えられたものではあったでしょう。しかしヨハネのバプテスマのことしか知らない、それしか受けいないというのは実に重大な問題でありました。
B,「バプテスマのヨハネによるバプテスマと、キリストのバプテスマの違い」
 これは9章の始めでも同じ問題がありますが、福音書を見ると、バプテスマのヨハネが荒野で「悔い改めよ」と叫んだ時に大勢の人々が集まってきて、彼らがヨハネから悔い改めのバプテスマを受けていることが書かれています。しかしヨハネ自体が、自分のバプテスマとやがてくる救い主のバプテスマは違うことを言っています。ヨハネの福音書1章にありますが、彼は周りから「あなたがキリストか」と問われる時に「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)と言い、ではなぜバプテスマを授けているのかと問われたときに、彼はイエスを指し示して言います。
「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネ1:26-27)と。そしてヨハネ1章30節以下
「この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」〜「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」と言っています。ヨハネ自身が、自分のバプテスマとイエスのバプテスマは違い、イエスのバプテスマこそ、はるかに優れた聖霊による救いのバプテスマであることを伝えているのでした。多くの人がバプテスマのヨハネの洗礼を受けました。しかしその後、その人々皆がイエスの名による洗礼を受けたわけではありませんでした。むしろ受けていない人々の方が多かったことでしょう。それがアポロであり、そして9章のはじめのエペソの兄弟たちであったのです。その違いは、ヨハネのバプテスマはキリストを指し示す「約束」でありますが罪の赦しを与えることはありません。ただイエスの名によるイエスのバプテスマだけが約束の罪の赦しを与えることができるということです。つまりヨハネのバプテスマは罪の赦しの「約束」であり、イエスのバプテスマは罪の赦しが約束の通り与えられるのであり、イエスが全ての約束を成就されたからこそもはやヨハネのバプテスマは必要なくなったのです。しかしそのことを知らない人が多数いたことをこのところは物語っています。そしてヨハネのバプテスマだけでは不十分だということを意味しています。
C,「雄弁ではあっても」
 確かにアポロは雄弁でした。モーセ五書も詩篇も預言も、そしてその約束した救い主であるイエスのこともよく知っていました。教え説明することにも長けてはいたでしょう。それが外見上は何の問題もないように思います。立派な働きのように思えます。しかしクリスチャン生活や実践や宣教も、それは知識の量の問題でもなければ、その人にある能力による熱心さでもありません。彼は知識としては豊富なものを持っていて、それを用い伝える力や技術も持っています。加えて熱心でもあります。それは持てる知識や能力で表向きのことはもちろんできるのです。しかしそれは人から出ているものであるなら決して本物ではありません。なぜならたとえ人の能力でイエスのことを「知識として」人に理解させることはできても、イエスが与える十字架と復活の福音、罪の赦しと新しいいのちの福音を、決して人の行いや力のわざや、人の力や熱心で信じたり信じさせたりできるものではないからです。それはイエス・キリストのみわざであり、聖霊のみわざ以外の何物でもありません。御霊によらなければ誰もイエスはキリストであると、単なる知識ではなく、与えらえた霊とまことにおいて内側から溢れ出るものとして告白することができないからです。ですからいくら肉の目と耳と脳の経験によって、アポロの説教が雄弁であり熱心であり納得させられるとか感動させられるとか面白かったとか心動かされるものであったとしても、救いの力である福音の衝動や躍動は、イエス・キリストの御霊から出るものでないなら決して起こり得ないものなのですから、アポロの活動は単なる人間同士の肉の活動を超えるものではなかったのでした。しかし

3.「それを聞いていたプリスキラとアクラ」
「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。」26節
 アポロは会堂で大胆に話します。それはやがてコリントの信徒によって、パウロやペテロと比べられ「アポロに着く」という論争が起こるほどにその雄弁さは確かにパウロのそれとは違ったことでしょう。しかしイエス・キリストの聖霊を受け、イエス・キリストの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちを知っているアクラとプリスキラには、アポロの語るイエスの不十分さ、ヨハネのバプテスマしか知らないことは明らかであったのです。つまり知らなければ伝えられないわけですから、アポロはイエスのことを語ることはできてもそのイエスの福音の核心部分となるべく、いや決して福音にとって欠くことの出来ないイエスがその十字架と復活のゆえにみことばと洗礼と聖餐を通して与えてくださる、罪の赦しと新しいいのちをアポロは伝えていなかった、できなかったことを意味しています。これは大切なことです。
