2019年3月31日


「聖霊によって禁じられ」
使徒の働き 16章6〜10節

1.「パウロの計画」
「それらから彼らは、アジヤでみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。」6節
 「アジヤ」とあります。現在のトルコ北西部で、ルステラから北西地域になります。パウロとシラスとテモテの一行はルステラから北に向かいます。しかしそのアジヤ地方を通っときに「アジヤでみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられ」ました。パウロは決して行き当たりばったりの旅をしていたのではなく、それなりの計画や理由をもって行く方向を決めていたことでしょう。宣教はワンマンでは決してなく、イエスも二人一組とか12人とかチームで遣わしていたように、宣教はチームですから、パウロはシラスやテモテとも話し合って行く方向を決めていたことでしょう。そしてそこにはもちろんみ言葉を伝えたいという使命と情熱もあったでしょうし、「それが神のみ心であり、その通りに主はしてくださる」という信仰もあったことでしょう。しかし彼らは、それを「聖霊によって禁じられ」方向転換をさせらました。三人によってこのアジヤで既に神の言葉が伝えられ信じたクリスチャンが起こされていたかもしれません。しかし聖霊はそのアジヤでみ言葉を語るのを禁じた。どういうことでしょうか。ここに何が示されているでしょう。

2.「聖霊が禁じた」
A,「人の計画ではなく主の計画が」
 それは、宣教、そして宣教がそうであるならクリスチャンの歩みそのものや、敬虔さとか霊性とかもそうなのですが、それら宣教もクリスチャン生活も敬虔や霊性も、「人の」熱心や情熱、願望や感情、「人が」立てる目標やビジョンが導いたりなすのではないということです。人から出るそれらはどんなに敬虔そうに見えるものでも人から出たものである以上、実は確かなものは何一つありません。人の前ではもちろんそれは主の前にあってはなおさらです。しかし主には、人には計り知れない、時には理解できない、わかりえない主の計画があり、人間の計画はそれに勝るものでは決してないということです。しかし私自身がそうなのですが、人は弱さや罪深さゆえにそれを逆にしてしまい、「人の」計画や願望、情熱や感情、熱心だと思ったり敬虔だと思ったりするところに神のみ心や計画を当てはめたり、「これが正しい、このようになっていかなければおかしい」としてしまうものです。しかしそれはもはや主を主としておらず、自分が主であり「主は自分の願望に仕えるしもべ」としてしまっているでしょう。もちろんパウロが「禁じれれた」時、そう思ったかどうかはわかりませんが三人で祈りつつ計画しやって来たアジヤです。やり始めた宣教、そして福音の言葉で救われた人もようやく起こされていたかもしれない、しかしそれをが急遽「禁じられる」。それは信仰を試されることです。「これから」という時であったかもしれません。「これからこのアジヤでこれくらい宣教してそのあとはこちらへ行こう」という計画を立てていたかもしれませんが、「禁じられる」のですから「計画通りでなくなってしまう」という嘆きも言いたくもなりうる状況であったかもしれません。律法や人の栄光の視点から見ればそう見えるでしょう。しかし宣教とは律法ではなく福音であり「主がなす主の宣教」であるのですから、人の計画の通りではなく主の計画の通りだということなのです。その主の前に人そのものはパウロであっても誰であっても、その計画も思いも情熱も熱心も、どこまでも不完全で罪深いのです。
B,「罪人を用いて」
 パウロ自身、テモテという若い同行者を得て期待と夢を膨らませたことでしょう。事実、テモテは素晴らしい主の恵みの証しであり福音の実りの証しです。しかし人には信仰の思い、霊の思いだけでなく、肉の思いもあるもので、いつでも24時間完璧に霊的判断ができるなんてことはありません。パウロであっても神ではなく不完全な人間なので当然そうです。先はどうなるのかそれが正しい選択なのかも誰も断言できないものです。その時、耐えず「こちらにいけ」という声があるわけでもありません。そのように私たちがクリスチャンとなり信仰者になったからと、聖人になり何でも正しく判断ができ、何でも上手く正しく計画通り行くなんてことはないのです。しかしここにはだからこそ、一人の罪人であるパウロ、シラス、テモテの姿こそが描かれ、そして宣教、使徒、献身者とは言ってっても、宣教はそのように先も分からず主の御心とは異なる方向に行く罪人達こそを主は用いてであるということが何より示されているのではないでしょうか。聖人を用いてではなく、その罪人を用いて主がなさるからこそ宣教もクリスチャン生活も恵みであるし、計り知れない主の素晴らしい証しであることが見えてくると言えるでしょう。私たちをも同じように、このような罪深い私たちをイエスは愛し、み言葉を持って導き用いてくださっているその恵みが教えらます。「聖霊が禁じた」ーそこには裏返せばそのような素晴らしい主の恵みが現れているのです。
C,「見捨てたのではない」
 補足ですが、ここで「聖霊が禁じた」からこの地域の人々を主は見捨てたということではもちろんありません。すでに信じた人もいたことでしょうし、「聖霊が禁じた」のは、それはそのアジヤでの宣教にはさらなる「主の時」があるのです。そしてパウロだけが宣教者ではもちろんありません。他の使徒達や弟子達や、テモテやマルコのような若い世代の人々もいれば、そしてこのアジヤやさらにはその地域にあるルステラで救われたクリスチャン一人一人もキリストの証人なのですから、厳密な意味ではクリスチャンは皆宣教者です。そのようにパウロには禁じて、パウロにとっては主の時ではなくても、伝えられるのにも時があり、あるいは他の人によって伝えられる主の時も必ずあるわけです。ですから「聖霊が禁じた」地域は決して見捨てられた地域ではないということです。事実この地域にも福音は広がって行くことになるのですから。

