2019年3月24日


「福音に導かれる教会の証し」
使徒の働き 16章1〜5節

1.「再びルステラへ」
「それからパウロはデルベに、ついでルステラに行った。」
 ルステラは先の宣教旅行で石打にあった町ですが、デルベはそのルステラの東で先の旅行の最後に訪れた街です。パウロはそのルステラに再度、向かうのです。石打に遭い死にそうになった場所です。普通であれば恐怖の思い出とトラウマが残るようなマイナスのイメージがつきまとうルステラであり、そのような場所に行きたくないというのが一般的な人間の心情かもしれません。しかし彼はそのルステラに戻るのです。それはそのような迫害の地であっても信仰を与えられキリストにあって生きるクリスチャンがいるからです。そのような場所ですから当然、困難の中にある教会であることが予想できるのですが、しかしパウロは「だからこそ」そのような彼らの信仰を福音で励ますことが必要だったと思われるのです。そんなルステラでは人の思いを超えた素晴らしい主の恵みを見ることができます。

2.「石打の先にあった主の計画」
「そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父としていたが、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」
 前回の宣教でバルナバとパウロは、このルステラでは特に予想もつかないようないくつもの出来事に直面しています。究極が石打であったのですが、最初は一人の生まれつき足の効かない人の癒しから始まります。ルステラの人々はその出来事で驚き最初はバルナバとパウロをギリシャ神話の神々がこられたと二人を祭り上げようとします。それに対して二人は「どうしてこのようなことをするのですか。私たちも皆と同じ人間です。自分たちは福音を伝えるためにきたのだ」と言って自分達を祭り上げるのを辞めさせます。それに対する群衆の反動なのか失望なのか、そこにやってきた反対するユダヤ人たちの扇動に人々は乗ってしまい最初は神々とさえ思って祭り上げようとしていたパウロを石打にするということに繋がりました。思うようにはいかない、それどころか人の目からみるなら間違った理解や悪意や災いとも言えるような、敗北とも失敗とも言えるような出来事でした。しかしそんな「人の目に見える現象」では、誤解や災いや石打ちの中の宣教で終わり、全て無駄のように思いたくなるようなことでありますが、果たしてそれは無駄であったでしょうか。敗北であり失敗であったのでしょうか。そんなことは全くないでしょう。
 たとえ一人でもその宣教で救われれば、決して無駄ではありませんが、少数でもそのユダヤ人たちの迫害とギリシャ神話の神々が崇拝されるような街で、キリストを信じる群れが起こされ教会が始まっています。それだけではありません。この苦難の地ルステラの群れからテモテという一人の信仰者が誕生しそのテモテに宣教の志、召命が与えられたのです。しかしそのテモテの信仰と召命はパウロが与え育てたわけではありません。パウロはそのルステラを再度訪れた時に、テモテの評判を聞き彼に出会うわけです。つまりパウロも宣教を開始した時や石打ちされルステラを去ったその時なども全く予想も計画もしていない、しかしその時、無駄に撒かれたようにさえ思えるかもしれないその福音の種が、その小さな群れの中でなおも誰かによって福音の言葉が語られ、人々が聞き続けられることで芽吹き成長してきているのです。それはルステラの教会やテモテの成長はパウロや誰か人の力やわざによると思うべきではありません。それは明らかにパウロの思いや計画を超えたものなのです。つまりこのことから指し示され教えられるのは、イエスのなさること、福音の力はなんと計り知れず偉大で無駄がなく全てが益とされ讃め称えられるべきかということなのです。人は大にして恵みよりも、自分の力や努力で信じたんだ、あるいは人の力で人を救ったり成長させたり実らせ刈り取ったりできると思いたいものです。だからテモテをパウロが見出し育てたと言う教えも良く聞きます。他の教会ではそのように福音から溢れ出る主の働きよりも、福音の先にさらに人のわざ、律法が必要だいうかもしれません。しかし聖書はそこには人の思いを超えた主の恵みと働きこそが何よりあって人は用いられているにすぎないことを伝えています。詩篇にこの約束の言葉があります。