 現代もそうですが、十字架抜き、罪の赦し抜きのイエスを語ることは簡単です。優しい親切な、なんでも願いを叶えてくれる、あるいは願い通り奇跡などで力を現されるイエスだけを伝えるような説教や教会もあるでしょう。人は罪とかネガティブな自分は聞きたくないし耳を塞ぎたいものですから、そのような十字架のないイエス様あるいは「神」についての説教の方が、聞こえがいいし、聞きやすいし、人がたくさん集まるかもしれません。世にはそのような教会、説教は溢れています。しかしもしその教会や説教者が、イエスキリストのバプテスマを受け、授けている教会であり説教者でありながら、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しとあ新しいいのちの福音を語り伝えることを脇に寄せたり退けたり大事にしないのであるなら、それは聖霊を欺く重大な罪とも言えます。聖霊を欺く罪は「赦されない」とまでイエス様は言っています。

4.「アポロはイエスがキリストであると伝えた」
 しかしもちろん、アポロは知らなかっただけですから、ここでアクラとプリスキラは、アポロを招き、アポロは二人から、さらに正しいイエス・キリストを教えられることによって正されさらに用いられて行くことになるのです。こう続いています。27〜28節「そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」
 アポロはここでアカヤ、つまりコリントに渡ります。アクラとプリスキラ始めエペソの兄弟たちに励まされ、渡ったコリントの地の信徒のために用いられます。ここで彼は聖書によって、「イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破した」。イエスについての表向きは同じ雄弁な言葉でも前とは内容が違いました。以前の25節では「イエスを伝えていた」とありましたが、28節では「イエスはキリストであることを」とはっきりとあります。まさに御霊によらなければ誰もイエスは主、キリストであると告白できないとある通り(コリント第一12:3)、アポロは聖書から聖霊によってキリストを証明し、力強く語ったのでした。そのキリストの十字架の福音は「恵みによって」信仰を与えられ救われた人々にとってはまさに「助け」になり(27節)、一方で、かつてパウロをコリントであれだけ苦しめ、結局最後までパウロに反発し続けたコリントのユダヤ人たちを公然と論破したのでした。
 ここに人の思いをはるかに超えたイエス様の御心とみわざがあります。アポロは確かに能力としては優れたものがありましたが霊の力は無力でした。それは説教者しては致命的ではありましたが、イエスはそのアポロのためにアクラとプリスキラを用いて正しい教えとキリストの洗礼に導いてくださいました。新しく生まれた私たちは霊において生きるものでありますが、足りないところは常に、沢山ありそれはいつまでもそうです。私たちはむしろ霊においてはどこまでも無力です。しかしイエスは常にその無力さや間違いをむしろ補い、助け、正しい方向に導くために働いてくださる主であることを今日のところは証ししています。そのように私たちは自分たちで成長して行くではなく、みことばと御霊によって常に霊的に成長させられて行く存在なのです。そして用いられて行く存在でもあります。アクラとプリスキラがエペソに残ったのにも主の意味があり、彼らはアポロの説教を聞き、雄弁ではあってもその霊的な無力さに気づき、彼に正しい教えをし、彼にキリストの名による洗礼を授けるために用いられたと言えるでしょう。そしてそのように修正されキリストのバプテスマを知ったアポロも、コリントの恵みによって救われた信徒を助けるために用いられ、さらにはパウロが苦慮し、結局は最後まで反発し続けたユダヤ人を論破するためにアポロは用いられていることがわかります。誰が優れているから栄える成功する上手く行く。誰がダメだから失敗したダメなんだ、という人間的で陳腐で愚かなレベルの議論はここにはありません。コリントはこの後、そのレベルで間違いを犯すようですが、しかし変わらない主の真理は、その場その場で用いられる主だけおられ、パウロが用いられた期間にも意味があるし、アポロが用いられた期間にも意味があるということです。「主の意味が」です。意味がない、失敗だ、無駄だった、と裁き合うのは、イエスではなく人間であり、キリスト不在、あるいはキリスト二の次による人間の罪の問題です。アポロを見ても、アクラとプリスキラを見ても、パウロを見ても、全てのことに働いて益としてくださるイエスの真実さと恵みこそがここで私たちに証しされている福音だと言えるでしょう。私たちもこの福音にこそ生かされ導かれましょう。イエスの福音にあって罪の赦しの平安を与えられここから遣わされていきましょう。