3.「イエスの御霊は許さず」
「こうしてムシヤに面した所に来た時、ビテニヤの方に行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。」7節
 パウロとシラスとテモテの一行は、アジヤでの宣教を禁じられ一度西に向かいます。「ムシヤ」はギリシャとの国境のトルコ側の沿岸地域になります。彼らはそのムシヤに面するところまで来たのですが、しかしそこで「ビテニヤの方へ行こうとした」とあります。ビテニヤはそこから北東方向の黒海沿岸地域になりますから、禁じられて西に向かっていたのが、その禁じられたはずの東に引き返すような行動になるのです。どのような思いがそこにあったのかはわかりません。やはりアジヤ、ガラテヤ地方に熱い重荷があったのかもしれません。しかしそのような人の何らかの対象に対する熱心や情熱や思いで宣教が進むのでは決してないことが現れます。「ビテニヤの方へ行こうとしたが」しかしこうあるのです。
「イエスの御霊がそれをお許しならなかった」
 人の思いや情熱や計画をここでイエスは再び「否」といいそれを遮り修正するのです。このように宣教やクリスチャン生活においても、人生においても、人の計画はどんなに精密になされ、計画され進められてある程度はなって行ったとしても、あるいはそれがどんなに正しく、敬虔に見えたとしても、それを人は確かにすることやその良し悪しを判断することなど人の側では決してできません。ですから人の計画や情熱や功績を判断や信仰の基準にすることも決してできませんし黄金律やバイブルにすることなども決してできないのです。人や社会はそれをしてしまいますがそれは間違いです。ここから教えらるのことは、主の計画、はかりごとだけが確かであり、なって行くということなのです。