3.「理解できない困難の先に喜びの収穫の束がある」
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる。」詩篇126篇5〜6節
 これは人の努力と苦労の先に実りがあるということを伝えてはいません。この詩篇126篇は、国の荒廃と失望と無駄と思われることばかりの民の現実の中にあって、神の国の約束や喜びは「主が私たちのために大いなることをなされる」と言う言葉が繰り返されているように「主によって元どおりにされる」ということを歌っている困難と試練の中での希望の約束です。その「喜びの収穫の束」は、涙を持って撒き、泣きながら出て言った時には思いも予想もしないことです。しかしその「喜びの束」は「主が大いなることをしてくださった」というその恵みによる実りとして神からその人の腕に置かれる束です。そしてそれが恵みであるからこそこの言葉は幸いなりと言えるでしょう。もし努力の先に報われるものとして聖書が書いているなら、書店で売っている自己啓発本やハウツー本や、他の宗教の律法的な教えと実は何ら違いはありません。パウロはこのルステラに帰ってきて、テモテに出会いその評判を聞いた時、彼は「『自分が』やってきたことの報い」に安心し喜んだのでしょうか。そうではないでしょう。肉の思いではそれはあったかもしれなくても、しかし信仰において、霊においては、主の恵み、苦難と、涙と、死を持って蒔いた無駄のように思える事柄を、主イエスは良いことの謀りごととしてくださったと主の恵みを賛美したのではないでしょうか。イエスも「実りは多いが、働き手は少ない。だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言っています(ルカ10:2)。「収穫の主」とはっきりと収穫するのは主であり、その働き手も勝手にその人が立ち上がるとか、誰かが勧誘するとか収穫するとかではない、「収穫の主」が「働き手」を送ってくださるように祈りなさいと、主が送ってくださるのでなければ起こらない主の恵みであることが示されています。その通りのことがテモテには証しされていることなのです。それこそテモテのお母さんや教会の兄弟姉妹は、希望を持って「送ってください」と祈ったことでしょう。そしてそれはパウロが受け入れなかった欠点や弱さがあったマルコであっても同じです。誰の思いや計画を超えて、テモテもマルコもぞれぞれ召され、彼らへの主からの召命は変わらず、彼らは用いられていくではありませんか。ここに律法ではなく恵みの福音があるからこそこの詩篇の言葉も幸いなりと言えますし、そしてこのテモテの召命と派遣も、人の思いを超えた主の恵みと賛美できるのではないでしょうか。同じように私達一人一人にも、昔も今も変わらない主の、変わらない召命があり、そして主が私たちをも主のご計画のため、そして誰かの喜びのために用いてくださることこそ変わらない約束、希望であり、召命も信仰生活も、そして宣教もそれは決して律法ではない、宣教は福音であり、福音の力であり、福音から溢れ出るものなのです。そのことがここから教えられることです。

4.「テモテに割礼を受けさせるパウロ」
 さて、そのテモテをパウロは宣教旅行に連れていきたいと思いました。しかしです。ここでパウロの行動は興味を引きます。3節
「パウロはこのテモテを連れていきたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシャ人であることを、皆知っていたからである。」
 パウロはテモテに割礼を受けさせました。これは不思議なことです。なぜならガラテヤ書2章にある通り、パウロは同じようにギリシャ人であったてテトスには割礼を受けさせることを頑なに拒んだからでした。どうしてでしょう。この違いは何でしょう。彼は矛盾しているのでしょうか?それとも彼は「救いは恵みのゆえに信仰によって」のその考えを、やっぱり「割礼も必要だ」とコロコロ変えて一貫していないということなのでしょうか?決してそんなことはありません。彼は一貫しています。彼は律法も割礼も悪だとは思っていないけれどもしかし割礼の律法にも割礼を受けなければ救われないという律法にもどんな律法にも全く縛られていないということで一貫しているのです。むしろ律法に縛られ律法の奴隷になることにこそ強く反対しました。それがテトスの場合です。テモテの場合は律法に縛られているのではなく、そこでは「強いられる」状況は無く、テモテの父がギリシャ人でなおかつ信仰者ではなかったということから割礼がユダヤ人の宣教のために混乱にならず、割礼を受けさせることが宣教のために妨げにならず良い方向に働くと律法を利用しているにすぎないのです。つまりテモテが割礼を受けなけらば救われないから受けさせるということでは決してありません。逆にテトスの場合はガラテヤ2章4節にある通りに「教会に忍び込んだ偽兄弟たちによって強いられる恐れがあった」とはっきりと書いてあります。15章で見てきたアンテオケでの出来事のことです。偽兄弟たちは異邦人も割礼を受けなければ救われないと割礼を強制しようとしたのでした。そのような割礼を強いるような偽兄弟たちに対してはパウロはこう書いていました。

