2019年6月9日


「すべては主の恵みによって」
使徒の働き 16章30〜40節

1.「前回まで」
 偽りの証言によって告発されたことによって、逮捕され牢獄へと入れらたパウロとシラスのその後を見てきました。背中の肉が抉れるほどの鞭で打たれ、牢の一番奥に足かせをかけられ繋がれた二人。何も告発されるような悪いことをしていないだけでなく、占いの霊に憑かれた女を助けのも、イエスの御名による大いなるわざがなされたわけですから、イエスがそこにおられ御心のままに確実に働いていた出来事でした。それにも関わらず、こんな酷い、痛い、状況。イエスが召し約束し遣わしたはずの宣教も閉ざされました。それは人間の思いからすれば、なぜと言いたくなるような状況であり、矛盾しているとも思える状況であり、「そこに神はいるのか?」と問い、躓くような状況です。しかしイエスはそのような人の思いや判断を遥かに超える素晴らしいことをなさる方でした。そのような二人を用い、二人を見張っていた看守とその家族に、神への恐れと、信仰と、洗礼を授け、救うためにこそ、二人はこの牢獄へと遣わされたのでした。神は確かにその矛盾するような困難な状況にこそ居られたのでした。そこから私たちは学びました。主の恵みは、時がよくても悪くても変わることなく溢れている、主はどんな時もそこにおられるのだということを。今日はその洗礼の恵みとペンテコステですからそこにある聖霊の働きについて焦点を当てて見ていきます。

2.「なぜひれ伏したのか?」
 まず前回、看守は、地震で牢獄が開いたことによって囚人が皆逃げたと思い自殺しようとした時に、パウロとシラスの「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」という言葉によって、パウロとシラスだけでなく囚人の誰一人逃げていなかったことに、主なる神への恐れを抱かされ二人の前にひれ伏し、「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねました。みなさん、まずこのところ、看守は、それまで逃げないか厳しく監視していた二人へ「ひれ伏して」いるのです。看守は、なぜひれ伏したのですか?それはパウロとシラスが、看守が屈服するような何か特別な力や脅かしを示して、牢獄を開けたからであったのでしょうか?看守にとって、そのパウロとシラスが神や支配者や脅威に思えたから看守はひれ伏したのでしょうか?そうではありません。
 なぜなら看守は牢獄の一番奥に入れて、鉄の足かせをはめて鉄壁の守りをしています。そして2人は鞭で何度も打たれ弱り果てています。2人にそんな中、脱走する力は愚か、看守を脅したりする力などなく、そんなことができないことは明らかでした。牢獄が開いたのも、それは大きな地震が起こったことによるものでした。そして何より看守に、これは人の思いを遥かに超えた出来事だと驚かせたのは、誰も逃げなかったことです。2人を除けば極悪人ばかりの牢獄です。牢獄が開いたのなら普通は逃げ出すでしょう。看守もそう思ったからこそ、確認もせずに自殺しようとしています。しかし誰も逃げなかった。そればかりではなく、自分が早まって自殺しようとしたのを止めたのも、その囚人であるはずのパウロとシラスでした。看守にとってはあり得ないことです。そしてもう一つ大事な記録がありますね。それは牢獄で、パウロとシラスが賛美をしていたのを、囚人も聴き入っていたともありました。そのようなどん底の苦しみと痛みの状況で普通はできない、主への賛美をしていた2人にも、人の思いをはるかに超えた賜物である信仰とそこに働く聖霊の力があったと見てきたでしょう。さらにはその賛美を通して聖霊は、囚人たちにも影響を与えたことも見てきました。ですからそのように何より看守を恐れさせ、ひれ伏させたのは、そこに人の行いではあり得ない、人の思いをはるかに超えた、神の働きが、2人を通して証しされていたことを看守は見たからこそです。決定的なのはこの言葉です。
「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」
 彼はこの2人が救いの道を握っていることを知っています。それを知りたい。救われたい。教えて欲しい。救いを求める言葉です。それが彼の恐れでした。つまり彼には救いの確信が何もありませんでした。むしろこの恐るべき神の存在を前にして彼がひれ伏さざるを得なかったのは、神の前に、救われ得ない自分の存在を知ったからです。神の前にどこまでも罪深い自分なのです。だからこそ「救われるためには、何をしなければなりませんか」ではありませんか。これが看守がひれ伏した理由です。神の前の本当の自分を知ったがゆえです。それは神の前にどこまでも罪深い自分。決して救われない自分の現実です。