4.「イエスの道を行くこと」
 そしてここでパウロとシラスとテモテは、自分達で建てた様々な計画ではなく主の示すことに従うのです。みなさん、人の思いでは何とでも反論できるものです。「イエス様はそうは言っても、こちらの方が大事です。こちらの方が合理的です。いやそうではなく、こちらに行ったほうが、これこれの収穫を、実りを、救いの計画を実行でき、成功します。こうすれば解決します。うまくいきます。等々」、人の理由付けや合理的理由は挙げればきりがなく、それは神のみ言葉より強いように思えたり、最もなように思えたり、うまく行くように、合理的な方法に思えたりするものです。み言葉を聞いても「そうは言っても、現実は・・・・」その様な言い訳が口癖になってしまうこともあります。私たちにはイエスが私たちの思いや計画や願望と違う方向にみ言葉や約束を語るときに、むしろそれに反発しようとするものであり、従うことは決して簡単なことではありません。しかしそこで自分の思い期待することではなくても主の示される言葉に従うことこそが私たちに与えられている信仰であり、道であり真理でありいのちであるイエスの「道」であると言えるでしょう。むしろ信仰の道が私たちの思いや願望や欲望の通りになり目の前にはっきりと見えるものであるなら、それは進むべき道ではなく誘惑の道かもしれません。なぜならイエスが荒野で受けた三つの誘惑は、全てその目に見える願望や欲望に訴えるものであり、サタンはその目に見える道に従わせることによってイエスを自分に服従させる様に誘惑しました。皆さん「滅びに至る道は広く、救いの道は狭い」のです。イエスは「狭い門から入りなさい」と言っているでしょう(マタイ7:13〜14)。イエスは目に見えるその誘惑に従ったのではなく、目に見えない神の約束であり、みことばの約束でその誘惑を退ぞけたではありませんか。そしてその道は、人の目に見える華やかな広い豪華な成功の道ではなく、人が期待していた通りではない、救い主が犯罪人として罵られ、鞭打たれ、十字架につけられる道であったでしょう。欲望や感情をくすぐる目に見える自分の願望の通りの広い道は滅びに至る道です。救いの道は狭いですが確かでありそこに救いの門が開かれているのです。それはイエス・キリストであり、そのみ言葉なのです。
「信仰は望んでいる事柄を保証し目に見えないものを確信させるものです。ヘブル11:1
 パウロとシラスとテモテは、自分たちの計画した目に見える道ではなく、イエスがそちらに言ってはいけないというその言葉に真の望みがあるとして目に見えない事柄に従いました。そして再び示されます。

5.「御心とは」
「ある夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちは直ちにマケドニアへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」9〜10節
 マケドニヤは、トルコ側のエーゲ海沿岸にあるトロアスから海を渡ってギリシャ側へ渡った地方で、現在の旧ユーゴスラビアの地域になります。いわば文化の境界線を超えてギリシャ文化の溢れる地域に入っていきます。それ自体も非常に大変なことですが主はそこに幻を与えるのです。一人のマケドニヤ人が懇願して言います。「マケドニヤに渡って来て私たちを助けてください。」と。その幻も人の目から見れば不確かで信じがたいことです。そしてマケドニヤに何が待っているかわかりません。それは目に見えない事柄です。しかし目に見えない事柄に望みと約束をおかれるイエスに信頼するその信仰には、必ず明らかにされる主の御心があります。パウロはこの不確かな幻に主の御心を悟り望みを置くのです。「このためにこそこのマケドニヤへ、ギリシャ側へ渡らせるために、イエスは禁じ自分たちを導いていたんだ、彼らに福音を伝えることをイエスは計画されていて、そのためにイエスは常に導いていたんだ」と。そこには不思議な希望があふれています。
 皆さん、私たちは「御心を示して欲しい」と叫び「御心を示されなければ進めない」というかもしれません。しかしそれはある意味「はじめに目に見えるはっきりとしたものがなければ従えない」ということで「証拠がなければ信じない」と同じ論理です。しかし実は御心というのは、私たちが願望通りなったことをいうのではなく、み言葉にすでに示され約束されていること以上のことはありません。それは目に見える事柄ではなく、目に見えない事柄であり約束です。しかしその目に見えない事柄を確信させるのが信仰であると聖書にあるのです。「目に見える事柄を確信させるとか、願望通りになったことから確信させる」ではなく「目に見えない事柄を確信させる」とあります。つまりすでにある目には見えないことを約束するその約束を信じるときに確信が与えられるという意味です。ここにあるのはそれですね。聖霊によって禁じられている時は何のことからわかりません。神のみ心は何かと疑いたくなるほどです。しかし約束を信じて行った先に、主ははっきりとそのご計画が何であったのか、御心は何であったのかを確信させているでしょう。私たちが見えない事柄である約束を信じて従う時に、イエスは必ずその約束、イエスの言葉は真実であるという確信を与えてくださる。これが御心であったのかと気づかせてくださる。「「目に見える御心」が最初にあるから従う」ではなく、「目に見えない約束」に従った先に御心は明らかにされるなのです。だからこそいうでしょう。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28」
 と。みなさん。私たちも主が与えてくださる確信にこそ生かされて行こうではありませんか。イエスの言葉、約束は真実であり、それは福音の中にこそあります。その福音に聞き、約束を信じる信仰こそ救いの道、平安と自由の道であり、私たちはそこに生かされているのです。今日も罪赦された喜びをもってここから遣わされていきましょう。