5.「イエスにあって私たちの持つ自由」
「彼らは私たちを奴隷にし引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由を伺うために忍び込んだのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなた方の間で保たれるためです。」ガラテヤ2章4?5節
 と。それは自由の問題。ただの「自由」ではない「キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由」が脅かされる大事な問題でした。これは私たちクリスチャンにとってはとても大事な問題です。律法は聖なるものであり決して悪ではありません。それはどこまでも私たちがどうあるべきかの、人が神の前で、そして社会で生きていくのための指針が示されていて、それは「神を愛し、隣人を愛す」と言うことに要約できるとイエスも言いました。しかし聖書は律法を通してもう一つの圧倒的な事実を伝えています。それはその聖なる律法の前に誰も正しい人はいないと言うことでした。律法を受け取ったモーセでさえも罪深かったし、その父祖、アブラハム、イサク、ヤコブも罪人でした。ダビデは罪ゆえに神に憐れみと赦しを求めた悔い改めの人でもあったでしょう。律法を完全に行える人は一人もいません。律法の前に示されることは人は皆、神の前に罪人であり、誰一人断罪されることなく、誰も神の前に立つのことができないと言うことでした。ですから神の前に律法を行うことによって義を立て救いを得ようと言うことは、そもそもその罪のゆえに不可能であるだけでなく神に対する高ぶりであり、神は昔も今も恵み深い神でありその恵みのゆえに信仰者たちは導かれ祝福があったのにも関わらず、人にも自分達でそのことが出来ると言うのですから、それは私たちの目には一番敬虔そうに見えて、実はその神の恵みに反発し否定することでもありました。だからこそイエスは、自分が律法を行えているとか律法の行いによってこそ救いはあると主張したパリサイ派など宗教指導者たちにこそ厳しく対応してきました。
 しかしイエスが来られたのは、まさにそのような律法の前にどこまでも罪人でしかない私達の現実をご存知の上で、それを裁くためではなくその決して救われることがない律法の行いによる救いから解放し、恵みのゆえに信仰によって救われる神の国を与えるためであったでしょう。それはアブラハムの時から変わらない神の真理です。アブラハムもその信仰のゆえに義と認められたとあるのですから。同じように変わらない神から、私達が受けている救いも律法による救いではなく、そのイエス・キリストにある「恵みのゆえの信仰による救い」ですね?そうであると言うなら、イエスは律法の行いによる救いから私たちを解放したのであるなら、なぜその先に、そこから尚も、律法に生きることを強いることに戻る必要があるのでしょうか。ないでしょう。あったら福音を無駄にし神も聖書も矛盾します。キリストある新しいいのちの歩みにおいて、もちろん良い行い、神を愛することも隣人も愛することも新しい戒めとあるように極めて大事なことです。しかしキリストの十字架を前にするなら、そこに救いと新しいいのちがあるとするなら、そこには律法主義はもはや決して成り立たないのです。つまりそれらを強いたり義務化したり律法化することはそれはキリストの教えを矛盾に陥れることになります。キリストにある新しい命の歩みにもはや強制や律法主義は成り立たないのです。ではそこにあるのは何か?それこそ「キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由」です。イエスは私たちを律法の行いによる救い、律法の縄目、奴隷状態から私たちを解放し与えてくださったのは、キリストにある自由、福音による自由です。それは世が与えることが出来ないキリストが与える平安に基づく自由であり、律法が求める事柄を強いられてでも脅されてでもない、しなければいけないからでもない、イエスが一方的に私たちの罪を赦してくださり愛してくださり新しいいのちを与えてくださったからこそ、その平安と喜びが来て、そこから湧き上がる自由な行動です。パウロもルターも決して律法を悪であるとも言っていないし、良い行いをどうでもいいとか軽く見るとかも決して行っていません。むしろどちらの書物にも良い行いや隣人愛こそ強調されています。しかし彼らが律法主義と180度違い、彼らが対決したのはその見た目は同じ行いや愛がどこから出ているかの問題です。「強いられた律法から出ているのか、福音を動機にした自由から出ているか」です。そしてキリストが求めておられるは福音による自由、キリスト者の自由なのです。ですからある教会は、もちろん「律法の後に福音」と一致して言うでしょうけれども、しかし彼らはその後に結局は律法だと、福音から律法に戻ってしまい律法を動機にする強い傾向があります。彼らは福音から出るはずの「神への応答」さえ、しなければいけない」と律法にしてしまいます。しかし私たちルーテルでは律法の後に福音だけです。そこから律法には戻りません。新しい戒めへの言動力はもはや律法ではなく福音であり、福音こそ新しい生き方や服従の動機であり、それこそ偽善も何もない真の良い行いだと強調するのです。これが大事な自由の問題。パウロがテモテであってもテトスであっても一貫して信じていたことなのです。このところから私たちも幸いを得ます。応答は義務でも律法でもありません。私たちの今ある新しいいのちはどこまでも福音から始まるしどこまでも平安で自由なものなのです。その鍵になるのはどこまでも福音に聞き受けることです。ぜひ今日も受けましょう。罪赦されていることに平安を得、平安のうちにこの世で用いられていくことを祈っていきましょう。