3.「神の前に救われ得ない自分を知ることこそ幸い」
A,「神の前に罪深い自分へと導かれる」
 しかしみなさん、これこそ恵みではありませんか。まず第一に決して自らではそこに至らなかった、自分の神の前の現実と恐れに彼は「導かれた」ということです。どうでしょう。人は、人に対する罪であっても、気づかなかったり、気づいていても認めなかったり、気づくことから逃げようとさえするものです。なかなか自分の悪いこと、間違っていることを、素直に認めることや謝ることは非常に難しいことです。まして神に対してはもっと疎いでしょう。いや疎いどころか、神の前に自分がどれだけ罪深いかは「自分では」決して悟ることも知ることもできません。むしろ人は神の前では、自分は正しい、自分は決して悪くない、自分にはいいところがあると、言いたいものです。あるいは悪くとも、まさにアダムとエバのように、人のせいにしたり、あるいは「あなたが与えたこの女が」と神と女に二重に責任転嫁さえして、自分は正しいというものでもあるものです。ヨハネの手紙に「罪がないというなら自分を欺いている」とあるのは、それは「自分に罪がない」と言う人間の性質を見事に表している言葉です。そう、人間は罪深いのに神の前に自分は正しいというアダムの子孫なのです。自らでは神を恐れることさえ知らないのです。しかしこの神の使徒であるパウロとシラスを恐れることもなく、極悪人として監視している看守に、神への恐れを抱かせ、神の前の罪深さを悟らせ、救いを求めさたのは、他でもない神の導きではありませんか。このようにパウロとシラスの信仰に働く聖霊は、囚人たちだけではない、この看守にも働いているのです。
B,「神の前に絶望的な真の「ありのまま」を知るからこそ十字架のイエスに出会う」
 そしてもう一つ言える大事なことは、このように主への恐れ、自分が神の前にいかに罪深いかを悟ること。恐れは確かに負の感情です。怖いことです。神の前に罪深いこと、救われない自分であると知ることも、心が刺し通される痛い、辛い、絶望的なことです。しかし、なぜそこに聖霊は導くのでしょうか。それは「救われるためには何をしなければなりませんか」という救いを求める告白へと導くためではありませんか?この絶望がなければ、罪に気づかなければ、罪からの救いは求められないでしょう。救われないとわかったからこそ、「救われるためには」と求めるのです。そして、救いを求めるからこそ、そこに与えられるパウロのこの答えは、救いの光、命の光、福音となるではありませんか?
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」31節
 と。みなさん。これは大事なことです。現代のキリスト教会は、罪や悔い改めや十字架は、人を攻め、イメージが悪いから語るべきではないと、説教や教えから排除する傾向があります。なるべく語らないで蓋をする。神の愛も、罪の赦しや十字架に現された愛ではなく、聞こえのいい愛に形を変えて語られると言います。そして「十字架の苦難にこそ神のみ心が現され、人間の罪深さや悲しみ、苦難や挫折や失敗や不完全さにこそ神はおられ福音があり悔い改めにこそ祝福がある」ということではなく、人間が思い描き期待する成功や繁栄に神はおり、祝福があるかのように教えます。その方が人受けがいいし人が集まるからです。そんな彼らからすれば、今日の看守のような罪が示され絶望するクリスチャンに対しては「そんなネガティブなことに問われてはダメです。ポジティブに神を信じないでは祝福されませんよ」というのです。しかしそれは結局、信仰は恵みではなく、律法になってしまっています。何より明らかに真の福音と平安からは遠ざかってしまっています。
 みなさん、真の福音と平安との出会いは、まず神の律法によって罪を示され、救われ得ない自分を悟る時にこそあります。自分が神の前に圧倒的に罪深くどうしようもない絶望があるからこそ、キリストはそのためにこそこられ、十字架にかかって死なれたことの意味と素晴らしさが、そして「あなたの罪は赦されました安心していきなさい」に平安を覚えるのではありませんか?だからこそ大事なのです。神を恐れることへ、罪を知ることへ導かれ、神の前にひれ伏すしかない、絶望的な存在である自分を知る、それこそが本当の「ありのまま」であり、「ありのまま」を知ることは絶望であり、刺し通されることであると知ることが、十字架の救いのために決して避けて通ることのできないこと、これも大事な「恵み」であるということです。ですから日々罪を示されるなら、悔い改めへと導かれ心を刺し通されるなら、みなさん幸いです。その時は痛くとも、辛くとも、だからこそ、そこに十字架のイエスの愛の手、十字架の光が待っています。その光はあなたのもの、私のものになります。恵みの導きとしてそこで十字架をぜひ受け止め、本当の平安を得ようではありませんか。

4.「主の言葉を」
 看守たちは、そこで救われるために必要なのはイエスを信じることだとわかりました。しかしです。パウロとシラスはここで看守とその家族に「信じなければ救われません。だから頑張って、力を振り絞って、信じろ」と、発破をかけたり説得したり説き伏せたりしたでしょうか。世の「行い」の宗教や倫理宗教はそうするでしょう。しかしパウロとシラスはそうしていないでしょう。何をしているでしょうか?ここに大事な鍵があります。
「そして彼とその家族の者全部に主の言葉を語った。」32節
 パウロとシラスは、看守と家族に「主の言葉」を語りました。なぜですか?人に信仰を与えるのは、面白い、魅力的な例話ですか?それとも面白い魅力的な、流行りの、他の成功している教会もやっている、あるいはビジネスモデルで成功している、そのようにクリスチャン新聞や信仰図書で宣伝されてる、プログラムやアトラクションですか?聖書のどこにそんなことが書いていますか?パウロとシラスはそんなことをしましたか?イエスはそんなことをしましたか?この方向を間違えると、たとえ自分ではうまくやって成果を出しているように思えても、神の前には何の意味もないただの自己満足です。2人は、看守と家族に何をしたでしょうか。「主の言葉」を語りました。それは人は人に何らかの方法で信じさせたり、信仰を与えることはできないし、人は自らでは決して信じることはできないからであり、信じるということ、信仰は、主の言葉を通しての聖霊の働きだからです。それ以外にはないからです。イエスは言っています。
「わたしが与える水を飲むものは」「わたしが与える水こそが、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへ水が湧き出る」(ヨハネ4:14)「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また、わたしがあなた方に話した全てのことを思い起こさせます。」(ヨハネ14:26)「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます」と。(ヨハネ16:8)
 主の言葉にこそ聖霊は働き、聖霊は主の言葉を通してこそ働くのです。信仰はその聖霊によるみことばの力によって生まれるものであり、人に信じさせ信仰を与えるのは主の言葉であり聖霊なのです。それなのに、その主の言葉と聖霊の力をクリスチャンが100%信じないで一体、他の誰が信じるのでしょうか?その主の言葉の力を信じないで何を証しするのですか?自分の経験や自分がこう感じるという感情ですか?誰かの功績や伝統や過去の栄光ですか?それは神の言葉を100%信じてはいません。他のものを信じています。パウロとシラスは、主の言葉と聖霊こそ人を救う力であると信じるからこそ、看守とその家族が救われるために、主の言葉を、福音を、主イエスは何をしてくださったか、十字架の言葉を語ったのです。

5.「洗礼は象徴や律法ではなく恵みの手段。そしてゴールではなくいのちの始まり」
 その主の言葉は、看守とその家族に信じる信仰を与えました。そしてパウロとシラスは、家族全員にバプテスマ、洗礼を授けました。パウロは、紫布の商人であるルデヤの時も、家族全員に洗礼を授けています。家族全員にという時に、それは、子供や幼子も洗礼の例外とは決してされなかったことを意味しています。それはイエスと全く一致したことです。イエスは幼子でさえも自分のところに連れて来るのを妨げてはいけないと言いました。そして子供を退けた弟子たちに対して怒り、そして子供達を側に引き寄せ抱き祝福したでしょう。皆さん。見てきたように信仰は聖霊の賜物であり、恵みであり、洗礼も人間の何らかの行いや条件の達成の先にあるゴールではなく、救いを与えるための手段として、イエスは水を用い、水が清めに用いられるように、イエスが与える水は、まさに枯れることのない命の水として、いつまでも罪の赦しと新しいいのちがイエスから目に見える形で与えられ、新しいいのちがまさに始まる時なのです。それはどこまでも恵みであり、イエスは誰も例外とはされないのです。ある教派がいうように、幼子は信じることが出来ないから授けてはいけないと、そう言っている時点で、実は信仰を人のわざ、人間の理性からでる働きとしてしまっているでしょう。それでは実は誰も救われず、何より洗礼を受けても、何ら救いの確信も平安も得ることができません。だからその人たちは宣教が律法的になるのです。幼子にも洗礼が与えられたということは幸いです。私たちも実は幼子のように自らでは信じることが出来ない者であるのに、福音と聖霊の働きによって信仰が与えられ、まさに洗礼は恵みではありませんか。私たちの行いや功績ではなく、どこまでもイエスの十字架と復活にこそ、イエスが与えるいのちの水は湧き出て、私たちはその恵みを飲むからこそ、決して渇くことが無い。日々、十字架に死に、そして復活で新しく生かされていくことが出来、いつでも救いの確信を持って、イエスの与える平安に生きることができるではありませんか。それは信仰が聖霊の賜物であり、聖霊による100%恵みとして洗礼に日々生かされているからこそです。このペンテコステ。聖霊の豊かな恵みにあって今日も新たにされ生かされていることを感謝し、平安のうちに遣わされて行きましょう。